徳川家康には子供が16人もいました。妻も20人近くいて、家康が艶福家であることは結構知られていますよね。しかし、将軍の座を引き継いだ秀忠や、御三家を築く義直、頼宣、頼房以外の子供については、養子に入って名字が変わっていたり、若くして亡くなってしまったりと、さまざまな事情で歴史に埋もれている人も少なくありません。
この記事では徳川家康の子供たちについて、家系図を見ながらその生母や功績を紹介していきます。日本史上で有名な事件や人物が、家康の子供たちと繋がっていることも多く、この記事を通して珍しい日本史の横顔を覗くことができるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
家康の子供を家系図とともに紹介
子供は16人
徳川家康は実子が16人、養子を含めると40人近くの子供がいたと言われています。またこれ以外にも、家康のご落胤と噂されている子供も複数いました。
一番代表的なのは3代将軍家光でしょう。母は家光の乳母であった春日局とのこと。一方、春日局の出身である稲葉家には、2代将軍徳川秀忠と春日局との間に生まれたのが家光であるとする資料があります。果たして何が真実なのでしょうか?今も真相は藪の中です。
妻は18人
徳川家康には正室が2人いたことははっきりしていますが、側室の人数については記録にあるだけでも16人はいたようです。歴代の徳川家の将軍を見ても、この側室の数に匹敵するのは11代将軍家斉ぐらいのものです。息子の秀忠が側室は1人だったのは、正室の江との関係もあるでしょうが、この点では家康が反面教師だったのかもしれませんね。
子宝に恵まれなかった女性もいた一方で、家康の子供を3人以上産んだ女性は史料上では確認されていません。これは、家康が出産経験がある女性を好んでいたこと、そして特に晩年は若い女性を寵愛したことにも理由があるようです。
徳川家康の子供16人を紹介
長男:松平信康
信康は1559年に家康の嫡男として生まれました。母は今川義元の姪である正室の築山殿です。武勇にも優れた優秀な息子だったようですが、武田勝頼との内通の疑いを受け、1579年に家康の命で切腹させられました。享年21歳でした。信康殺害命令は、家康と同盟関係にあった織田信長によるものとも言われています。
長女:亀姫
亀姫は1560年に家康と築山殿の長女として生まれました。1576年、旧武田家家臣で三河新城の城主奥平信昌に嫁ぎます。亀姫は1622年に起きた、本多正純が2代将軍徳川秀忠暗殺を狙ったとされる宇都宮釣天井事件の黒幕という噂もあります。1625年に老衰により亡くなりました。
次女:督姫
督姫は1565年に今川家家臣鵜殿氏の娘である西郡局(にしのこおりのつぼね)が家康の次女として出産します。1583年、甲信地方をめぐる争いの和睦の条件として北条氏直に嫁ぎました。北条氏滅亡後、豊臣秀吉の仲介で1594年に池田輝政の継室となり、5男2女に恵まれました。1615年に疱瘡により他界しています。
次男:結城秀康
結城秀康は1574年に築山殿の奥女中であった於万の方(小督局)が出産した双子のうちの一人と言われています。1584年に小牧・長久手の戦いの和睦の証として秀吉の養子に迎えられました。年齢順で言えば次男の秀康は徳川家の後継ですが、三男秀忠の母の身分が高いことから、家康はこの時点ですでに秀忠を後継にする腹づもりだったと考えられます。
1590年には結城晴朝の養子となり、下総の豪族である結城氏を相続します。関ヶ原の戦い後には松平姓に戻り、福井藩67万石を支配しました。1607年、34歳で亡くなります。死因は梅毒とも言われています。
三男:秀忠
秀忠は1579年にお愛の方(西郷局)が家康の三男として出産しました。1590年に豊臣秀吉に拝謁した際、諱を与えられて「秀忠」を名乗るようになります。関ヶ原の戦いに遅れて家康に怒られるなど失敗もありましたが、1605年に家康の後を継いで江戸幕府2代目将軍に就任しました。継室は浅井長政の娘である江です。
武家諸法度や禁中並公家諸法度などを定め、幕政確立に務めます。1632年に亡くなりました。死因は胃がんと考えられています。
四男:忠吉
秀忠の同母兄弟となる忠吉は1580年に生まれました。1581年に東条松平家の家督を継ぎます。1592年には井伊直政の娘を正室に迎え、関ヶ原の戦いでは岳父とともに島津勢を追い詰めるなど活躍します。家康からは戦功として尾張清洲城主となり52万石を与えられましたが、関ヶ原で負った傷がもとで1607年に亡くなりました。
三女:振姫
1580年に生まれた振姫は、母は下山殿(於都摩の方)もしくはお竹と言われ、どちらも甲斐武田氏旧臣の娘です。1598年に豊臣秀吉の命令で会津若松城主の蒲生秀行に嫁ぎますが、1612年に死別。1616年には紀州国和歌山藩2代目浅野長晟(ながあきら)に再嫁しましたが、息子の光晟を出産後、亡くなりました。
蒲生家の振姫の遺児たちは若くして亡くなりますが、光晟は父の長晟が移封された安芸国広島藩の藩主の座を継ぎました。浅野家は明治維新まで広島藩を治めることになります。
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