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平清盛とはどんな人物か?生涯・年表まとめ【功績や逸話も紹介】

「平清盛ってどんな人物?」
「平清盛は何をした人?」
「平清盛の死因は?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?平清盛は平安時代の末期に活躍した武士です。大河ドラマの主人公にもよく取り上げられる人物ですね。

日宋貿易で得た巨万の富を財源として勢力を拡大、保元の乱や平治の乱で活躍し武士で初の太政大臣となりました。

幕末に描かれた平清盛(本の挿絵)

戦乱で勝利し強大な平時政権を築いた平清盛。権力や富による独裁から怖いイメージがある人もいるかもしれません。

しかし、清盛は人の心を汲む優しい一面があるなど、意外な人物像も持ち合わせています。また、世間ではあまり知られていない様々な功績も残しているのです。

今回は、そんな平清盛の生涯を功績・伝説を交えわかりやすく解説します。

平清盛とはどんな人物か

名前平清盛
生年月日1118年2月10日
没日1181年2月4日
生地伊勢産品(現在の三重県津市)、京都府京都市という説もある。
没地京都府京都市下京区屋形町7
配偶者高階基章の娘(名前不詳)、平時子(清盛没後は二位尼と称した)
埋葬場所播磨国山田法華堂(現在の神戸市垂水区西舞子町付近)という説が有力

平清盛の生涯をハイライト

瀬戸内海の海賊討伐で名をあげた清盛の父、平忠盛

平清盛は1118年に伊勢平氏を率いる平忠盛の子として生まれました。平忠盛は院政期に活躍した人物です。父忠盛の死後、清盛が家督を相続し伊勢平氏の棟梁となりました。清盛が飛躍するきっかけとなったのは保元の乱です。

海側から見た厳島神社

保元の乱勝利に貢献した清盛は播磨守・大宰大弐という地位を手に入れます。播磨守となり現在の神戸付近で管理権を、大宰大弐となり外国船が入港する博多港の管理権を得た清盛は、日宋貿易を盛んに行い巨万の富を手に入れました。厳島神社を篤く信仰したのも日宋貿易の航海の安全を祈ってのことです。

平治の乱で、清盛は源氏の棟梁である源義朝に勝利し武士としてナンバー1の力を手に入れました。以後、清盛は異例の出世を遂げ1167年に朝廷で最高位の太政大臣となります。こうして、清盛をはじめとする平氏一門が栄華を極めた平氏政権が誕生しました。

鹿ケ谷の陰謀が発覚し、喜界島に流された俊寛

しかし、清盛の後ろ盾となっていた後白河法皇が清盛の力を削ごうとすると二人の関係が急速に悪化しました。その後も二人の関係は改善せず、1179年に清盛がクーデタ(治承三年の政変)を起こし、後白河法皇の院政を停止します。

こうした清盛の姿勢に反発した人々は、以仁王の令旨をきっかけに各地で挙兵します。その代表が源義仲や源頼朝でした。清盛は彼らを追討しようとしましたが、志半ばで病死しました。死因は熱病とされます。

絶大なリーダーシップの持ち主

平清盛が平氏の勢力を大きく広げることができた理由として、清盛自身が絶大なリーダーシップを発揮していたことが挙げられます。

長の資質を発揮し平氏勢力を拡大した清盛

保元の乱においては、清盛の叔父にあたる平忠正が敵方についたものの、それ以外の戦いにおいて平氏は基本的に一門で同じ側に組しました。清盛の言うことに皆従うのです。そのため清盛には独裁者のような怖いイメージもあるかもしれません。

しかし、清盛は人の心を汲む優しい一面もありました。源頼朝の助命がいい例です。清盛の継母にあたる池禅尼(平宗子。夫忠盛が亡くなって出家していました。)が、平治の乱で捕らわれた頼朝を見て、亡くなった我が子に似ているから命を助けるよう願い出ます。

平氏の棟梁としては、のちに禍根を残さないためにも、源氏の嫡流である頼朝は生かしておいてはならないはずです。しかし清盛は頼朝を流罪にして生かしました。

後年になって平氏はその頼朝に滅ぼされてしまうわけで、平氏としてはこれは失策だったのかもしれません。しかしこの一件から、清盛が意外と情にもろい性格だったことがわかります。

