ジャンヌ・ダルクは、百年戦争において危機的な状況にあったフランスを救った軍人です。フランスでは国を救った聖女として認知されており、また世界的にも有名な人物です。
当時の彼女は、イングランド軍に支配されていたオルレアンを見事奪回することに成功し、国民たちから「神の使い」として崇められました。
しかし、その後彼女は宗教裁判にかけられた上に「異端者」と見なされ火あぶりの刑に処されることになるのです。ジャンヌは命が尽きる最期の瞬間まで「イエスさま」と燃え盛る炎の中で叫び続けたといいます。
この記事ではそんな壮絶な人生を生き抜いたジャンヌ・ダルクの生涯を功績、逸話や名言、死因も交えて紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ジャンヌ・ダルクとはどんな人?生涯ダイジェスト
名前 | ジャンヌ・ダルク (仏:Jeanne d’Arc) |
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別称 | オルレアンの乙女 |
誕生日 | 1412年頃1月6日 |
生地 | フランス王国、ドンレミ |
没日 | 1431年5月30日 |
没地 | イングランド王国、ルーアン |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | なし |
救国の聖女と名高く、映画などの題材になるジャンヌダルク。わずか16歳の頃に戦争へ身を投じ、国を救った彼女はどんな人生を送ってきたのでしょうか。まずは彼女の生涯を簡単にまとめて紹介します。
ジャンヌは1412年頃、フランスのドンレミ村で農夫婦の家に生まれました。
いたって普通の村娘だったジャンヌは、12歳のときに神のお告げを聞きます。「戦争に参加してイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王にしなさい」という内容の神のお告げに従い、ジャンヌは16歳になった頃にドンレミ村を出ました。
親戚のデュランと共に王太子のいるヴォークルールへと向かったジャンヌは、当時の守備隊長であるボードリクール伯に、王太子へ謁見する許可を願います。しかしボードリクール伯にとって、ただの村娘にすぎないジャンヌの話は聞き入れられませんでした。
しかしジャンヌは諦めることなく、再びボードリクール伯と面談し、「ニシンの戦いでフランス軍は敗北する」という予言をします。予言は見事に的中し、ジャンヌは王太子シャルル7世に謁見する許可を得られました。
ジャンヌはシャルル7世に、自身が受けた神のお告げについて話し「私ならばフランスを救うことができます」と言いました。
彼女は異端者ではないか、と疑ったシャルルは神学者たちにジャンヌの身辺調査をさせます。神学者たちによって、ジャンヌが異端者でないことを確認すると、シャルル7世はジャンヌが軍に加わることを許可しました。
ジャンヌが入ってから、フランス軍の快進撃が始まります。ジャンヌが入隊してから、フランス軍は次々とイングランド軍の砦を落とし、敵の手に落ちていたオルレアンを開放しました。
勢いのついたフランス軍は奪われていた領土を取り返していき、ランスに到達します。そしてついに、1929年7月17日ランスにてシャルル7世の戴冠式が執り行われました。
オルレアンの解放、シャルルの戴冠式などの功績が認められて、ジャンヌの一族は貴族として迎え入れられます。しかし栄光は続かず、1930年コンピエーニュ包囲戦でジャンヌは捕縛されてしまいました。
捕縛されたジャンヌは身代金と引き換えにイングランド軍へと引き渡されます。当時は魔女や悪魔の存在が信じられており、神の声を聞いたというジャンヌは異端者扱いされました。
ジャンヌは罠にかけられてしまい、男装をしていたのを理由に宗教裁判で異端者認定されてしまいます。ジャンヌは、男装にはやむを得ない事情があったことを訴えましたがすべて無視されてしまい、死刑判決を受けます。
死刑の中でも最も残酷と言われている火刑に処され、ジャンヌは19歳という若さで亡くなりました。
ジャンヌ・ダルクの性格や子孫、死因
ジャンヌの性格は真面目で優しく、信心深い
ジャンヌは真面目で優しく、信心深い性格でした。
