巌流島の戦いが起きた経緯
門弟たちの口論から戦いへ
巌流島の戦い当時、小倉藩には佐々木小次郎と宮本武蔵、2人の剣術指南役がいました。佐々木小次郎は巌流を創設した剣豪、宮本武蔵は数々の戦いで勝利した無双の剣豪。
武蔵、小次郎共に強かったことで、2人の弟子たちはどちらが強いか口論を起こしてしまいます。そして、口論はやがて2人の決闘で決着をつけることになり、巌流島で雌雄を決しました。
刀と櫂の戦い
巌流島の戦い時、佐々木小次郎は刃渡り約1メートルもある備前長光を使用し、武蔵は船の漕ぎ手からもらった櫂(オール)の手元を削って、約90センチと約50センチの木刀にして使用します。
武蔵が刀を使わず木刀を使用していた理由は、人を殺すことを嫌っていたからでした。数々の決闘でも木刀を使用した武蔵は、巌流島の戦いでも櫂を用いた木刀を使用しました。
勝者は宮本武蔵
巌流島の戦いは雷よりも早い一撃を浴びせた宮本武蔵の勝利で終わりました。それ以降、舟島と呼ばれていた戦いの場所は、佐々木小次郎のお墓を作ったことで、小次郎が創設した流派・巌流にあやかり「巌流島」と呼ばれました。
巌流島の戦いにおける3つの真実
巌流島の戦いは創作が入り混じった部分も多くあります。ここでは実際に巌流島の戦いで起こった真実を紹介していきたいと思います。
真実1:宮本武蔵は戦いに遅刻していなかった
巌流島の戦いは宮本武蔵が2時間以上遅刻して佐々木小次郎を怒らせたことが一般的となっています。しかし、実際には遅刻していませんでした。
武蔵の養子・宮本伊織が残した『小倉碑文』には
「両雄同時に相会し」
とあり、武蔵は遅刻していなかったことがわかります。武蔵の遅刻が定着した要因は、吉川英治氏の小説『宮本武蔵』での描写が背景にありました。
真実2:佐々木小次郎は宮本武蔵の弟子たちに撲殺された
一対一の戦いであった巌流島の戦いに、宮本武蔵は弟子たちを巌流島に忍ばせていました。そして、武蔵が佐々木小次郎を倒した後、弟子たちは起き上がってきた小次郎を袋叩きにしました。
武蔵の弟子たちによって小次郎が殺害されたので、報復のために小次郎の弟子たちが武蔵を殺そうとします。しかし、武蔵は門司城(巌流島の対岸)にいた城代・沼田延元を頼ったことで、難を逃れます。
その後、延元の護衛のもと、武蔵は父がいる豊後国(現在の大分県)まで無事に戻りました。
真実3:佐々木小次郎は生涯一度も姓を名乗らなかった
巌流島の戦いで宮本武蔵と戦った佐々木小次郎ですが、一度も佐々木姓を名乗ったことはありませんでした。『小倉碑文』には巌流と、沼田延元の子孫が残した『沼田家記』には小次郎と記されているだけで姓に触れていません。
しかし、佐々木小次郎として姓名が定着したのは安永5年(1776)に書かれた『二天記』からです。その頃には狂言や人形浄瑠璃で巌流島の戦いを扱った作品が多く上映され、そこでの小次郎は佐々木巌流の名で登場していることから、佐々木姓を採用したと考えられます。
巌流島の戦いに関するまとめ
今回は、巌流島の戦いについて解説しました。
巌流島の戦いは宮本武蔵と佐々木小次郎の名を有名にした戦いと言っても過言ではありません。また、有名であるがゆえに創作により、史実での様子を歪められている戦いでもあります。
しかし、このような背景があるからこそ、巌流島の戦いは宮本武蔵や佐々木小次郎のイメージを定着させたことも事実。歴史には良い面も悪い面も両方あるので面白いですね。
この記事を通して、巌流島の戦いについて興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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