巌流島の戦いは、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島にちなんで名づけられた言葉です。某有名漫画にて巌流島の戦いが取り上げられたため、宮本武蔵と佐々木小次郎の名前を聞くだけで、巌流島の戦いを連想させるほど人気の戦いとなりました。
とはいえ、読者の皆さんの中には、
「巌流島の戦いが起こった経緯がわからない…」
「宮本武蔵と佐々木小次郎、結局どっちが勝ったの?」
「宮本武蔵が遅刻したって本当?」
といった疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。戦いのあらすじはもちろん、噂の真実を確かめたい方もいるはず。
そこで今回は、江戸時代の剣豪たちを調べていくうちに巌流島の戦いについて詳しくなった筆者が、巌流島の戦いをあらすじから登場人物、噂の真実までわかりやすく紹介します。
この記事を読めば、巌流島の戦いを裏側まで理解できるだけでなく、歴史を紐解く楽しさも味わえるでしょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
巌流島の戦いとは?
年月 | 慶長17年(1612) 4月 13日 |
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場所 | 巌流島(山口県下関市) |
対戦 | 宮本武蔵 対 佐々木小次郎 |
勝敗 | 宮本武蔵の勝利 |
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘
巌流島の戦いは慶長17年(1612)4月13日に船島(後に巌流島に改名)で行われた宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘です。1935年に発行された吉川英治氏の小説『宮本武蔵』で一躍武蔵が有名になったことで、自然に巌流島の戦いも注目を浴び、佐々木小次郎も人気となりました。
巌流島の戦いが起きた原因
宮本武蔵と佐々木小次郎はどうして巌流島で戦ったのでしょうか?戦いの原因は宮本武蔵と佐々木小次郎の弟子たちの口論により、どちらが強いか勝敗を決めることになったからでした。
佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を創設し、小倉藩の剣術指南役を務めていました。そんな彼のもとに、二天一流を創設した宮本武蔵が新たな剣術指南役として雇われます。
互いに剣術指南役で、かつ剣の腕が立つということもあり、弟子たちの間で2人の優劣を決める口論が勃発。これを止めるために武蔵と小次郎は巌流島で戦うことになりました。
巌流島の戦いの背景には政治的陰謀も
また、巌流島の戦いの原因には小倉藩の政治的陰謀も隠れていました。関ヶ原の戦いの後、小倉藩を治めることになった細川忠興は、剣術指南役で佐々木小次郎を登用します。
これは天正15年(1587)に起きた豊前国人一揆で豊臣軍に対抗した豪族・佐々木家を懐柔する思惑がありました。細川家のもとで重宝されましたが、弟子を増やしていく小次郎に細川家重臣たちは、いつか反乱を起こされるのではないかと危機感を覚えていきました。
そこで重臣たちは吉岡一門を壊滅させた宮本武蔵を召喚。2人の弟子たちをけしかけたことで決闘の藩命が下り、戦いをしなければならない状況を作り出しました。
さらに戦いの地に巌流島を選んだ理由は、小十郎が武蔵に敗れた際、逃げられる環境を作らせないためでした。
巌流島の戦いの勝敗は?
巌流島の戦いは宮本武蔵の勝利で幕を閉じます。戦いの様子は武蔵の養子・宮本伊織が記した『小倉碑文』によると、
「電光猶ほ遅きが如し」
とあり、目にも止まらぬ速さで佐々木小次郎を倒したことがわかります。
巌流島の戦いにおける主要人物
宮本武蔵
宮本武蔵は江戸時代の剣術家で、2振りの刀を使用する二天一流の創設者でもあります。武蔵が生前著した『五輪書』は海外でも読まれている名著です。
天正12年(1584)に生まれた武蔵は13歳で初めての決闘に勝利したことを契機に、29歳までには約60回に及ぶ戦いに、すべて勝利しました。特に21歳の時に戦った天下の兵法者とされる吉岡一門との戦いは、吉川英治氏の『宮本武蔵』をはじめ、多くの作品に影響を与えています。
また、武蔵は宝蔵院流槍術の使い手・奥蔵院日栄、鎖鎌の使い手・宍戸某、柳生新陰流の使い手・大瀬戸隼人、辻風左馬助とも戦いました。しかし、事実に乏しく、創作ではないかと疑問視もされています。
決闘での戦いもさることながら、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは黒田官兵衛に従い東軍として戦い、慶長19年(1614)にかけて行われた大坂の陣では、水野勝成の客将として戦ったこともあり、大人数の戦いでも活躍を見せました。
佐々木小次郎
佐々木小次郎は江戸時代に活躍した剣豪です。豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)の豪族佐々木家のもとで生まれ、山伏の修行によって18歳で巌流を創設しました。ちなみに巌流の名は佐々木家の居城だった岩石城からつけています。
その後は小倉藩の剣術指南役として抜擢されました。小次郎は戦国時代の剣豪・富田勢源の弟子だったこともあるので、慶長17年(1612)に行われた巌流島の戦い時の年齢は、少なくても50歳を過ぎていたと考えられています。