ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893年)は、ロシア生まれの作曲家です。ゲームやテレビ番組などのBGMでよく流れる「ピアノ協奏曲 第一楽章」や、バレエで有名な「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などを作曲。名前や曲を知っている人も多いのではないでしょうか。
しかし、作曲家としてのチャイコフスキーは知っていても、チャイコフスキー自身の人柄やどんな人生を送ってきたのかはあいまいだったり、詳しく知りたいと思い、この記事を訪れた人もいるはず。
そこで今回は、天才作曲家ピョートル・チャイコフスキーの生涯について解説します。チャイコフスキーの生涯を年表にまとめつつ、功績や逸話、代表作も交えて紹介しますよ。
この記事を機に、チャイコフスキーが歩んだ激動の生涯に迫っていきましょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ピョートル・チャイコフスキーはどんな人物か?
名前 | ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー |
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誕生日 | 1840年5月7日 |
没日 | 1893年11月6日 |
生地 | ロシア ボトキンスク町 |
没地 | ロシア サンクトペテルブルク |
配偶者 | アントニーナ・イワノブナ |
埋葬場所 | サンクトペテルブルク アレクサンドル・ネフスキー大修道院 |
チャイコフスキーの生涯をハイライト
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年生まれのロシアの作曲家です。ウラル地方のヴォトキンスクで、鉱山技師の子として生まれたチャイコフスキー。5歳のころ、家庭教師からピアノを習い才能の片りんを見せます。
しかし、息子を音楽家にする気がなかった両親はチャイコフスキーへ特別な音楽教育をほどこしませんでした。代わりに彼は、首都ペテルブルクにある法律学校に入学します。学校卒業後はロシア帝国の官僚となりました。
転機となったのはアントン・ルビンシュテインとの出会いです。音楽への興味を持ち続けたチャイコフスキーは官僚として勤務する傍ら、ロシア音楽協会に入りアントン・ルビンシュテインから作曲などを習いました。
音楽教育を受けることで才能を開花させたチャイコフスキーは23歳で官僚を辞め、ロシア音楽協会モスクワ支部で音楽講師となります。その後、『ピアノ協奏曲第1番』や『交響曲第4番』、『白鳥の湖』など現代でも有名な楽曲を次々と作曲しました。
作曲家としての名声を高めたチャイコフスキーは、1878年に音楽講師を辞め作曲活動に専念。その後も『眠れる森の美女』や『くるみ割り人形』などの名曲を世に送り出します。その後、1893年に『交響曲第6番 悲愴』を発表したわずか9日後に53歳で急死しました。
臆病でナイーブな気性の持ち主だったチャイコフスキー
チャイコフスキーは、「自信のない臆病者」だったと言われています。ストレス対応が物凄くヘタであり、プレッシャーの掛かる場面では体調を崩してしまう事が多かったそう。
例えば音楽学院の卒業後、はじめて自分で作曲した交響曲を恩師に批判された際、ショックでうつ病に近い状態にまで追い込まれて寝込んでしまったといいます。友人や仲間が多かったからこそ何とか最悪の事態には至りませんでしたが、偉人でそれほどメンタルが弱いというのは珍しいですよね…。
「ロシア5人組」と一線を画した
チャイコフスキーは、同時代の代表的音楽家たちである「ロシア5人組」と一線を画した音楽を作曲しました。彼の音楽はドイツ・ロマン主義の流れをくむ作風で「西欧派」とよばれます。
ロシア5人組とは、パラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフの5人のことです。
彼らは、ロシアの古くからの音楽に注目した民族主義的な音楽を作曲し、一世を風靡していました。この時代に流行した民族主義的な音楽を「国民楽派」とよびます。個人的にはチャイコフスキーは彼らと親交を持ったようですが、音楽面では対立していたといってもよいでしょう。
序曲『1812年』でロシアの勝利を描いた
序曲『1812年』はロシアとナポレオンの戦いを描いた作品。この楽曲は大砲や教会の鐘が登場する大掛かりな曲として知られています。主題はナポレオンに対するロシアの勝利で、誰から見てもわかりやすい作品といえるでしょう。
チャイコフスキー自身、あまりこの曲の作曲で乗り気でなかったといわれています。曲が出来上がっても、チャイコフスキーはこの曲を高く評価していませんでした。評価を変えるきっかけとなったのは、1887年のペテルブルクでの演奏でした。
この成功以来、序曲『1812年』はチャイコフスキーの代表作の一つとして知られるようになります。派手な演出と相まって、現在でも非常に人気のある楽曲なんですよ。
同性愛者だったチャイコフスキー
これはかなり有名な話で、チャイコフスキーは女性と結婚していながら、実は幼いころから同性愛者だったということが明らかになっています。
19世紀のロシアでは、決して同性愛の存在は珍しいことではありませんでした。しかし、人前で話すことははばかられ、かつ音楽家として成功するには壁となってしまう事実であり、チャイコフスキー自身かなり悩んだと言われています。