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熊野三社や厳島神社を篤く信仰

熊野三社の一つ、熊野那智大社

平清盛は熊野三社や厳島神社を篤く信仰しました。平安時代の末期、上皇をはじめとする上流階級の間で熊野三社への参詣(熊野詣)が大流行します。清盛も盛んに熊野詣を行いました。そのため、平氏の隆盛は熊野三社のご加護だと噂されます。

また、清盛は広島県の厳島神社についても篤い信仰を寄せました。彼は厳島神社に莫大な寄進を行い、瀬戸内海航路の安全を祈願します。瀬戸内海が清盛の財源ともいえる日宋貿易で重要な航路だったからです。

天皇の外戚となった

清盛は自身の娘を高倉天皇に嫁がせ、高倉天皇との間に生まれた子安徳天皇が即位、天皇の外戚となりました。外戚とは、天皇の母方の一族のことです。清盛は、天皇家の親戚となることで権力を強めたといえます。

天皇家の外戚となり、摂関政治をおこなった藤原道長

このやり方は藤原氏の摂関政治と同じでした。妻の実家が子供の後見役となるのが常識だった平安時代に、藤原氏や清盛は天皇の義理の祖父となり、政治の実権を握ったのです。

平清盛の死因は熱病

熱病に犯され、地獄の炎に焼かれる平清盛

1181年、平清盛は原因不明の熱病に倒れ、回復することなくそのまま亡くなりました。『平家物語』では

「病付き給ひける日より、水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中うちへ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希
まれ也。宣ふ事とては、「あたあた」と計ばかり也」

と清盛が高熱で苦しむ様子が克明に描写されています。清盛の病気は肺炎説やマラリア説、脳出血説、溶連菌感染症説など様々ですがどれも決め手を欠くものです。いずれにせよ、高熱を発し、それが原因でなくなったのは間違いなさそうですね。

平清盛の功績

功績1「保元の乱・平治の乱に勝利した」

平清盛は保元の乱と平治の乱に勝利して権力基盤を固めました。保元の乱は天皇家と摂関家の跡継ぎ争いです。この乱のとき、清盛は後白河天皇に味方し、天皇側の勝利に貢献します。乱の終結後、清盛は播磨守や大宰大弐の地位を与えられました。

平治の乱で討ち取られ長刀に吊るされた信西の首

平治の乱は勝者となった後白河上皇の側近どうしによる権力争いです。清盛は藤原信西と協力関係にありましたが、清盛が京都を留守にした隙に源義朝らが信西を殺害しました。知らせを聞いた清盛は直ちに京都に戻り、源義朝らと戦って勝利します。二つの乱に勝利したことで清盛は武士ナンバー1になりました。

功績2「武士で初の太政大臣となった」

1167年、平清盛は武士で初の太政大臣となりました。これは、異例のことです。祖父の平正盛は従四位下、父の忠盛は正四位上です。二人とも最高ランクの貴族といえる公卿(従三位以上)になることはできませんでした。

これに比べ、清盛はほぼ最高位といってもよい従一位に任じられます。しかも、皇族や一部の上級貴族しかなることができない太政大臣にも就任しました。もはや、清盛は武士ではなく貴族といってよいでしょう。

功績3「日宋貿易を盛んにした 」

貿易港として大輪田泊(現在の神戸港)を修築した平清盛
日宋貿易とは?いつどこで行われた?繁栄した港や輸出入品まで簡単に解説

平清盛は日宋貿易を盛んにしました。日宋貿易とは日本と中国の宋(南宋)との間で行われた貿易です。日本からは金銀や銅が輸出され、宋から宋銭や中国製の陶磁器、絹織物などが輸入されました。

日宋貿易で大量に流入した宋銭は、それまで絹や米を中心とする物々交換主体だった日本経済を銅銭を利用する貨幣経済に移行させる役割を果たします。また、宋から輸入した陶磁器などは「物」とよばれ、貴族階級の垂涎の的となりました。清盛は日宋貿易で得た利益や物を使い、中央政界で異例の出世を遂げます。

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