東ローマ帝国とは、古代ローマ帝国の分割統治が開始された以降における、ローマ帝国の東側の国家です。東ローマ帝国は、ビザンツ帝国やビザンティン帝国と呼ばれることもあります。
「東ローマ帝国とビザンツ帝国はどう違うの?」
「東ローマ帝国の特徴や歴史を詳しく知りたい!」
この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、東ローマ帝国とビザンツ帝国はどう違うのか、また、東ローマ帝国の特徴や歴史などについて詳しく紹介していきます。
東ローマ帝国の政治体制から文化、宗教まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
東ローマ帝国とは
東ローマ帝国はいつ誕生した?
東ローマ帝国の始まりは、古代ローマ帝国が東西に分裂した395年とされています。
古代ローマ帝国を実質的に1人で支配していた最後の皇帝テオドシウスの没後、長男のアルカディウスが東半分を、次男のホリノウスが西半分を担当し、両皇帝によって分割統治される形となりました。これ以降、ローマ帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国の2つに分かれることになったのです。
しかし、東ローマ帝国初代皇帝となった東方正帝アルカディウスは政治に全く関心がなく、無能な人物であったことが知られています。
東ローマ帝国はどこにあった?
東ローマ帝国は、バルカン半島とアナトリア半島を中心とした、東地中海地域を支配していました。この地域は「文明の十字路」と呼ばれており、国家の興亡が激しいのが特徴です。
10世紀末から11世紀初頭にかけて訪れた最盛期には、東ローマ帝国はアナトリア半島とバルカン半島全土だけでなく、北シリアや南イタリアまでの領域を版図とし、東地中海に大帝国を築きました。
東ローマ帝国は東方のサーサーン朝ペルシアや新興のイスラム王朝、ローマ=カトリック教会など様々な勢力と対立し、時代の流れと共に国境が常に動いていましたが、最終的に東ローマ帝国はその厳しい地域において形を変えながら1000年以上も存続し続けることになります。
ビザンツ帝国とは?
ビザンツ帝国とは、東ローマ帝国の別名です。正式にビザンツ帝国という言葉が使われ始めたのは16世紀のことでした。また、「ビザンティン帝国」や「ビザンティオン帝国」と呼ばれることもあります。
これらの名称は、コンスタンティノープルの旧名である「ビュザンティオン」に由来し、ドイツ語の名詞「ビザンツ」、英語の形容詞「ビザンティン」、ギリシア語の名詞「ビザンティオン」の表記が元となっているのです。
日本の歴史学では主に「ビザンツ」と呼ばれ、美術や建築などの文化を呼称する場合には「ビザンティン」が使用されます。
東ローマ帝国はなぜ滅んだ?
395年に始まったとされる東ローマ帝国は、1453年に東方のイスラム王朝であるオスマン帝国による侵攻を受けて滅亡します。
全盛期には広大な東地中海地域を支配する強国だった東ローマ帝国でしたが、イスラム勢力の度重なる攻撃を受け、徐々にその国力は弱まっていきました。また、キリスト教勢力の十字軍によって帝都コンスタンティノープルを一時占領されてしまったことも衰退の原因の1つです。
そして、小国レベルにまで弱体化した東ローマ帝国は、トルコ人であるオスマン家出身の皇帝が統治するオスマン帝国の侵攻を受け、完全な滅亡を迎えることになります。
東ローマ帝国と神聖ローマ帝国の関係
中世ヨーロッパにおいて強大な影響力を保有していた東ローマ帝国と神聖ローマ帝国には、古代ローマ帝国を継承する国家であるという共通点があります。
古代ローマ帝国の東西分裂後、東ローマ帝国はおよそ1000年間存続しましたが、西ローマ帝国は476年に滅亡してしまいました。しかし、962年に東フランク王兼イタリア王のオットー1世が西方帝国の継承者として戴冠し、神聖ローマ帝国が誕生します。
神聖ローマ帝国は現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に広大な領土を支配し、1806年まで存続しました。