皆さんはアントニオ・サリエリという人物をご存知でしょうか?彼は1700年代後半のヨーロッパの音楽界のトップに立つ作曲家でしたが、死後はその存在をすっかり忘れられた人物です。
1984年に戯曲「アマデウス」が映画化すると、サリエリはモーツァルトと対立する人物として一気に知名度を上げました。また近年ゲームのキャラクターとして登場したということもあり、それをきっかけに名前を知ったという人も多いのではないのでしょうか。
フィクションに登場するサリエリの姿は「モーツァルトの才能に嫉妬する男」というダークな面を描かれることが多く、実際に作中でモーツァルトの殺害まで企ててしまうこともあります。そんな彼の実際の姿、人生はどのようなものだったのでしょうか。当時の音楽界の事情にも触れながら、現役の声楽家である筆者が簡単にご紹介いたします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アントニオ・サリエリとは?生涯をダイジェスト
名前 | アントニオ・サリエリ |
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誕生日 | 1750年8月18日 |
没日 | 1825年5月7日 |
生地 | イタリア・レニャーゴ |
没地 | オーストリア帝国・ウィーン |
配偶者 | Therese Helferstorfer |
埋葬場所 | ウィーン中央墓地0ブロック |
アントニオ・サリエリの生涯を簡単にダイジェストします。
- 1750年:ヴェネツィア共和国レニャーゴで生まれる
- 1763年:両親を相次いで失くし兄についてヴェネツィアに移る
- 1766年:才能を見出されウィーンへ行く
- 1768年:初めてのオペラ曲「ウエスタの処女」を作曲
- 1772年:喜劇オペラ「ヴェネツィアの市」がヒットする
- 1774年:ヨーゼフ2世によって宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督に任命される
- 1778年:ウィーン宮廷楽長になる
- 1817年:ウィーン楽友教会音楽院の指導者に就任する
- 1825年:死去、ウィーン中央墓地に埋葬される
1750年にイタリア・レニャーゴで生まれ、幼少時から音楽教育を受け才能を現していきます。両親の死後は北イタリアのヴェネツィア(オペラの中心地のひとつ)に移り、更に本格的な音楽教育を受けたのちにウィーンの宮廷音楽家として招聘されました。
1788年・38歳のときにウィーン宮廷作曲家・兼楽長となり、生涯その地位に留まっていました。主要作品は歌劇(オペラ)であり、オペラ・セリア、オペラ・ブッファともに多く作曲しています。当時のヨーロッパの楽壇において間違いなくトップの地位にある人物であり、経済的にも恵まれ安定した人生を送りました。
アントニオ・サリエリの人物像や作品の特徴
幼少期に才能を見出されウィーンへ
アントニオ・サリエリは幼少からイタリアで勉強していましたが、ウィーンに引き抜かれウィーンで活躍しました。音楽が盛んだったウィーンに引き抜かれるというのは、やはり凡人では出来ることではなく如何に才能があったのかがわかるエピソードです。
1766年にサリエリは作曲家フロリアン・レオポルト・ガスマンに才能を見出され、ウィーンに連れて帰られそのままウィーンで作曲するようになりました。ガスマンはウィーン古典派の先駆けとなった人で、ウィーン宮廷楽長も務めていました。そしてサリエリもガスマンを師として、作曲の腕を磨きガスマン亡き後楽長に就いたのです。
近年まで忘れ去られていた人物だった
アントニオ・サリエリは近年まで人々から忘れ去られていた作曲家でした。その彼が再度注目されたのは、「モーツァルトの暗殺者かもしれない」という汚名のためで、ある意味悲劇の作曲家です。
モーツァルトの暗殺は事実無根ですが、ベートーヴェンやシューベルトなどの先生をしていたことなどよりも彼が生前苦しめられた「ゴシップ」のせいで後世に思い出されたのは不思議な因果といえるかもしれません。
多くの楽曲を作曲していたサリエリですが、曲は素晴らしいものの18世紀の豊饒なウィーン音楽界で敢えて選んで聞かれるかは評価が別れるところです。しかしサリエリが忌み嫌た「ゴシップ」で彼の曲も思い出されたのがせめてもの救いといえるでしょう。
アントニオ・サリエリの作品の特徴は?
