エーリッヒ・ケストナーは、ドイツ生まれの作家です。主に児童文学や詩集を発表しています。
大学卒業後は詩人として活動していたケストナーでしたが、1928年に『エーミールと探偵たち』を発表し、児童文学作家としての地位を確立します。その後は次々と子供のための小説を発表していき、やがてその名を世界に知らしめていきます。
ケストナーが作家として活動をしていた当初、ドイツはナチスの支配下にありました。ケストナーはナチスによって執筆活動を禁じられ、更には自身の著作を焚書されるという経験をします。
それでもケストナーは亡命をせず、時代の目撃者としてドイツに留まり続けました。ナチスがドイツ政権を握っていた12年もの間、何度となく命の危機に晒される場面があったことでしょう。
1945年にナチス政権が失脚し、ケストナーは積極的に作家としての活動を再開します。1949年に発表した児童文学『ふたりのロッテ』は大ベストセラーとなり、映画、アニメ、ミュージカルになっています。
ケストナーの作品にはユーモアと軽妙なシニカルさがたっぷりと詰まっています。ケストナーの生涯を振り返ってみると、彼の人生そのものにユーモアや皮肉、そして知恵と勇気が詰まっていることが分かります。
大学時代にドイツ文学を専攻し、ケストナー作品の研究をした私がケストナーの魅力をお伝えします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ケストナーとはどんな人物か
名前 | エーリッヒ・ケストナー |
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誕生日 | 1899年2月23日 |
生地 | ドイツ帝国、ドレスデン |
没日 | 1974年7月29日 |
没地 | 西ドイツ、ミュンヘン |
配偶者 | ルイーゼロッテ・エンダーレ(内縁) |
埋葬場所 | 西ドイツ、ミュンヘン、ボーゲンハウゼン墓地 |
ケストナーの幼少期
ケストナーはドイツ帝国のドレスデンに生まれました。父親は工業に従事し、母親は理容師の仕事をしていました。兄弟はおらず、一人っ子だったそうです。母親と父親は不仲で、ケストナーは二人の間で板挟みにされていたといいます。
ケストナーの家庭は決して裕福とは言えませんでした。父親の少ない賃金を補うために母親のイーダは理容師の技術を身につけ、ケストナーの教育費を稼いでいたという話があります。
7歳の頃、ケストナーは教師に憧れを抱き、自身も教師を志すようになります。13歳の頃に教員の養成学校に入学するものの、自分には教師の仕事は合っていないと感じ、教師になるのを諦めます。
ケストナーの作家デビュー
ケストナーは大学に進学後、学業の傍らで詩を発表し続けました。そして大学を卒業した後、ベルリンで詩人として認められ、1928年に『腰の上の心臓』という詩集を初めて出版します。第一詩集は15,000部を超えるベストセラーとなりました。
これまで詩を中心に発表を続けていたケストナーでしたが、出版関係者の勧めで子供のための物語を書くようになります。1929年に発表した児童文学『エーミールと探偵たち』は大ヒットとなり、ドイツに住む多くの子供たちに親しまれました。
『エーミールと探偵たち』の発表後は、詩人としてだけでなく、児童文学作家として広く知られるようになりました。
ケストナーの代表作品一覧は?
- 1929年:エーミールと探偵たち
- 1931年:点子ちゃんとアントン
- 1933年:飛ぶ教室
- 1934年:雪の中の三人男
- 1935年:エーミールと三人のふたご
- 1949年:ふたりのロッテ
- 1949年:動物会議
- 1957年:わたしが子どもだったころ
ケストナーの名言は?
賢さを伴わない勇気は野蛮であり、勇気を伴わぬ賢さなどなんの役にも立たない。
実行しなければ善は存在しない。
理想を持つ者は、それに到達しないように気をつけるがよい。さもないと、いつか彼は自分に似る代わりに他人に似るだろう。
言うことを持っている者は、急がない。時間をかけて一行で言う。
人生を愛せよ、死を思え、時が来たら、誇りをもって、わきへどけ。
ケストナーにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「自身の著書が燃やされる焚書に立ち会った」
1933年5月10日、ドイツの各地で25,000冊にも上る「非ドイツ的な」書物が燃やされました。その中にはケストナーが発表した著作もありました。
ケストナーは、自身の著作が焚書にされる現場に立ち会ったそうです。自らの著作が燃やされる現場を見に行くという豪胆な行動を起こした作家は、ケストナーだけだったといいます。
ケストナーの児童文学作品は子供たちに配慮して焚書の対象にはならなかったため、主に大人向けの詩集や脚本などが焚書の憂き目にあいました。自身の本が燃やされる瞬間を、ケストナーはどのような気持ちで見つめていたのでしょうか。
都市伝説・武勇伝2「内縁の妻と愛人との二重生活?」
ケストナーは生涯結婚することはありませんでしたが、ルイーゼロッテ・エンダーレという女性が生涯にわたってケストナーを支え続けました。彼女はケストナーの内縁の妻だったそうです。
ロッテとの関係を続けながら、ケストナーは50歳の頃に27歳も年下の愛人を作ります。ロッテには内密に交際を続け、58歳の頃に愛人との間に息子のトーマスをもうけました。しかし、トーマスを正式に息子として認知したのは、トーマスが生まれてから6年ほど経った後だったそうです。
ロッテはそれでもケストナーを支え続け、ケストナーが食道癌で息を引き取るのを看取りました。
ケストナーの早見年表
ケストナーは1899年2月23日に、ドイツ帝国のドレスデンで生まれました。父親は工業労働者で、母親は理容師の仕事をしていました。
教師を志していたケストナーは、教育養成所の予備クラスにトップの成績で合格します。
18歳になったケストナーは、第一次世界大戦に兵士として召集されます。しかし訓練中に心臓を患い、除隊となります。
勉強の楽しさを知ったケストナーは、ライプツィヒ大学で文学、演劇史、哲学などを専攻します。この頃から本格的に詩を書き始めました。
大学卒業後、ベルリンで活動を始めたケストナーは世間に詩人として認知され始めます。そして1928年に処女作『腰の上の心臓』という第一詩集を出版しました。
初の子供向け作品『エーミールと探偵たち』を出版します。
1933年5月10日、ドイツ各地で焚書が起きます。ケストナーは自身の書物が燃やされた現場に立ち会いました。
内縁の妻であるロッテに看取られながら、ケストナーは食道癌で息を引き取ります。享年75歳でした。