平清盛の死因はマラリア?インフルエンザ?有力説や最後の様子を紹介

「平清盛の死因って何?」
「最後の様子を具体的に知りたい…!」

平清盛は平安末期の武将・公卿です。当時公家社会だった日本で、初めて武家政権を樹立した人でした。藤原氏が世襲していた太政大臣の位につき、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉が残されている悪役として語られることも多い武将でもあります。

平清盛、武家でありながら太政大臣になった
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この言葉を言ったのは、実は清盛の義弟の平時忠だといいますが、清盛は初めての武家政権のため公家に好意的に見られていなかったこともあり、壮絶な最後は詳細に記録に残されています。壮絶だったという平清盛の死因と最期の様子はどうだったのかをこの記事では紹介します。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

清盛の死因は?

沈む日輪まで意のままにしようとしている平清盛の画、どんな人物でも死は訪れる
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平清盛の死因は幾つか考えられています。当時の記録に残されている病状から推察した説を紹介します。

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有力なのはマラリア説

一番有力なのはマラリア説
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平清盛の死因で一番有力視されている死因はマラリア説です。平家物語の記述によると、突然高熱で倒れ、発病から5日後に亡くなったと書かれています。記述によると、

  • 石のふろに比叡山で汲んできた水を入れて浸かるとあっという間にお湯になってしまった
  • 水をかけると蒸発し、黒煙が部屋中に立ち込めた
  • 身体が熱くて清盛の周囲に近づくのが大変だった
  • 清盛はただ「熱い熱い、痛い痛い」というばかりだった

といわれています。物語のために誇張と考えられる部分が見受けられますが、とにかく高熱が出て大変だったことは伝わってきます。

マラリアは蚊によって広まるという
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これらの内容から、マラリアが高熱や頭痛・吐き気が起こり、悪寒が酷く起こる病気であり清盛の症状と合致すると考えられています。マラリアは40度近くの高熱が、48時間おきや72時間おきに繰り返すといわれ、死亡率の高い病でした。

ただし清盛の亡くなったのは冬であり、蚊を媒体して感染するマラリアが一般的に起きない時期でもあります。それでも絶対無いとは言い切れないため、マラリア説に疑問を投げかける意見も見受けられますが、今でも一番有力と考えられているようです。

インフルエンザ説や脳出血説も

インフルエンザウイルス、この病も特効薬が無い時代は死亡率が高かった
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高熱が出て冬に死去したことからインフルエンザ説も考えられています。インフルエンザは1月から3月に感染者が急増し、呼吸器系が重症化すると死亡率も高い病です。インフルエンザも高熱が特徴で、嘔吐や頭痛も併発します。清盛の高熱が続くという症状からも説得力がある説と考えられています。

髄膜炎は炎症により酷い頭痛と高熱を引き起こす
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また同時代の公家・九条兼実の日記「玉葉」には、清盛が2月27日に「頭痛を病む」と記しています。そのために脳出血や髄膜炎を疑う説もあります。確かに髄膜炎も高熱が出て頭痛という症状がでると同時に、妄想や意識混濁が現れることも多いといわれています。

危篤時に遺言を清盛が残したという事実があるのでそのあたりが疑問視されていますが、説の一つと考えられています。

怨念だとも噂されていた

当時怨念によるものだろうと噂された平清盛、閻魔大王と祈る家族も描かれている
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死因が何であれ、平清盛は最期非常に苦しんで亡くなったために、怨念によって殺されたのだろうと当時噂されていたようです。京の町の人たちも、「悪行の報いが来たぞ」と囁いたといわれています。そして清盛の妻・時子は地獄から獄卒が迎えに来る夢を見たといいます。

清盛の高熱による急死は、後世「怨念の報い」と考えられ創作作品にも描かれています。明治に描かれた東錦絵には、重ねた悪行のために成仏できそうにないと自分の顛末を憂いて、閻魔大王が病床の清盛の元に現れ部下の報告を聞いている様子を描いた「平清盛炎焼病之図」が描かれました。

平清盛の最期の様子は?

百人一首の撰者で有名な藤原定家の日記にも最期の様子が記されている
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平清盛の最期の様子は、平家物語や公家の日記から、かなり詳細なことがわかっています。今から平清盛の最期の様子を見ていきます。

“あつち死に”という壮絶な最後だった

明月記、多くの歴史的事実が載っている貴重な資料となっている
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平清盛は前述のとおり高熱により死去しましたが、平家物語では「あつち死ぞし給いける」と書かれていました。“あつち死に”とは恐らく、熱さのあまり死んでしまったと解釈されています。平家物語の表現は誇張が目立ちますが、百人一首を作った藤原定家の日記「明月記」にも、

「去る夜戌の時(午後8時)、入道前太政大臣已に薨ずるの由、所々より其の告げあり。或は云ふ、臨終動熱悶絶の由」

動熱悶絶という表現からも如何に高熱が出ていたのかを感じることができる

“動熱悶絶”という表現が使われ、激しい熱病症状で苦しんで亡くなったことが想像できます。清盛が熱病にかかった時は全国各地で源氏が反平氏に挙兵しており、その征伐のために東国に挙兵した最中での出来事でした。

平清盛が最期に残した言葉

清盛が死去したとき、源氏が全国で挙兵し始めた頃だった
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平清盛は発病から5日で死去という急な死でした。最期を悟った清盛は妻の時子に、

「現世での望みについて、ひとつも心残りはない。ただ思い残すことがあるとすれば、伊豆の国に流した前兵衛佐の頼朝の首を見なかったことである。私が死んだ後は、堂や塔を建てての供養はするな。すぐに頼朝に討手を遣わして、頼朝の首を刎ね、私の墓のまえに供えよ。」

と語ったといわれています。葬儀はせずに、ただ頼朝の首を備えることを遺言したのです。そして、

平宗盛は正妻時子との間の長男だった
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「天下の事は宗盛に任せ、異論するべからず」

と言い残し、鴨川東岸にある平盛国の邸宅で没したといいます。享年64歳でした。また清盛は臨終の直前、後白河法皇に宗盛と協力して行うよう奏上していますが、返信がなく恨んで死去したと伝わっています。

壇ノ浦の戦い、安徳天皇を含め多くの平氏が海に飛び込み命を落としたという
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結局清盛の死後、平家の棟梁には遺言通り平宗盛が継ぎますが、全国各地の反乱に対処できず平家は次第に追い詰められていきました。

そんな中清盛の死の半年後に源頼朝が密かに平家に和睦を申し入れていますが、宗盛は「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べ和睦を拒否しています。結局平氏は西国に逃れ、清盛が亡くなった4年後の1185年に壇ノ浦の戦いで敗退し滅亡しました。

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平清盛の死因に関するまとめ

今回平清盛の死因を執筆しましたが、最期の様子を書いた資料も多く当時の人が如何に良くも悪くも“平清盛”という人物に興味を持っていたのかがわかる執筆となりました。最初に武家政権を樹立した人物の宿命で、多くの人に恨まれ妬まれ、だからこそ武士で初めて太政大臣に慣れたのだろうとも感じました。

政情が安定しない時の死去は非常に無念だっただろうなと思うと同時に、歴史の皮肉も感じてしまった次第です。平清盛の死因を通してまた違った角度の歴史を垣間見ることが出来ました。

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