ジャンヌの幼なじみによると、ジャンヌは優しくて飾り気がない、信仰に厚い少女だったといいます。ジャンヌの信心深さは友人の間でも有名で、よく「あなたは信心深すぎるわよ」とジャンヌに指摘していたくらいです。
また、ジャンヌは働き者としても有名でした。
裁縫や麦の刈り入れ、家事などもしており、必要があれば糸を紡ぎながら家畜の番もしていました。祭りの日には村の子供たちと一緒に遊びに行くなど、面倒見もよかったようです。
聖女として活躍する前から、ジャンヌはたくさんの人に愛されていました。彼女が後世まで伝わる偉業を成し遂げられたのは、行動力や固い信念だけでなく、多くの人に愛される性格も影響していたのではないでしょうか。
ジャンヌ・ダルクの家族構成
ジャンヌ・ダルクは、ローマ帝国とフランス王国の両方に所属するバル公領・ドンレミ村で生まれました。家族構成は以下の通りです。
- 父:ジャック・ダルク
- 母:イザベル・ロメ
- 長男:ジャクマン
- 次男:ジャン
- 三男:ピエール
- 長女:ジャンヌ・ダルク
- 次女:カトリーヌ
両親は農業を営んでおり、信仰心に篤かったといいます。また、ジャンヌの母親は特に信心深い性格でよくジャンヌに祈祷文を教えていました。
ジャンヌが神を信仰するようになったのは、両親から強く影響を受けたからだと考えられます。
ジャンヌ・ダルクの死因は「火刑」
ジャンヌはブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、身代金と引き換えにイングランド軍に引き渡されました。その後宗教裁判にかけられたジャンヌは、「異端である」という判決を受け火刑に処されることになります。
処刑はイングランドの統治領であったルーアンの「ヴィエ・マルシェ広場」で執行されました。高い柱に縛り付けられ民衆の目に晒されながら、ジャンヌは炎に身を焼かれ息を引き取ったのです。
黒こげとなった彼女の遺体は民衆の面前にさらされ、更に灰になるまで燃やされました。ジャンヌの遺灰は処刑執行人によってセーヌ川へと流されました。
ジャンヌの死に様はあまりに壮絶で、見ているものを恐怖に陥れたといいます。
ジャンヌが聖女として認定されたのは最近
今では救国の聖女として有名なジャンヌダルクですが、実は聖女として正式に認定されたのは1920年とわりと最近です。
ジャンヌは亡くなる直前、イギリス領北フランスのルーアンで宗教裁判にかけられ、異端と認定されてしまいます。有罪判決を受け、火刑に処されてしまったジャンヌの名誉はすぐには戻りませんでした。
ジャンヌが亡くなってから25年後にようやく名誉回復のための裁判が行われ、ジャンヌは無罪と認められます。
ジャンヌの死後、彼女の名前はフランスの歴史にたびたび出てきました。カトリックの象徴として用いられたり、政治に利用されたりとジャンヌの勇姿はフランスの人々の間で語り継がれていきます。
そして名誉回復の裁判から500年後の1920年に、ようやくローマ教皇から聖女として認められたのです。
ジャンル・ダルクは実在したの?
家族構成まで紹介しましたが、そもそも本当に実在したのか?という疑問を持っている方もいらっしゃるかもしれません。
結論からお伝えすると、ジャンヌダルクは本当に実在しました。何故なら実在を裏付ける裁判記録が残されているからです。ジャンルダルクに対する裁判は1431年に起きており、この時の裁判記録の5つのコピーが作成され、そのうちの3つは現在でも存在しているのです。
以上のことから、ジャンヌ・ダルクは実在したと言えます。
ジャンヌは均整の取れた体格をしていた?
実は容姿について正確な資料が残っていないジャンヌですが、とある資料から彼女は均整の取れた体格をしていたと推察されています。
オルレアン解放を成し遂げたお礼として、ジャンヌには衣服が送られました。彼女が受け取った衣服には詳細なメモが残されており、研究者はメモの記述から、ジャンヌは身長160cmで均整の取れた丈夫な体をしていたと考察しています。
なぜ身長までわかるのかというと、当時の男性服は衣服の長さが膝まであり、ジャンヌが着ていた服の丈は80cmだったからです。
今の私たちとあまり変わらない身長で、成人する前から戦争で活躍していたと思うと改めてジャンヌのすごさがわかりますね。
ジャンヌ・ダルクに子孫はいる?
