夏目漱石(なつめ そうせき)慶応3年(1867年2月9日)〜大正5年(1916年12月9日)は明治時代の小説家です。小説「こころ」は高校現代国語の教科書の定番でもあり、誰もが一度はその作品に触れているのではないでしょうか?
近代文学史上、漱石は明治の大文豪ですがその活動期間は意外に短く、処女作「吾輩は猫である」を執筆したのは38歳、死により未完で終わった「明暗」執筆は49歳の時でした。
小説家漱石の実質的な活動期間は、約10年間だけなのです。その10年の間に「こころ」「道草」「それから」など文学史に残る多くの作品を手がけました。
漱石の一生は明治という時代とともにありました。日本が近代国家となり、国家システムや政治だけでなく、文化も文学も生まれ変わっていく激動の時代の中で、漱石は小説家として新時代のスタンダードを作った人物と言っても言い過ぎではないかもしれません。
いま漱石を読むということは、日本の近現代文学を見つめ直すことにつながるでしょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
夏目漱石とはどんな人?
名前 | 夏目漱石 |
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本名 | 夏目金之助(一時養子に出され塩原の姓を名乗る) |
誕生日 | 1867年2月9日 |
生地 | 東京(江戸牛込馬場下横丁/現在の新宿区喜久井町1番地) |
没日 | 1916年12月9日(49歳) |
没地 | 東京(早稲田南町7番地の自宅) |
配偶者 | 夏目鏡子 (1877年 – 1963年) |
埋葬場所 | 雑司ヶ谷墓地 |
夏目漱石の生涯をハイライト
夏目漱石は1867年2月9日に現在の新宿区である牛込馬場下町に生まれます。夏目漱石は、暦の上では「庚申」(かのえのさる)の日の生まれでした。この日に生まれた子供は大泥棒になるが、名前に「金」の字を与えれば難を避けられるという言い伝えがあったため、金之助と名付けられました。
夏目漱石は様々な学校を転々としながらも、1890年に現在の東京大学である帝国大学に入学します。このころから神経衰弱に陥り、長きに渡り苦しめられる事になります。大学卒業後は講師として勤めていました。
1904年に精神衰弱の治療の一環として夏目漱石は執筆を始めるようになり「吾輩は猫である」が生まれました。これを気に夏目漱石は作家として生きていくことを決意します。1907年に朝日新聞社に入社し、職業作家としての道を歩み始めました。
その後は病気と戦いながらも様々な作品を世に出しますが、1916年12月9日に消化性潰瘍が原因で亡くなりました。
夏目漱石の誕生はあまり喜ばれていなかった
漱石が生まれた時、父直克はすでに50歳、母千枝は41歳でした。また漱石の上には母親違いの1人の姉と、4人の兄がいたことから、漱石の誕生はあまり喜ばれず、生後間もなく四谷にあった古道具屋、その後、四谷の名主塩原昇之助の家に里子に出されます。
しかし、養父の不倫が原因で塩原夫妻は離婚、不倫相手が連れ子とともに塩原家に入ったため、漱石は居場所を失い夏目家に戻ります。
里子に出された暗い境遇は「道草」などの漱石の作品に影を落としています。
あまり勉強熱心でなかった漱石
漱石は、小学校を卒業し東京帝国大学に入学するまで、何度か中退を繰り返しました。実家から養子に出され、再び実家に戻るという生い立ちもあり、3つの小学校に通っています。
また府立第1中学校正則科に入学しますが中退、漢学塾の二松学舎に入学しますが、ここも退学。大学予備門を目指すために神田駿河台の成立学舎に入学し、1884年(明治17年)に晴れて東京大学予備門予科に入学できました。
とはいうものの、あまり勉強熱心ではなかったようです。ボートや水泳などのスポーツを楽しみ、寄席通いするなど遊びに費やす時間が多く、予科第2級から1級への進級の際に落第してしまいました。
頑固で負けず嫌いな性格
夏目漱石は、複雑な家庭環境で生まれ育ったため、神経質で精神的にも不安定でした。ただ、学校を転々としていたにも関わらず、成績は常にトップクラス。非常に頭がよく、負けず嫌いだったことが良く分かりますね。
夏目漱石はそんな自分の性格を自覚しており、漱石というペンネームも、負け惜しみや頑固者という意味のある「漱石枕流」からとっているのです。
飼い猫の名前は「ねこ」
夏目漱石は猫を飼っていたのですが、最後まで猫に名前を付けることはありませんでした。強いて言うならその飼い猫の事を「ねこ」と呼んでいたため猫の名前は「ねこ」でした。
名前は付けていませんが、この猫は夏目漱石が作家として有名になる前から飼っており、非常に可愛がっていたそうです。
