杉原千畝(すぎはらちうね)は、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために逃げてきた約6000人に渡るユダヤ人に、彼の独断で亡命するためのビザを発行したことで知られています。
「東洋のシンドラー」と呼ばれるゆえんは、同じく第二次世界大戦中に、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人の中で自身の工場で雇用していた1200人を虐殺から救ったオスカー・シンドラーから名付けられています。
この記事ではそんな世界的に評価されいている杉原杉原千畝について、その功績や生涯、人物像について深掘りして解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
杉原千畝とはどんな人?生涯ハイライト
名前 | 杉原千畝(すぎはらちうね) |
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誕生日 | 1900年1月1日 |
生地 | 岐阜県加茂郡八百津町 |
没日 | 1986年7月31日 |
没地 | 神奈川県鎌倉市 |
埋葬場所 | 鎌倉霊園 |
配偶者 | 杉原幸子(すぎはらゆきこ)1913年 – 2008年 |
子供 | 男子4人うち三男は7歳で死去 |
杉原千畝は1900年1月1日に岐阜県八百津市で生まれました。猛勉強の末に外交官留学生試験に合格し、ロシア語研究生となります。ハルビンの満州国外務部で事務官として勤めたのち、リトアニアで日本領事館を開く任務につきました。
当時、ヨーロッパで起きた第二次世界大戦が激しさを増しており、ユダヤ人の迫害はエスカレートする一方で、彼らを受け入れる先はほとんどなくなっていました。杉原千畝は彼らを救うため、独断でビザを発給し、約6000人の命を救います。その後ヨーロッパ各地で住まいを転々とし、ソ連での捕虜としての収容所生活を経て1947年に帰国しました。
帰国後は許可なくビザを発給したことを咎められて外務省から辞職勧告を受け、職を解かれます。リトアニアでの人道的功績は、国内では評価されることなく時は過ぎ、杉原千畝自身も不遇の日々が続きます。
1985年、イスラエルで日本人として唯一「ヤド・バシェム賞」を受賞します。これは自らの身を顧みず迫害されるユダヤ人を助けた非ユダヤ人を称えるものです。これをきっかけに杉原千畝の名前と功績が国内でも徐々に知られるようになります。杉原千畝は1986年に息を引き取りましたが、2000年に日本国政府から正式に名誉回復がなされました。
杉原千畝の性格や死因、結婚相手
杉原千畝の名前の読み方
杉原千畝の名前は「ちうね」と読みますが、「せんぽ」という呼び方もされています。これは1960年に杉原千畝が仕事でソビエトに駐在する際に、「センポ」と申請してパスポートを取得したことが理由です。
戦前、杉原千畝はハルビンで事務官として満州国外務部で働いていた際に、ソ連から北満州鉄道を安く買い上げたことがありました。その際にソ連が大損をしたという記録が残っており、以前ソ連に入国拒否されたため、今回はそのようなことがないようにビザを申請する際に名前の読み方を「センポ」としたわけです。
リトアニア時代、杉原千畝が「チウネ」という発音をしづらいユダヤ人に「センポ」と呼ばせたという話もありますが、それは映画などの創作のようです。一般的に外国の人たちはごく親しい間柄ではない限りファーストネームでは呼ばないので、「センポ」と読み方を変える必要はなかったのです。
杉原千畝の転機
杉原千畝は幼い頃から学校の成績がかなり良かったため、父親は医者の道に歩ませようとしていたそうですが、本人にその気は毛頭ありませんでした。親が用意した京城医学専門学校の受験を受けずに白紙答案を出し、弁当だけ食べて帰り父親は激怒。そのため親の援助が全くもらえなくなったのです。その後、千畝は英語教師を目指して1918年に早稲田大学高等師範部英語科予科に入学しましたが、学費や生活費の全てはアルバイトで補っていたといいます。
大学2年の時に、運よく見つけた外務省の留学生募集広告に応募したところ、見事合格しこれが後に人生の転機となりました。これは官費によって3年間語学留学ができ、そればかりか、語学力によっては外交官になれる可能性もあるというものです。千畝は受験までの1か月間、死に物狂いで勉強して見事合格したとのことです。
杉原千畝の結婚相手は?