結論から言うと、ジャンヌダルクに直接の子供がいたかは確認されていませんが、兄弟の子孫は存在しています。
ジャンヌは5人兄弟の末っ子でした。しかし1番上の兄と1つ上の姉は死亡している上に、記録がほとんどないため定かではありません。ジャンヌの子孫については2番目と3番目の兄が話にあがります。
実は2番目と3番目の兄はジャンヌを追いかけて村を出ており、彼女の下で一緒に戦っていました。オルレアン解放から戴冠式までの功績が認められ、ジャンヌと共に貴族として「デュ・リス」姓を与えられます。
2番目の兄ピエールは最後までジャンヌと戦い、彼女が捕まってからは虜囚としての日々を送りました。解放されたあと、彼は結婚して子供と共にオルレアンへ移り住みます。
対して3番目の兄ジャンは一足先に母イザベルの元へ戻りました。夫と子を亡くして失意に沈んでいた母を支え、ピエールが戻ってきてからは彼に母を託します。後にジャンは結婚し、1457年にはジャンヌ旅立ちの地ヴォークルールの守備隊長になりました。
現代まで残ったのはジャンの家系で、今もその子孫は残っています。
ジャンヌ・ダルクの功績
功績1「ジャンヌ・ダルクのオルレアン包囲戦」
百年戦争の最中に起きたオルレアン包囲戦によって、フランスは非常に危機的な状況に陥っていました。もしオルレアンを落とされていたら戦争に勝利していたのはイングランドだったかもしれないと言われているほどです。
ジャンヌはフランス軍の先頭に立ち、オルレアン包囲戦で指揮を執りました。戦いは熾烈を極めジャンヌ自身も深手を負いましたが、無事にフランス軍を勝利に導きます。
オルレアンが解放されたのはジャンヌが戦場に到着してわずか9日後のことでした。この功績が称えられ、後にジャンヌは「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン)」と呼ばれるようになります。
またジャンヌの生まれ育った村もジャンヌの功績を称えるため「ドンレミ・ラ・ピュセル」と後に村の名前を変えています。
功績2「シャルル王太子の戴冠を助けた」
ジャンヌは劣勢だった戦況をひっくり返し、王太子シャルル7世の戴冠を助けて戦争終結のきっかけを作りました。
その頃のフランスでは、国王はランスの大聖堂で戴冠式を行わなければならないという慣しがありました。しかし、当時のランスは地域一帯がイギリスの領地でした。王太子シャルル7世をランスまで連れていくには、まず領地を取り戻す必要があります。
ジャンヌが軍に入るまで、フランスは劣勢でした。しかし神の声を聞いたジャンヌが加わってから、戦況はガラリと変わりました。オルレアン解放を経て、「私たちには神がついている」と勢いづいたフランス軍は次から次へと領地を取り戻します。
オルレアン解放からわずか2ヵ月でジャンヌはランスまでの道を開き、シャルル7世は無事戴冠式を終えて、正式なフランス国王として即位しました。
今までフランス側には、国としてイギリスと交渉できる政府がありませんでした。しかし、シャルル7世が正式に国王となったため、戦争を終わらせるための話し合いができるようになったのです。
功績3「決定的な発言をさけ、宗教裁判で異端認定を避けていた」
ジャンヌは異端審問のさい、決定的な発言を避けて異端認定を避けていました。
当時の裁判記録でもっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と問われたさいの回答です。
ジャンヌはこの質問に
「もし自分が恩寵を受けていないならば、神様がそれを与えてくれるようにと祈ります。もし自分が恩寵を受けているならば、神様がいつまでも私をそのままの状態にしてくれるようにと祈ります」
と、肯定も否定もしませんでした。彼女の返答を聞いた者は呆然とします。
実はこの問答、ジャンヌに仕掛けられた罠でした。教会の教えでは、神の恩寵は人間が認識できるものではないとされています。問いに頷けば「自分は異端である」と言ったことになり、首を振れば「自分は罪を犯しました」と告白したことになるのです。
ただの村娘が、巧妙に仕掛けられた罠を回避するとは誰も思いませんでした。
ジャンヌの思考力は優れており、手を変え品を変えた質問にも明確に、かつ問題のない答えを返しています。ジャンヌの口から「自分は異端である」と言わせたかった教会関係者ですが、彼女のはっきりとした答えにこのままでは論破されてしまうと慌てました。
ジャンヌを異端認定できるような発言を引き出せなかった教会は、彼女が文盲だったことを利用して、「私は異端です」と内容を偽った宣誓供述書にサインさせるしかありませんでした。