ちなみに「吾輩は猫である」に出てくる猫は、この飼い猫がモデルだと言われています。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
という書き出しから始まり、最後まで名前が付けられることなく亡くなってしまうので、まさに夏目漱石が飼っていた「ねこ」と同じ一生だと言うことがわかります。
神様を信じずに自分の意志を信じていた
夏目漱石は、神を信じなかったといわれています。作家として活動を始めた時に、夏目漱石はこのような言葉を残しています。
「自らを尊しと思わぬものは奴隷なり。自らをすてて神に走る者は神の奴隷なり」
神を妄信してしまい、自分の意志を持たないものは奴隷と変わりないと言う意味です。この言葉からも、夏目漱石は神や運命を信じることなく自分の意志を信じていたということが良く分かります。
夏目漱石の趣味はアート
夏目漱石は趣味に生きた人でもありました。宝生流の謡を習い、病気で入院中も謡をやりたいと医師に申し出るほど好きでした。留学後からの趣味で水彩画や水墨画も描いていました。漢詩の創作にも熱中し詩画が一体になった作品の創作に情熱を傾けました。
こうした美術好きの漱石の美的感覚は、自身の小説の装丁や挿絵などのこだわりに反映されています。「吾輩は猫である」の単行本化が決定した時、漱石は挿絵を浅井忠と中村不折に、表紙などの想定を橋口五葉に依頼しました。
留学中には書籍を買いあさり、小説・装丁・挿絵が一体となったパッケージとしての書籍の芸術性に気づいていた漱石は、自らの作品でもそれを目指しました。
死因は胃潰瘍の再発
夏目漱石の最終的な死因は胃潰瘍の再発によるものでした。漱石は、亡くなるまでに大きな胃潰瘍を5回以上引き起こしています。そして1916年12月9日、漱石は危篤状態に陥り、午後6時45分家族・友人・門下生に看取られながら49年の人生を終えました。
胃潰瘍の状態が長かったことから胃がんであった可能性もあると言われています。
夏目漱石の功績
功績1「印税のシステムを初めて作る」
夏目漱石は印税のシステムを初めて作った人物としても有名です。
それまで作家が得ることが出来る収入は、出版社が1作品ごとに買い取る原稿料のみで、作品が人気になりたくさん売れたとしても、作家がその分の売り上げを貰うことはできませんでした。
夏目漱石はこういった状況を変えようと、印税の制度をつくり、弱い立場だった作家の収入を安定させることに成功します。この印税のシステムのおかげで、作家の立場が高くなり、小説家を志す人々も大きく増加しました。
功績2「日本に小説を根付かせ、新たな娯楽を生み出す」
夏目漱石は日本に小説を根付かせた一人でもあります。
大学で講師をしながら「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などの作品を発表し、教職を辞めてからも、朝日新聞社で職業作家として「三四郎」や「こゝろ」など今でも有名な作品を世に残しています。
このように夏目漱石は物語性に富んだ作品を数多く発表し、日本に純文学としての小説を世に送り、小説を娯楽として根付かせることに成功しました。
功績3「数多くの門下生と共に幅広い文化を発展させる 」
夏目漱石の門下生には芥川龍之介をはじめとする数多くの作家や、様々な分野の学者や文化人がいました。
多くの門下生は「木曜会」と言われる夏目漱石の自宅で開かれる会合に参加していました。木曜会では様々な議論を行い、門下生たちは夏目漱石に感化されていたようです。
この木曜会を通じて門下生たちは成長していき、小説家、政治家、物理学者、評論家など、非常に多岐にわたって活躍するようになります。結果として夏目漱石は小説家でありながらも、幅広い文化を発展させていくことになりました。
夏目漱石と関係のある人物
夏目漱石は「俳人正岡子規」と親友だった
漱石と俳人正岡子規は学生時代からの友人でした。大学予備門時代に寄席通いという共通の趣味がきっかけに仲良くなったのです。子規は漱石に俳句を勧め、句作の指導もしました。松山では1つ屋根の下に暮らした無二の友でした。
子規は結核を患い洋行の夢を断念していたので、英国留学しヨーロッパの地に立つ漱石からの手紙をとても喜びました。子規は、ロンドンの様子を伝えた漱石からの手紙を「倫敦消息」と題して雑誌「ホトトギス」に掲載しました。これが漱石の活字メディアデビューになります。
自分の寿命を悟っていた子規は「僕の目の明いているうちに」もう1通だけロンドンの雰囲気を伝える手紙を書いて欲しいと漱石に依頼しますが、漱石はその望みを叶えることをしませんでした。ロンドンでの生活と勉学に追われる中で先延ばしにしたのかもしれません。
