「石田三成に子孫っているの?」
「子孫がどの地域にいたのか知りたい!」
「現代で活躍する石田三成の子孫って誰?」
石田三成は、豊臣秀吉を長年傍から支えた人物です。秀吉の死後には天下をかけ徳川家康と争うものの、敗れ処刑されました。有名な「天下分け目の戦い」ですね。
歴史上でも有名な石田三成の最期ですが、気になるのは子孫の存在。石田三成が処刑されこの世を去った後、子孫がどうなったのか、その行方が知りたい方も多いのではないでしょうか?また、石田三成の血を引き現代でも活躍する子孫がいるのか気になっている方もいるはず。
そこで今回は、石田三成の子孫についてご紹介。子供の詳細はもちろん、所在や現代で活躍している子孫も紹介します。
石田三成の子孫がどのような生涯を送ったのか、その行方に迫っていきましょう。それでは参ります。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
石田三成に子孫はいるのか
結論から伝えると、石田三成の子孫は、存在しており、現在も活躍しています。関ヶ原の戦い後、三成は処刑されました。
しかし、子供たちは出家していたり、他家に匿われたり、すでに他家に嫁いでいたことによって3男3女全員が生き延びていました。
下記からは関ヶ原の戦い後、三成の子供たちがどのようにして生き延びたのか見ていきましょう。
石田三成の6人の子供を紹介
長男:石田重家
石田三成の長男・石田重家は天正11年(1583)ごろ、生まれたとされています。慶長4年(1599)に三成が加藤清正や福島正則など7人の武将に襲撃され、五奉行の座を退くと、重家は父に代わって豊臣秀頼に奉仕。また、意外なことに徳川家康に可愛がられていました。
重家は関ヶ原の戦い時、秀頼のいる大坂城にいました。そして、三成が敗北すると、京都にある妙心寺で出家。名前を済院宗享と改めました。
重家は妙心寺の住職・伯蒲慧稜(はくほえりょう)が幕府に助命嘆願した尽力とまだ10代だったことから、処刑されませんでした。その後、妙心寺内の寿聖院を受け継ぎ、貞享3年(1686)に104歳で亡くなりました。
次男:石田重成
石田重成は石田三成の次男で、豊臣秀頼の小姓を務めていました。関ヶ原の戦い後、大坂城にいた重成は同じ小姓の津軽信健に匿われ、津軽地方(現在の青森県西部)へ落ち延びます。
重成はその地で杉山源吾と名前を変え、津軽家に手厚く保護されました。
死亡年に関しては諸説あり、慶長15年(1610)に若死にしたとも、寛永18年(1641)に53歳で亡くなったともいわれています。
三男:石田佐吉
関ヶ原の戦い時、石田三成の三男・石田佐吉は兄たちとは違い佐和山城にいました。佐和山城にいた西軍は東軍の包囲に耐えきれず、開城交渉を行います。
その最中、援軍の裏切りにより東軍が攻めてきてしまい、佐吉の祖父で三成の父・石田正継と三成の兄・石田正澄は自害を余儀なくされました。
この事態に怒った正澄の家臣・津田清幽(つだ-きよふか)は徳川家康に直談判。出家を条件に佐吉の命を救いました。
その後、木食応其(もくじきおうご)のもとで仏門に入り、佐吉は命の恩人・津田清幽にあやかって名前を深覚坊清幽(しんかくぼうせいゆう)としました。
長女:山田勝重の妻
石田三成の長女は、関ヶ原の戦いの前に三成の家臣・山田勝重に嫁いでいました。
関ヶ原の戦いの敗北で石田家が衰退すると、勝重は徳川家康の側室・茶阿局の甥だったので、茶阿局が生んだ松平忠輝(家康の6男)に仕えます。
しかし、忠輝が慶長20年(1615)の大坂の陣での失態で改易される(諸説あり)と、勝重は妻の妹・辰姫を頼り150石の領地をもらいました。
次女:小石殿
小石殿は石田三成の次女で、長女同様に関ヶ原の戦いの前には蒲生家家臣・岡重政のもとにいました。関ヶ原の戦い後は、重政と蒲生家の新しい領地会津(現在の福島県)に移り住みます。
そして、重政が蒲生家中の対立に巻き込まれ切腹をすると、小石殿は会津を離れ若狭(現在の福井県)に身を置き、亡くなりました。
小石殿は自身の子・岡吉右衛門を若狭へ連れて行かず、重政の補佐役だった町野幸和に託します。吉右衛門は幸和の娘・於多阿(おたあ)と結婚し、江戸で暮らしました。
三女:辰姫
石田三成の三女・辰姫は天正20年(1592)に生まれ、慶長3年(1598)には豊臣秀吉の正室、高台院の養女となっていました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで三成が敗北すると、津軽信健によって次男・重成と津軽へ逃れます。
辰姫は慶長15年(1610)に弘前藩2代藩主の津軽信牧(つがる-のぶひら)の正室となりました。2人の仲は良好でしたが、慶長18年(1613)に徳川家康は自身の養女・満天姫(まてひめ)を信牧に嫁がせます。
信牧は家康にはばかって、満天姫を正室に、辰姫を側室にしました。また、辰姫は飛び地だった上野国大舘(現在の群馬県)に移され、その地に住んだことから大舘御前とも呼ばれています。
辰姫のことを忘れられなかった信牧は、参勤交代の時には必ず辰姫のもとへ訪れました。そして、元和5年(1619)に津軽信義を産むと、4年後の元和9年(1623)に32歳で亡くなりました。