では実際作曲家としてのサリエリはどのような特徴を持っていたのでしょうか?後ほど動画と一緒にご紹介したいと思いますが、はじめに簡単に説明します。
当時の作曲家たちは、ドイツ系か、イタリア系か(あるいはフランス系か)で大雑把にタイプ分けをすることができます。どちらにも良い点があり、まずドイツ系は厳かで思想的・というイメージです。コンサートは静かに行儀良く聴くもの、という意識の強い私たち日本人がイメージしやすいのがこちらです。対してイタリア系は豪華絢爛で華やかです。軽やかな伴奏や甘いメロディが特徴的で、耳馴染みが良くエンターテインメント要素が強いのがこちらです。当時ヨーロッパの音楽と言えばイタリアが中心地でした。
サリエリはイタリア人でしたが、オーストリア帝国の宮廷楽長として活躍しました。ドイツ系にも受け入れられそうな真面目さとイタリア系らしい愛らしさを兼ね備えたハイブリット型でした。歌劇も非常に格調高い作品が多く、歌詞や歌のメロディの美しさは現在でも高く評価されています。
サリエリのオペラはバロック期からの流れを汲む古典的なオペラ作品の集大成と言っても良いでしょう。しかし時代は既に移り変わっており、サリエリ作品のような歌や言葉を重視する歌劇よりも、歌以外の音楽全てを充実させたモーツァルトやグルックのオペラがその後の主流となっていきます。
アントニオ・サリエリは一体何が功績や凄さ
功績・凄さ1「サリエリの交友関係と弟子がすごい」
サリエリの交友関係はとっても豪華です。彼は宮廷楽長でしたのでハプスブルク家のネットワークの強さもあったのでしょう。まず交流のある同年代の音楽家にはモーツァルトはもちろん、グルックやハイドンがいます。そして何といってもサリエリの弟子たちの豪華さには驚きます。
あのベートーヴェンや、ピアノのエチュードで有名なツェルニー、歌曲王シューベルト、更にはフンメル、モシェレス、マイアベーア、そしてリストなどの世界的な音楽家・作曲家たちは皆サリエリの門下生なのです。ベートーヴェンの初期作品などはサリエリの影響を非常にわかりやすく受けていますので、是非聴き比べてみてください。
功績・凄さ2.「多くの社会貢献をした」
サリエリは両親の死後ヴェネツィアでガスマンという作曲家に師事します。サリエリの才能を見出して経済的な支援を惜しまなかったガスマンに対し大変に恩義を感じていたようで、サリエリ自身も後年慈善活動を行うことになります。
その内容は月謝を取らずに弟子をとる、失職した演奏家やその家族のためにチャリティ・コンサートを開く、などと言った内容でした。このようなサリエリの行いが、後世にも名を連ねる音楽家たちの成長を支えたように思えます。
アントニオ・サリエリの代表曲
- 歌劇「アルミーダ」 初演1771年6月 ウィーン
- 歌劇「見出されたエウローパ」 初演1778年8月 ミラノ
- 「皇帝ミサ」 ニ長調 (1788年)
- 歌劇「ダナオスの娘たち」 初演1784年4月パリ
- 歌劇「タラール」 初演1787年6月パリ
- 歌劇「ヘラクレイトスとデモクリトス 」 初演1795年8月 ウィーン
- 歌劇「ペルシャの女王パルミーラ 」初演1795年10月 ウィーン
- 戴冠式「テ・デウム」 (1792年)
- 歌劇「ファルスタッフ」 初演1799年1月 ウィーン
- レクイエム ハ短調 (1804年)
アントニオ・サリエリにまつわる逸話
逸話1「モーツァルトとの確執は本当か?」
「アマデウス」に描かれていたような、サリエリとモーツァルトとの対立は実際にあったのでしょうか?実はこのことに関してははっきりわかっていないというのが事実です。
当時のヨーロッパの楽壇ではイタリア系作曲家VSドイツ人系作曲家という構図が成り立っていました。長い間ウィーン宮廷楽長という高い地位にあったイタリア人のサリエリが、ドイツ系で若手のモーツァルトに嫌がらせをしているという根も葉もない噂が人々の関心を集めるスキャンダルとして扱われたのではないか、という説が濃厚です。
しかし実際モーツァルトは「サリエリがいるせいで、(自分が)宮廷楽長になれない」というようなことを漏らしていたようです。ただ、モーツァルトのユーモア溢れる性格を考えると、この言葉はサリエリに対する最大の賛辞だったかも知れないと推測できます。2人で一緒に「オフィーリアの健康回復に寄せて」というカンタータ(お互い知り合いだったソプラノ歌手の休業明けを祝って作曲された)も作曲しており、不仲という説は現在否定されつつあります。
サリエリとモーツァルトがお互いに意識し合い、火花を散らしていたことは事実だったかも知れませんが、対立というよりは良きライバルのような関係だったのではないでしょうか。
逸話2「サリエリの暗い晩年は本当?嘘?」
晩年精神病院に入院し、「自分がモーツァルトを殺した」と譫言を言っていた、というサリエリのイメージもフィクションでよく描かれる彼の姿ですが、実際はどうだったのでしょうか?
これは半分作り話で、半分は本当だったといえるでしょう。サリエリが晩年入院しており、死の直前まで病院で過ごしていたというのは事実です。しかし彼の病状は精神疾患ではなく、痛風と怪我の治療のための入院でした。
サリエリは社会的身分も高く経済的にも裕福であったため、若い頃は「サリエリがモーツァルトを毒殺した」というような、今だと訴訟レベルの誹謗中傷にも毅然としていられる心の余裕がありました。しかし晩年になると体力の衰えと共に気力も落ち、自身の弟子に「自分はモーツァルトを殺したりなんかしていない」というような弱音を吐いていたようです。ところがこの言葉を聞いた弟子が逆にサリエリを怪しんで「彼こそがモーツァルトを殺したに違いない」と日記に書いてしまいました。
その内容が伝わっていき、今でもサリエリには暗いイメージが残っています。根も葉もない噂話の恐ろしさは、今も昔も変わらないですね。