いよいよ漱石が帰国するというタイミングに漱石の手元に届いたのは、2ヶ月前に亡くなった子規の訃報でした。
夏目漱石の門下生は偉人だらけ
漱石の書斎は「漱石山房」と呼ばれ、ここで多くの作品が生み出されました。またここには松山時代の教え子や帝大の講義を受けた学生など、漱石の学識や人間性に惹かれた若者が出入りしました。あまり多くの人が訪れ執筆活動に影響が生じたため、漱石は木曜日の午後3時を面会日に決めました。
漱石山房への集いは「木曜会」と呼ばれています。
松根東洋城(俳人・宮内省式部官)・寺田寅彦(物理学者・随筆家)・小宮豊隆(ドイツ文学者・文芸評論家)・鈴木三重吉(児童文学者・小説家)・森田草平(小説家・翻訳家)・安倍能成(哲学者・戦後文部大臣に就任)・阿部次郎(哲学者)・野上豊一郎(法政大学総長)、久米正雄(小説家・劇作家)・芥川龍之介(小説家)など、後年優れた業績を残すことになる若者が集まりした。
ただ1人、「銀の匙」で有名な中勘助は、他の門下生との交流を好まなかったので、木曜以外に訪れることを許されていました。
夏目漱石の代表的作品
- 小説
- 「吾輩は猫である」
- 「坊ちゃん」
- 「草枕」
- 「虞美人草」
- 「坑夫」
- 「三四郎」
- 「それから」
- 「門」
- 「彼岸過迄」
- 「行人」
- 「こころ」
- 「道草」
- 「明暗」
- 随筆
- 「硝子戸の中」
- 「思ひ出すことなど」
- 講演・評論
- 「現代日本の開化」
- 「私の個人主義」
夏目漱石の名言
「ある人は10銭をもって1円の十分の1と解釈する。ある人は10銭をもって1銭の10倍と解釈する。同じ言葉が人によって高くも低くもなる。」(「虞美人草」)
「真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実(しじつ)に行え。汝の現今にまく種はやがて汝の収むべき未来となって現るべし」(日記)
「嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。」(「草枕」)
「前後を切断せよ、満身の力をこめて現在に働け。」(「倫敦消息」)
「細君の愛を他へ移さないようにするのが、却って夫の義務だろう。」(「それから」)
夏目漱石にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「赤ん坊の時、籠に入れられ古道具屋の店先に放置されていた」
漱石は生れ落ちると間も無く、古道具屋を営む塩原庄之助とやすの元に養子に出されました。漱石は「硝子戸の中」という作品の中にこう描いています。
「私はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。」
その様子を不憫に思った実家の実の姉が連れ帰ったのだと言います。
「吾輩は猫である」冒頭シーン、捨て猫だった「吾輩」が「薄暗い時ジメジメした所」で「ニャーニャー泣いていた」というシーンともオーバーラップするような回想です。漱石が本当にカゴの中に入って夜店に晒されていたかどうかはわかりませんが、里子に出されていたことは漱石の心に影を落としました。
都市伝説・武勇伝2「I love youを月がきれいですねと訳すロマンチスト」
「I love you」を「我汝を愛す」と訳した学生に対して漱石は、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ」と言ったそうです。日本人は「私はあなたを愛しています」なんて直接的で無粋な表現はしないのだからということらしいです。漱石のロマンチストぶりを示す都市伝説です。
「自分は首を前へ出して冷たい露の滴したたる、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。『百年はもう来ていたんだな』とこの時始めて気がついた。」(「夢十夜」)
100年後の再会を約束して死んだ女が百合に化身して現れる場面をこのようにロマンチックに描く漱石なら、「I Love you」も「月が綺麗ですね」と訳すかもしれません。
夏目漱石の簡単年表
夏目漱石の生涯年表
1867年 – 0歳「名主の未子として生まれる」
江戸牛込に生まれる
江戸の末年に当たるこの年、漱石は江戸牛込馬場下横町の名主夏目小兵衛直克と千枝の末子として生まれました。直克夫妻には4男1女があり、漱石(本名金之助)は5男の末っ子でした。
直克は江戸牛込馬場下横町の名主で、町人ではあるものの一般町人には禁じられていた玄関構えがある家が許されていました。明治新政府になって名主制度が消滅したあと、直克は中年寄りの職につきました。
