「三億円事件で奪われたお金の行方は?」
「三億円事件の影響ってあるの?」
三億円事件は、1968年12月10日に発生した窃盗事件です。1986年に起きた「有楽町三億円事件」や、1990年に起きた「練馬三億円事件」と区別するために「府中三億円事件」とも呼ばれています。
未解決事件として、現在でも度々メディアで取り上げられていますが、お金の行方はあまり知られていません。今回は、昭和の事件に関心を持った著者が、三億円事件で奪われたお金の行方について解説します。
現在の驚くべき紙幣価値や、当時の金融に与えた影響についても触れますので、ぜひ最後まで読んでみてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
三億円事件のお金の行方は?
三億円事件は、1968年12月10日に東芝社員のボーナス約3億円を乗せた現金輸送車が、白バイ隊員に呼び止められたところから始まりました。
車の下に爆弾が積まれている、逃げろ
白バイ隊員に化けた事件の犯人は、銀行員を下ろすと現金を車ごと窃盗。犯人はわずか3分程の短時間で、大金を盗み出したのです。
警察は、多額の費用や大勢の捜査員を導入して犯人を追ったものの、結局事件は未解決のまま、1975年12月10日に時効を迎えています。しかし、現在に至るまで奪われたお金の行方はわかっていません。
殆どが不明
三億円事件で白バイ隊員に変装して現金を奪った犯人は、事件後お金とともに姿を消しました。しかし盗まれた現金輸送車自体は、事件当日のうちに発見されています。
犯人は現金輸送車を逃走後に乗り換えたと見られますが、目撃者の証言から車種は「トヨタカローラ」だということが判明したのです。そして、トヨタカローラも事件発生から4ヶ月に小金井市で発見。中には、現金輸送車に積んであったジェラルミンケースが残されていました。
しかし中身は空になっており、懸命な捜査を続けるも、犯人はおろかお金の行方を探し当てることもできませんでした。現在でも、殆どが不明のままになっています。
警察が発表した紙幣の記番号とは
警察は事件当初、犯人やお金の行方について「すぐに判明するだろう」と高を括っていました。なぜなら、事件現場や乗り捨てられた白バイなどから、多くの遺留品が見つかっていたからです。
そして楽観ムードな警察は、あろうことかマスコミに「奪われた紙幣の記番号」がXF227001A〜229000Aであることを公表してしまいます。当時読売新聞の記者をしており、事件を追っていたT氏は「えー、それ言っちゃうの」と思い、驚いたといいます。
警察が発表した記番号は、500円札2000枚の100万円分でしたが、犯人が公表を知れば「使わない」もしくは「処分してしまう」のではないか?と感じたのです。T氏の読みは的中し、その後も現金が発見されることはありませんでした。
使われた形跡もない
このように、警察は一部のお札の記番号を把握していたので、利用されればすぐに判明するはずでした。しかし、お金は使われた形跡がなく、足取りを追うことはできなかったのです。
ちなみに、実は記番号XF227278Aのお札のみ発見に至っています。しかし、このお札は番号が傾いていたことから、偽札という判断が下っているのです。
また犯人説の中には、三島由紀夫が創設した「槍の会」のメンバーらとの説があり、強奪した3億円の一部を富士の樹海に隠したとされています。ですが、現在に至るまで真偽は不明。50年以上たった今、犯人はこの世にいないかも知れませんが、「遺品整理などで発見された」という話もないのです。
従業員へのボーナスは支払われていた
三億円事件では、東芝の府中工場に勤める社員のボーナスが奪われましたが、翌日にはそれぞれ従業員に支払われています。なぜなら、東芝が保険をかけていたから。
保険会社からの補填があったおかげで、事件翌日には予定通りの支給を済ませることができたのです。さらに、保険会社も外国の保険会社に二重保険をかけていたため、日本国内での損失はなかったとされています。
三億円事件は、事件自体の損失が国内から発生しなかったことと、奪われた金額が正式には2億9430万7500円だったことから、語呂合わせで「憎しみのない強盗」とも呼ばれているのです。