異性関係も豊富だったチャイコフスキー
チャイコフスキーは同性愛者ではありましたが、過去結婚を含め、様々な女性と親しくなっています。
具体的には、28歳の時に「デジレ・アルトー」というソプラノ歌手に求婚。しかし、アルトーは海外で公演を行っている間に出会ったスペイン人男性と結婚し、プライドが傷付けられてしまいます。ただその後はアントニーナという女性と結婚するなど、ある程度モテていたことが伺えます。
チャイコフスキー最後の曲は『交響曲第6番 悲愴』
チャイコフスキー最後の作品は、『交響曲第6番 悲愴』です。この曲は、チャイコフスキーがヨーロッパ各地を旅行していた1892年から1893年に着想を得ました。彼は手紙の裏やホテルの領収書などに悲愴のアイデアを書いていたそうです。それだけ突然のひらめきだったのでしょう。
1893年2月にロシアに帰国したチャイコフスキーは、モスクワ郊外の自宅で悲愴の作曲に取り掛かります。そして、わずか2か月弱で基本的なプランを書き上げました。最終的に彼が悲愴を完成させたのは、1893年8月19日のことです。
悲愴の初演は1893年10月16日。この時の演奏は、正直なところ微妙な反応だったと伝えられています。それからわずか9日後にチャイコフスキーは急死してしまいました。そのため、この悲愴がチャイコフスキーの絶筆となります。
チャイコフスキーの死因はコレラ感染による急死
チャイコフスキーは53歳の時に、生水が原因でコレラに感染し、急死しています。当時の証言でもコレラの典型的な病状を見せていたようで、本当に突然の死だったとされています。
しかし、1978年になってロシアの音楽学者が、「チャイコフスキーは自殺(毒殺)を謀った」という説を唱えました。何でも同性愛者であることが社会的な問題になる前に、コッソリと秘密裁判が行われ、服毒自殺を薦められたとか…。しかし、このあたりの真実は未だにハッキリとわかっていません。
ピョートル・チャイコフスキーの代表作品
ピアノ協奏曲 第一楽章
日本でも多くのテレビ・演奏会などで取り上げられている不朽の名作です。出だしは誰しもが一度は聴いたことがあるはず。
白鳥の湖
チャイコフスキーは出身地・ロシアのお家芸であるバレエ楽曲にも力を入れています。『白鳥の湖』はチャイコフスキー三大バレエ音楽の1つとなっています。
眠れる森の美女
「白鳥の湖」に続く、チャイコフスキー三大バレエ音楽の1つです。上演時間は優に3時間を超える長編作となっています。
くるみ割り人形
チャイコフスキー三大バレエ音楽の1つです。ドイツの童話を元にして制作され、100回以上の改定を経て今の人気に繋がっています。
ピョートル・チャイコフスキーの作品一覧
- ピアノ協奏曲 第一楽章 -1875年
- 白鳥の湖 -1877年
- 眠れる森の美女 – 1889年
- くるみ割り人形 -1892年
ピョートル・チャイコフスキーの功績
功績1:「音楽人気の乏しいロシアで成功」
チャイコフスキーが過ごした19世紀のロシアは、音楽に対してそれほど熱心でなく、音楽学校などもないという状態でした。そのため、当然有名な音楽家を輩出しておらず、成功は難しいとされていたのです。
しかし、1862年に『ペテルブルク音楽院』という学校ができ、そこにチャイコフスキーは一期生として入学します。優秀な成績で卒業した後、イギリスやアメリカなど世界中で自身の楽曲が披露され、苦労もありましたが最終的には大絶賛を勝ち取っています。今では分野を問わず、ロシアで最も成功した偉人の1人となっているのが凄いです。
功績2:「誰もが知る超有名ピアノ交響曲を作曲」
出だしが物凄く有名な『ピアノ協奏曲 第一楽章』を作曲しています。本曲はアメリカのヒットチャートで1位を記録するなど、世界中で大ヒットしました。
アメリカを通して日本人にも広く知れ渡ったとされ、今やバラエティ番組やゲームのBGMとして様々な場面で流れています。さらに、実はこの楽曲がチャイコフスキー自身初めて作った「ピアノ協奏曲」だということで、その才能の高さが分かりますよね。
功績3:「バレエの超有名曲を2つも生み出す 」
『白鳥の湖』『くるみ割り人形』という、チャイコフスキーによって生み出された超有名なバレエ音楽が存在します。今やチャイコフスキー=バレエ音楽と言えるほど、多くの人がこの2曲を知っています。
ロシア発祥のバレエは、今や日本の女性も多く習い事等で関わっています。しかし、それほどバレエをメジャーにしたのは間違いなくチャイコフスキーが本2曲を作曲し、世に送り出したからです。21世紀を迎えた現代でも愛されているというのは、本当に凄いことですよね。
ピョートル・チャイコフスキーの名言
音楽は幻想ではなく、むしろ啓示です。
こんなに嬉しかったことは生涯二度とない。(トルストイという人物を公演で泣かせた際に出た名言)
インスピレーションを待っていたら何も書けない。私は毎朝必ず作曲をする。そうすると神がインスピレーションを送り込んで下さるのだ。
チャイコフスキーがかかわっていたメック夫人って・・!私の好きな音楽家はその人物のお抱え管弦楽団に一時期かかわってたことがあり、チャイコフスキーの曲を演奏してた。フランス出身の音楽家なのでチャイコとはあまり関わりがないだろうと思っていたけれど、まさかそんなつながりがあったとは。
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