区画整理の際に、夏目家が名主をしていた馬場横町周辺は夏目家の紋にちなんで喜久井町と名付けられます。夏目家が喜久井町1番町に定められ、近所にある坂も夏目坂と名付けられました。
漱石が生まれたとき父は50歳、母は41歳の高齢だったため、漱石はいわゆる恥かきっ子でした。また漱石とは腹違いの姉と4人の兄がいたこともあり、漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されてしまいました。
1868年 – 1歳「 塩原昌之助・やすの養子になる」
塩原昌之助・やすの養子になる
一度は四谷の古道具屋に養子に出された漱石ですが、すぐに連れ戻され四谷太宗門前の名主塩原昌之助・やすの養子に出されました。漱石の父直克と養父昌之助には仕事上の関係があり、また養母やすはかつて夏目家に奉公していたという縁もあり、この養子縁組が決まりました。
しかし漱石が8歳の時に塩原夫妻が離婚してしまい、昌之助が子連れの女性と再婚したために、漱石は身の置き場がなくなります。そのため漱石は塩原家に籍を置いたまま、実家の夏目家に引き取られ、20歳になるまでその宙ぶらりんな状態が続きました。
1888年 – 21歳「 夏目家に復籍する」
兄弟が相次いで亡くなる
漱石20歳になった年の3月、長兄大助が肺結核のため死去しました。6月に次兄直則が相次いで肺結核で死去したため、夏目家の家督は3男の直矩が継ぐことになりましたが、父は漱石の復籍を決めます。
1888年1月、それまでの養育費を漱石の実父が養父に支払う条件で、漱石は塩原家から夏目家に復籍しました。
この時、父と養父の間に交わされた書付は、「道草」の最終章にほぼそのままの文面で取り入れられています。この養子・復籍に関わる出来事は、漱石の一生に大きな影を落としています。
「道草」は漱石の自伝的小説と言われています。海外留学から帰朝後、大学の教師になった主人公の健三の前に、縁が切れたはずの養父島田が現われ、健三を金銭問題で悩ませるというストーリーの小説です。
幼少期の健三に対する養父母の愛情には「変な報酬が予期されて」おり、金で美しい女を囲っている人が女のわがままを聞くのと同じ愛情だったという記述があります。漱石は、幼少期に受けた養父の愛情が、夏目家復籍に際して金銭という対価に変えられたことに呪縛されていたのかもしれません。
第一高等中学校予科を卒業し本科に入学する
21歳の漱石は7月第一高等中学校予科を卒業して本科に進学し、英文学を専攻します。本科への進学の際、漱石は何を専攻するか悩んでいました。
この当時の漱石は建築家を志していたのですが、友人米山保三郎のアドバイスで工科ではなく文科に進路を変えました。米山は漱石に今の日本では、イギリスのセント・ポールズ大寺院のような建築を後世に残すことはできないと説いたということです。
1889年 – 22歳「正岡子規と親交を深める」
この年、漱石は同窓の正岡子規と出会い親交を深めていきました。漱石と子規の交友は共通の趣味寄席通いをきっかけに始まりましたが、詩作を通じてさらに仲を深めて行ったのです。
創作家としての漱石の歩みは子規との交友の中で始まったと言っても良いかもしれません。子規が書いた和漢詩文集「七艸集」に批評を書いた漱石は、そこで初めて「漱石」という号を使っています。
またこの年、漱石は房総半島を旅行した経験を漢文にまとめ、「木屑録」という紀行文集を作成しましまさに盟友でした。
1890年 – 23歳「 東京帝国大学入学」
帝国大学英文科に入学
漱石は東京帝国大学(現・東京大学)英文科に入学し、文部省官費生になります。
大学での漱石は英文学の勉強に励みました。漱石が愛蔵した3000冊の書籍は現在「漱石文庫」として東北大学付属図書館に収蔵されていますが、そこにある漱石の愛読書には、大学生時代の猛烈な勉強ぶりを表す書き込みが多数残されています。
1892年 – 25歳「北海道に転籍する」
大学卒業の前年のこの年、漱石は徴兵を逃れるために、戸籍を北海道に移しています。
明治22年、徴兵令が発布され、国民の兵役義務が定められました。高等教育機関在籍者などに対しては一定年齢まで懲役猶予期間が設けられていました。そこで漱石はその猶予期間が切れる前に、徴兵令がまだ及んでいなかった北海道に戸籍を移したと考えられています。
この2年後に日清戦争が始まります。日清戦争の足音が迫り来るこの時期、漱石は徴兵逃れというべきアクションを起こしたわけです。
ちなみに友人の正岡子規は大学を中退し、持病の結核を抱えているにも関わらず、新聞「日本」の従軍記者として日清戦争の戦地に赴くことになります。
1893年 – 26歳「帝大を卒業し大学院に進学する」
帝国大学文科大学英文学科を卒業した漱石は、大学院に進学しました。しかし、「これでも学士かと思うような馬鹿ができあがった」(「処女作追懐談」)と自嘲気味に述べているように、いくら勉強しても文学というものがわからないという不安に苛まれていました。