杉原千畝は幸子夫人との婚姻前にロシア人女性と結婚していたことがあります。外務省の語学留学にスペイン語を希望してた千畝でしたが、人数調整でロシア語になったというのも何かの縁でしょうか。杉原千畝は19歳から3年間ハルビンに留学し、その後語学力を認められて24歳で外務省に入りました。
当時、中国のハルビンはソ連政権から逃れてきたロシア人が多く移り住む街でした。ハルビンはロシア人が作った街とも言われ、今でもロシア風の美しい建造物が多く残されています。1924年、杉原千畝は外務省に入るのと同時ぐらいに美しいロシア人女性のクラウディア・アポロノヴァと恋におちて婚姻を交わしています。
杉原千畝はロシア人との結婚により、ハルビンのロシア社会に溶け込みやすくなりました。この結婚こそがロシアに関する情報収集の基盤になったといえるでしょう。千畝はロシアに関する重要な情報を集め、対ソ外交を任せられるまでになりました。満州国外交でのソ連との交渉事に関しては様々な功績を残しています。
しかし、そんな杉原千畝の輝かしい功績に対する嫉妬や妬みも多くありました。1935年には通報もあったためか、ロシア人の妻を利用して「二重スパイをしている」と憲兵に疑いをかけられています。それが原因となり、ロシア人の妻クラウディアと協議離婚をするに至りました。ハルビンでの貯えは全て元妻に譲与しており、杉原千畝は全財産を失ったと言います。その後日本に帰国して友人の妹であった幸子夫人と出会い程なく結婚しました。
杉原千畝の性格は?
杉原千畝の性格を一言で表すならば、「正義の人」と言えます。それに合わせて「曲がったことが嫌いな人」です。また「意志が強い」「正義感がある」といった性格が杉原千畝の行動に垣間見られます。戸主である父親の意見が絶対的な圧力がある時代に、医者にしようとした父の意向に背いて自分の希望する語学の道に進みました。当時、失望した父親からは勘当されています。
留学生になった時に人気のあるスペイン語を希望していた杉原千畝でしたが、当時ロシア語を理解できる職員が少なく、領事館での手続きが滞っているのを見て気持ちを切り替えてロシア語習得に邁進しました。困っている人の役に立ちたいという使命感でしょうか。その後4ヵ月という異例の速さでロシア語の日常会話をあっさりと習得。教師として人にロシア語を教えるほどになったのです。
杉原千畝の正義感の強さを語るには、他にも様々あります。満州国で中国人が日本人から人間以下の不当な扱いを受けているのを見るにつけ嫌気がさしてしまい、功績のある満州外交部をあっさり退任しています。曲がったことが嫌いで頑固な性格ですが、正義感に裏打ちされていたので後に立派な功績を残すことになりました。
杉原千畝の死因は?
1986年7月31日に持病の心臓病で死去。鎌倉市内の病院で最後を迎えたときは享年86歳でした。亡くなる1年前にイスラエル政府から6000人のユダヤ人を救ったことで「ヤド・バシェム賞」諸国民の中の正義の人という名誉な受賞をもらっています。しかし心臓病と高齢のため、エルサレムでの授賞式には杉原千畝の四男である伸生が代理で出席しました。
杉原千畝の葬儀にはイスラエル大使をはじめ300人に及ぶ有職者が参列したということです。また、帰国後に杉原千畝が外務省を辞めたことに多くのユダヤ人が抗議し、千畝の名誉の回復を訴え出ました。2000年には公式に日本国政府から杉原千畝の名誉回復が表明されています。最後の最後で名誉な賞を授与され彼を称える多くの人々が今でも杉原千畝の眠る鎌倉霊園を訪れているのです。
杉原千畝の名言
私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く
私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった
外務省に背いて領事の権限を使って、この人たちにビザを発行しようと思う
世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません
(奥様に対して)ビザを発行しようと思うんだけど、どう考える?ビザを発行すると、我々もドイツに捕まってしまうかもしれない。ユダヤ人を逃がそうとしてるんだから、私達もただではすまない。どう思う?