また、漱石はすでに講師をしていた東京専門学校のほか、高等師範学校の英語教師の職にも就きましたが、生徒からの評判が良くないと聞かされ、教師としての自信も揺らいでいました。この頃の漱石は、精神状態の揺らぎを象徴するかのように、住処を転々と変えていました。
1894年 – 27歳「神経衰弱に陥る」
学問上の不安や教師という職に対する自信喪失などが重なり、神経衰弱が高じた漱石は、その状態を克服するために鎌倉円覚寺塔頭帰源院を訪ね、釈宗演のもとで参禅しました。
釈宗演は漱石に「父母未生以前本来の面目」とは何かという公案(問題)を与えました。簡単に言えば、自分はもちろん両親もまだ生まれていない以前の 本来の自己とは何か?という問いに答えなさいというわけです。
12月23日から1月7日まで修行を続けた漱石ですが、ついに悟脱(悟りに達すること)には至らずに東京に戻りました。この体験はのちに「夢十夜」や「門」に描かれます。
1895年 – 28歳「愛媛県尋常中学校の英語教師として赴任 」
愛媛県尋常中学校の英語教師になる
円覚寺から下山して東京に戻った漱石は、英字新聞「ジャパン・メール」の記者を志望しましたが叶いませんでした。そんなとき愛媛県尋常中学校の英語教師の話が舞い込み、漱石は東京から四国松山に向かいました。
漱石には、外国人教師並みの待遇が約束されていました。年俸は高等師範学校の年俸よりも高く、校長以上の給料でした。また英語科の嘱託教員だったため担任や宿直などの雑務もありませんでした。しかし、東京から松山にいわば都落ちする形の赴任だったため、周囲は驚いたということです。
漱石が松山で教えた教え子の中には、のちに主治医として漱石の死を看取ることになる真鍋嘉一郎や漱石の弟子となる松根東洋城らがいました。
1896年 – 29歳「熊本第五高等学校講師に転任」
29歳の漱石は、愛媛から熊本の第五高等学校に転任しました。熊本において、前年から縁談が持ち上がっていた貴族院書記官長中根重一の長女鏡子との結婚生活が始まりました。
熊本での漱石は、講義の一方で句作に励みました。また職場での信頼も厚く、教師を辞めて文学に没頭したいという願いを持ちながらも、ここでの教師生活は4年3ヶ月に亘りました。第1子も誕生し、家長として人生の第2のスタートを切ったのが熊本という場所でした。
1900年 – 33歳「 英国留学」
英国留学の命を受ける
1900年(明治33年)6月、漱石は文部省の給費留学生として、英語研究のために2年間の英国留学を命じられます。
この留学に漱石は不満を抱いていました。留学目的が「英語」研究であって、「英文学」研究ではなかったためです。辞退しようとしますが周囲の説得で留学を決めましました。
文部省の意図を知りながらも、自分の心の中では「英文学研究」を優先するつもりで留学します。そのため英国での漱石は、大学に籍を置かず聴講だけし、その代わりシェイクスピア学者のクレイグ博士に週1度の個人授業を受けていました。
英国留学の苦難
漱石は1903年までの2年間をロンドンで過ごしましたが、その間のことを漱石は「もっとも不愉快の二年間なり」と述べています。もっとも漱石を悩ましたのは金銭問題でした。
当時のロンドンは産業革命を遂げた華やかな大都会でした。物価は高く、東洋のいわば後進国からやってきた官費留学生の生活が楽なはずがありません。それでも漱石は生活費を切り詰めて本を買い集め、「蠅の頭」ほどの小さな字でノートを作る作業に耽ったのです。
しかし無理は続かず、経済的困窮と孤独によって漱石は神経衰弱の症状を悪化させてしまいました。その噂は日本に伝わり、文部省は留学生の1人に漱石の保護を依頼し、帰国を促しました。
1901年 – 34歳「ロンドン生活」
漱石は、英文学を学ぶといういう意気込みでロンドンに乗り込みましたが、そこで大きな衝撃を受けます。後年まとめた「文学論」の序で漱石はこう言っています。「漢学にいわゆる文学と英語にいわゆる文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のもの」ということを突きつけられたと言うのです。
つまり、漱石は東洋人としての自分に根付いた漢文学と、西洋の文学が根底に持つものの決定的な相違をロンドンの地で知り、衝撃を受けたのです。この溝をどう埋めて行くのか、それとも相違を相違として受け止めるのか、これがその後の漱石の創作活動をつき動かして行くことになります。
勉学の一方で漱石は、近代化の反面に生じる様々な矛盾にも目を向けました。当時のロンドンは産業革命を遂げ、ヴィクトリア王朝最後の栄華を築いた華やかな大都市でした。
世界に先駆けて産業革命を成功させた19世紀大英帝国の繁栄をアジアの弱小国日本からやって来た留学生漱石は批評的な目で見つめています。
子規に送った「倫敦消息」の中で漱石は、大英帝国の世界支配の時代が終わり、帝国主義化していくの時代の列強の1つに過ぎなくなったこと、そして日本もまたその帝国主義化の歴史の流れに飲み込まれていくことに言及しています。
1902年 – 35歳「英国からの帰国」
漱石自身の生活は逼迫していました。留学当初から金銭的余裕がない中、生活費を切り詰め書籍を買いあさり、「文学とはいかなるものぞ」という問題究明のためにひたすら読書に耽りました。
また黄色人種としての身体的特徴から西洋と東洋の相違やそこに生じる差別などを肌身で実感していました。そのような日々を続けることで、漱石の精神は悲鳴をあげます。
漱石の神経衰弱の症状が悪化し、その噂が日本に伝えられました。文部省はドイツに留学していた藤代禎輔(ドイツ文学者で、のちに京都帝国大学教授)に「夏目を保護して帰朝せらるべし」と依頼しました。しかし漱石は迎えに来た藤代を先に帰らせ、自分は遅れて1人で日本に帰りました。
1905年 – 38歳「 小説家としてデビューする」
教壇への復帰と神経衰弱悪化
倫敦から帰国した漱石は、1903年(明治36年)4月から第一高等学校と東京帝国大学文化大学で教鞭をとりました。
帝国大学では、日本人初の英文科講師として講義を行いました。漱石は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として着任したのですが、情緒的な小泉八雲の講義と違い、論理的・分析的な漱石の講義に反感を抱く学生もいたということです。
この講義は「文学論」「文学評論」「英文学形式論」としてのちに出版されます。
しかし神経衰弱は悪化し、そのために夫婦関係も亀裂が入り妻の鏡子は子供を連れて実家に帰ってしまいます。
子供たちの証言にも漱石が癇癪持ちですぐに殴りかかるようなことが度々あったということですが、こうしたことも漱石の神経衰弱が原因であることを主治医から聞かされた鏡子は漱石の元に戻ってきます。
「吾輩は猫である」の執筆
そんな状況の中、漱石は高浜虚子の勧めで「吾輩は猫である」を執筆しました。虚子は、神経衰弱に苦しんでいる漱石の気分転換のために小説執筆を勧めたのです。前年、漱石の家に迷い込み飼われることになった一匹の黒猫が主人公の小説は、雑誌発表後から大変な反響を得ました。
雑誌連載終了後、「吾輩は猫である」は単行本として刊行され、発売から20日で初版が売り切れるというベストセラーになりました。「吾輩は猫である」人気は、パロディ作品が数多く発表されたことにも伺えます。
漱石は美術への関心が高く、著書の装丁に腐心した作家です。そのこだわりは「吾輩は猫である」の単行本化における挿絵と装丁にも伺えます。西洋の書籍に啓発された漱石は、書籍の美術的側面の重要性に気づいていました。
出版物としての書籍を美術品にまで昇華させるという漱石の試みは、出版文化の成熟にも大きく影響したのではないでしょうか。
1907年 – 40歳「 朝日新聞社に入社する」
朝日新聞に入社する
40歳の夏目漱石は東京帝国大学の職を投げうち、朝日新聞社に入社します。5月3日に朝日新聞に掲載された漱石の「入社の辞」によると、「新聞屋が商売ならば、大学屋も商売」と言い、大学という権威よりも自由に創作活動できることを選択した入社の意図と喜びを語っています。
日露戦争の戦況を伝える媒体として購読数を伸ばした新聞ですが、戦後発行部数は減少していました。朝日新聞は紙面改革に乗り出し、社会面と小説欄の充実を図りました。
近代的な教育システムが完備普及した明治30年代後半、読者の知的水準も向上しており、新聞の購読者数を伸ばすには、そうした読者を満足させる内容的な充実が急がれてい他のです。そこでクオリティの高い文芸作品を読者に提供しようと目論んだ朝日新聞は、人気作家夏目漱石に白羽の矢を刺したのでした。
待望の朝日新聞入社第1作を執筆
漱石は処女作「吾輩は猫である」の後、「坊ちゃん」「草枕」など人気作品を次々と発表していました。朝日新聞入社第1作「虞美人草」もまた人気を博します。
三越百貨店は虞美人草人気を反映して虞美人草グッズ(浴衣生地)を販売しました。こうした現代のメディアミックスさえ想起させる出来事に、人気作家としての漱石のポジションがよく伺えます。
「虞美人草」は新聞小説という特性を生かした作品です。作品内に同時代の時事的出来事を盛り込んで、読者の関心を集めました。
当時にしては異例のグッズ発売
「虞美人草」は、1907年(明治40年)6月23日から10月29日まで127回にわたって連載されて人気を博しました。今で言うならキャラクターグッズも発売されています。