最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を、文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた
許して下さい。私には、もう書けない。みなさんのご無事を祈っています
杉原千畝は何をした?主な功績
功績1:命のビザを発給
杉原千畝の最大の功績は、ナチス・ドイツに迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、亡命を助けたことです。杉原千畝が発給したビザは2,132枚と推定されていますが、1家族につき1枚のビザがあればよかったため、実際に杉原千畝が助けたユダヤ人は約6,000人と考えられ、現在ではその子孫は25万人にものぼると言われています。
当時、杉原千畝のいたリトアニア日本領事館以外にも、多くのユダヤ人がビザ発給を求めてさまざまな国の領事館に押し寄せていました。しかし中には、ビザを出す代わりに高額な手数料を求めたり、「空ビザ」と呼ばれる本国の了承を得ていない空査証を発給するなど、非人道的な対応を取っていた外交官もいたようです。
また、リトアニアのソ連併合に伴い、リトアニアにあった各国領事館は次々と閉鎖され、日本の領事館も例外ではありませんでした。こうした情勢の中、杉原千畝は可能な限りのビザ発給を行おうと、寝る間も惜しんで渡航許可証を書き続けました。出発する列車の中でも書いて車窓から手渡したとも言われています。
杉原千畝のこうした人道的判断と勇気ある行動が、6,000人を救ったとして「命のビザ」と呼ばれているのです。
功績2:「諸国民の正義の人賞」「ポーランド復興勲章」を受賞
第二次世界大戦中、自らの地位と引き換えになることを覚悟しながらビザを発給し、迫害を受けるユダヤ人に生きる道を切り開いた杉原千畝に対し、イスラエルは「ヤド・バシェム賞」と呼ばれる「諸国民の正義の人賞」、ポーランドは「ポーランド復興勲章」を贈りました。
1985年に贈られた「ヤド・バシェム賞」は現在でも日本人でただ一人の受賞者です。ポーランドの勲章に関しては、杉原千畝は1996年にポーランド共和国功労勲章「コマンドルスキ十字章」を受賞。その後2007年にさらに上位の勲章となるポーランド復興勲章「コマンドルスキ星十字章」が贈られています。
杉原千畝に対する海外の反応や評価
海外の反応
杉原千畝については、日本国内で知られるより前から海外で高く評価する声が多くありました。それは杉原千畝のおかげで命を繋いだユダヤ人たちやその子孫が、杉原千畝への感謝の思いとともにその業績を紹介していたからです。ここでアメリカ人の一部の声を紹介します。
彼は私の家族を救ってくれた。私と70人のいとこが今こうして生きてるのは、彼が私の祖父母にビザを発給してくれたおかげです。
あなたの功績を、私たちは絶対に忘れない。私の親も、ホロコーストから逃れることが出来たんです。
彼は日本の名声を高めた、真の愛国者ね。
イスラエルの反応
イスラエルと杉原千畝の関係といえば、ユダヤ人を救った人として1985年に「ヤド・バシェム賞」がイスラエルから杉原千畝に贈られたことが有名です。国民の7割以上がユダヤ教徒と言われるイスラエルでは、現在も杉原千畝を顕彰する活動が続いています。杉原千畝の功績を後世の人々にも知ってもらいたいと語り部となっている人も多くいます。
イスラエルでは道路や施設の名前に、歴史上の偉大な人物の名前を冠することがよくありますが、杉原千畝のビザで生き延びた人々やその子孫が多く暮らすネタニア市には「スギハラ・ストリート」という道があります。また、イスラエル中部にあるベイトシェメシュの学校には、杉原千畝の功績を称えた記念碑が建てられています。
杉原千畝の存在は、今も日本とイスラエルの関係に大きな影響を与えています。東日本大震災直後、世界で最初に医療チームを派遣したのがイスラエルでした。「杉原千畝の恩があるから」という理由です。また、故郷の岐阜県をはじめ、ビザ受給者が多く上陸した福井県敦賀市には、毎年多くのイスラエルの人々が訪れて大きな観光需要となっています。
ポーランドの反応
杉原千畝はポーランド復興勲章を受勲しています。第二次世界大戦直前、ポーランドにはヨーロッパで最も多い300〜400万人のユダヤ系住民がいたと考えられています。しかしドイツとソ連によって国は分割され、迫害を恐れてポーランドの多くのユダヤ系住民がリトアニアに逃げたのです。杉原千畝はそんな彼らに救いの手を差し伸べました。
もともと日本とポーランドは、日露戦争時のロシア軍に対する工作活動などで深い付き合いがありました。第二次世界大戦でも、国交は断絶したものの情報協力は続いています。杉原千畝はリトアニアで、ドイツやソ連の情報を掴むインテリジェンス・オフィサーとして、ポーランド亡命政権の諜報機関と関係のある情報将校と繋がりを持っていました。
1940年6月、ソ連はリトアニアに軍隊を進ませます。ソ連の強引なやり方を知っていた杉原千畝は、ポーランドからの難民の命はこのままだと危ないと考え、日本の外務本省の許可を得ないままビザを発給する決断をしたのです。杉原千畝の功績は今でもポーランドで高く評価され、今日まで続く日本とポーランドの友好関係の一助となっています。