江戸時代には呉服店だった日本橋三越は、1904年に「デパートメントストア宣言」をし、様々な流行を発信していましたが、その三越が虞美人草浴衣生地を売り出しました。
三越は「虞美人草帯留め」も発売、「虞美人草指輪」を発売した宝飾店もありました。
1909年 – 42歳「 日露戦争後の社会を「それから」で描く」
「それから」の連載開始
6月から「それから」の連載が始まりました。「それから」は前年連載した「三四郎」につながる作品として描かれます。
「三四郎」は東京帝国大学入学のために熊本から上京した小川三四郎の学生生活を描いた作品です。立身出世の志を持って大学入学のために上京した青年三四郎の、東京での生活と美禰子という女性への恋が描かれています。
「それから」は、大学を卒業して4・5年が経つものの、実業界で成功した父の庇護により職にもつかない「高等遊民」長井代助が主人公です。
高等遊民として自由に暮らしていた主人公代助の人生は、かつて愛していた三千代との再会で大きく変わります。三千代は、代助の旧友の平岡の妻です。
しかし、三千代への平岡の裏切りや三千代の苦境を知った代助は再び三千代への愛を募らせ、三千代を救うため平岡から三千代を貰い受け、その後平岡との交友を断ちます。そして三千代との生活のため、親族とも絶縁して日露戦後の社会に身を晒すことを選択します。
「それから」には日露戦後の日本社会が反映されています。高等遊民長井代助は時代を象徴する存在として描かれました。大学に入ることがすなわち立身出世に繋がると考えられた明治の第一世代とは異なり、大学を卒業し高学歴ながら適切な就職ができない「高等遊民」は当時社会問題化していました。
「三四郎」の主人公のように上京=大学=立身出世という図式は、日露戦後の不況の中、簡単には成り立たなくなっていたのです。「それから」の代助が親の支援を断って、愛する女のために職を探さなければならない社会は、そんな状況だったのです。
また「日糖疑獄」贈収賄事件が連日新聞報道される中で、代助の父の会社もその疑獄事件の影響を受けるという設定がなされており、「それから」は、道ならぬ恋をテーマにしつつ、日露戦後迷走する社会状況を記録した小説にもなっています。「それから」の代助・三千代のその後は、次作「門」に引き継がれます。
1910年 – 43歳「 修善寺の大患」
3月から「門」の連載開始
「それから」に続く「門」は、友人安井から妻を奪ったために日陰に身を置く宗助・お米夫妻のつましい日常を描く小説です。東京山手の崖下の借家に暮らす宗介・お米の姿には、当時の都市生活者の暮らしぶりをよく伺うことができます。
「三四郎」「それから」そして「門」は、恋愛小説3部作という捉え方ができる一方で、様々な矛盾の中を生きる近代人の不安を描く社会批評としての側面を持つ小説としても位置付けられます。
8月修善寺で人事不詳に陥る
「門」を脱稿した6月、漱石は胃潰瘍が悪化して入院しました。7月末に退院し、転地療養のために伊豆修善寺温泉で過ごしますが、8月24日500gもの大量吐血をし意識不明に陥りました。
漱石危篤という連絡は関係各所に送られましたが、幸いにも一命を取り留め10月に帰京しました。「修善寺の大患」と呼ばれるこの出来事を漱石は「思ひ出す事など」に回想しています。
入院中、漱石に博士号授与の一報が届きました。しかし自分の意向も聞かずに学位を送りつけてきたと怒り心頭の漱石は学位を返送してしまいます。博士号の制度は1887年に定められ、授与者の増加に伴いその授与のあり方が問題になっていました。
漱石は以前、森田草平宛の書簡に「人間も教授や博士を名誉と思う様では駄目だね」と、権威に対する嫌悪感を示していました。その思いを漱石は貫いたのでした。
夏目漱石の晩年の病と悲しみ
翌年には再び胃潰瘍が再発、漱石は不安な心情を「自分の胃にはひびが入った。自分の精神にもひびが入ったような気がする」と日記に記しています。
そんな漱石に追い討ちをかけるようにまだ2歳にならない娘の死と朝日新聞主筆であり友人の池辺三山の死が襲います。
大病を患って一命をとりとめたばかりの漱石でした。幼い我が子と親友の死は、44歳の漱石に大きな喪失感を残しました。
1912年 – 45歳「 明治天皇崩御の衝撃」
7月明治天皇の崩御
明治維新から45年経ったこの年の7月、明治天皇が崩御しました。明治元年に1歳だった漱 は、明治という時代とともに歳を重ね、明治45年のこの年、漱石もまた45歳を迎えていました。
1914年に執筆した「こころ」で漱石は、「先生」とよばれる登場人物の口を借りてこう述べています。「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時代遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。」
漱石の蔵書が納めてある「漱石文庫」には、天皇崩御を伝える「東京朝日新聞」が大切に保管されており、明治と共に生きた漱石の思いの断片を伺うことができます。
1916年 – 49歳「 漱石死す」
1916年11月胃潰瘍の再発
この年11月、連載中の「明暗」の「連載回数189」という数字を書いただけの原稿用紙を前に、漱石は倒れていました。その後も漱石は胃の内部からの大出血を2回起こし、容態は悪化の一途を辿ります。
12月9日、漱石は危篤状態に陥り、午後6時45分家族・友人・門下生に看取られながら49年の人生を終えました。弟子の森田草平の提案で彫刻家荒海竹太郎が、漱石のデスマスクの型を取りました。
12日青山斎場で葬儀が執り行われ、28日に漱石の遺骨は雑司ヶ谷墓地に埋葬されました。
夏目漱石の全集
漱石の死の一ヶ月後、月命日の9日に漱石を偲び第1回目の「九日会」が開かれました。その席上で漱石全集刊行の話が持ち上がり、岩波書店から出版することが決定しました。
漱石全集の編集には、漱石を慕う木曜会のメンバーである寺田寅彦・松根東洋城・鈴木三重吉・森田草平などがあたりました。
漱石一周忌の1917年(大正6年)12月9日から第1回配本が始まりました。この大正6年版以降、漱石全集は何度か刊行され、漱石没後100年・生誕150年を迎えた2016年(平成28年)にも、「定本 漱石全集 全28巻・別巻」が岩波書店から刊行されました。
この平成28年版漱石全集も、第1回配本は漱石の祥月命日12月9日でした。
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夏目漱石全集(全10巻セット)
ハードカバーの漱石全集は高価でなかなか手が出せませんが、文庫版なら比較的安価に漱石全集を自分の手元に置くことができます。全集という形で作品を俯瞰すると、漱石ワールドが楽しめることでしょう。
夏目漱石 増補新版: 百年後に逢いましょう (文藝別冊)
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夏目漱石に関するおすすめ映画
それから
森田芳光が、「それから」を映画化。三千代役の藤谷美和子がかわいいです!道ならぬ恋に苦しむ松田優作による代助も魅力的です。
こころ
日活により映画化。監督は市川崑、脚本は猪俣勝人。新解釈を加えながらも原作に忠実に表現されているので、「こころ」の入門にもちょうど良いかもしれません。
夏目漱石に関するおすすめドラマ
坊ちゃん
夏目漱石没後100年となる2016年にドラマ化された『坊っちゃん』です。坊っちゃんを演じるのは嵐の二宮和也。マドンナの描き方に、現代の女性観が表現されているように思います。
夏目漱石の妻
漱石と妻鏡子をが夫婦として成長していく姿を、鏡子の視点から描くホームドラマです。漱石を長谷川博己、鏡子役は尾野真千子。漱石という人物を身近に感じられるようになる作品ではないでしょうか。
関連外部リンク
夏目漱石についてのまとめ
夏目漱石の小説は、没後100年を過ぎた今なお古びません。古びるどころか、その作品にはむしろ新しさを感じます。それは漱石に続く多くの日本の作家が、多かれ少なかれ漱石に学び、漱石に影響を受けているからかもしれません。
明治の文豪夏目漱石については、多くの小説家やアーティストが敬愛し、その作品に影響を受けています。そうした意味で漱石は歴史の中の人物として過去形になっていません。多くの創作家にその遺伝子を受け継ぎ、現在進行形で新たな作品を生み続けていると言っても良いのかもしれません。
漱石のかっこよさは、大学教授とか博士と言った権威も持つことを嫌い、「新聞屋」(朝日新聞「入社の辞」)として、一個人夏目漱石として作品を紡いだところにあるのではないでしょうか。何者にも心を束縛されない「自由」な目で、明治という時代を見つめ、作品に表現しました。漱石の小説は愛や人間のエゴイズムを描く一方で、時代を透徹した目で見つめる批評性が高く、それも魅力の1つでしょう。
私はかつて学校の先生として「こころ」の授業を幾度となく行いましたが、授業を重ね「こころ」を再読するたびに新たな発見がありました。そして漱石の面白さ、魅力を学校の授業では伝えきれず、モヤモヤしていました。もし、学校での漱石体験があまり面白くなかった人も、大人になったいま漱石を読み直すと、全く違った作品に思えるかもしれません。
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