ピョートル・チャイコフスキーはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、代表作品も紹介】

チャイコフスキーの逸話

逸話1:「借金苦をメック夫人に救われた」

チャイコフスキーを資金援助したメック夫人

チャイコフスキーは、知人や友人から少なからぬ借金をしていました。借金まみれになりかけていたチャイコフスキーを救ったのは、メック夫人(ナジェジダ・フォン・メック)です。彼女は1877年から14年間にわたって、チャイコフスキーに資金援助し続けました。資金援助は年額6000ルーブルに及びます。

驚くべきことに、チャイコフスキーとメック夫人は14年間一度も会っていません。二人は文通のみで交際を続けたのです。援助を受けたチャイコフスキーはメック夫人に対する感謝を示すため、『交響曲第4番』を彼女に捧げます。

晩年、メック夫人は精神を病み、破産したと思い込んでしまいました。そのため、チャイコフスキーに手紙を送り資金援助を打ち切ってしまいます。

逸話2:「『眠れる森の美女』で高評価を得た」

『眠れる森の美女』は、チャイコフスキーが1888年から翌年にかけて作曲したバレエ音楽です。バレエ音楽としてはとても長い楽曲となります。縮小版で2時間以上、フルで演奏すると3時間に及ぶ大作でした。

マリインスキー劇場

この『眠れる森の美女』の誕生に深くかかわったのが、帝室マリインスキー劇場の総裁だったイワン・フセヴォロシスキーです。彼は、『眠れる森の美女』の原案と衣装デザインを担当しました。また、バレエの振付はすでに高い評価を得ていたフランス人のプティパが担当します。

彼らが才能を結集して作り上げた『眠りの森の美女』は、ルイ14世風の絢爛豪華な衣装と華やかな音楽、優美な振付の融合により高く評価されバレエ音楽史上に残る名曲となります。

逸話3:「学生時代の恋人との写真をずっと仕事机に貼っていた」

恋人との写真を大事にしていた

チャイコフスキーが「同性愛者」だったという事実は先ほどお伝えしましたが、なんと学生時代に慕っていた下級生の男の子・キレーエフとの2ショットを後年まで仕事机に貼っていたそうです。

しかもその2ショットは手を繋いでいる写真だったらしく、当時学校では上級生と下級生の恋愛は禁じられていたのにも関わらず、しっかり恋愛していたことがわかります。やはり恋愛にも音楽同様、強い情熱をもって関わっていたのでしょうか…。

ピョートル・チャイコフスキーの簡単年表

1840年
ロシア・ウラル地方で産まれる

ロシアの首都・モスクワから東へ700kmいった場所にある、「ボトキンスク」という町でチャイコフスキーは産まれました。ここは鉱山の町であり、父親がその鉱山で働く人たちの監視官を務めていたから住んでいたと言われています。
1859年
法律学校を卒業し、ペテルブルクの法務省に就職

チャイコフスキーは元々音楽家の道に進むとは誰も予想しておらず、最初は「政府のお役所仕事」に就職しました。それが法務省です。当時は法律学校を30名中13位という平凡な成績で卒業していたことが記録に残っており、あらゆる面で「普通の」生活を送っていたことが明らかになっています。
1866年
『交響曲第一番』を作曲する

ペテルブルグ音楽学院を卒業後、初めて交響曲を作曲しまう。体調を崩してまで無理をして作曲を果たしますが、恩師に批判され、何度か手直しを加えてようやく一部を演奏してもらえる…という有様でした。
1875年
『ピアノ協奏曲 第一楽章』の初演

日本人でも一度は聴いたことのある代表曲『ピアノ協奏曲 第一楽章』がアメリカにて初演を迎えました。当初は有名音楽家に批判されるなど散々でしたが、アメリカでは無事に成功し、知名度を上げています。
1876年
『白鳥の湖』が完成する

バレエ音楽『白鳥の湖』が完成。翌年には初演を迎えています。しかし初演当時は踊り手や指揮者などに恵まれず、評価を得られなかったと言われています。
1885年
ロシア音楽協会のモスクワ支部理事に選ばれる

この頃にはロシアで最も有名な音楽家として、名声ともに最高潮に昇りつめます。その結果、自身がかつて教鞭を取っていたロシア音楽協会の理事に選出されました。
1892年
『くるみ割り人形』の初演が行われる

『白鳥の湖』に続いて有名なバレエ音楽『くるみ割り人形』のペテルブルグ初演が行われました。現在まで100回以上の改定がされている世界的な有名作です。

1893年
コレラにより急死

弟の家で急に体調を崩し、そのまま急死しています。要因は死の間際に飲んだコレラだと診断されていますが、矛盾点なども多く、ハッキリとした死因はわかっていません。

ピョートル・チャイコフスキーの生涯年表

1840年 – 0歳「ロシア・ウラル地方で生まれる」

それなりに裕福な家庭の次男として生まれる

チャイコフスキーの生家

本名『ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー』は、1840年5月7日にボトキンスクという鉱山の町で誕生しました。父親のイリヤは鉱山の監視官を務める貴族で、母親のアレクサンドラはフランス人の血を引く女性です。

父親は仕事熱心で社交的な男性であったものの、そこまで子どもとは接さないタイプ。一方母親は教養があり控えめな性格で、ピアノなど音楽に精通していたそうです。そんな両親に育てられ、チャイコフスキーはこれといって不自由することもなく、のびのびと育ちました。

モスクワに引っ越し後、母親がコレラで亡くなる

父親が新しい仕事を求めた影響で、ロシアの首都・モスクワへと引っ越します。しかし、惨めなことに当てにしていた仕事を別の人間が請け負ってしまい、しばらく父が失業者に…。しかも当時モスクワにはコレラが蔓延しており、厳しい期間を過ごします。

ただ別の町で工場長の仕事が見つかったことで、チャイコフスキー一家は更に引っ越します。法律学校への入学まで順風満帆に過ごしていきました。しかし、14歳の時に母親がコレラによって死去。電報でこれを知ったチャイコフスキーは、深い悲しみと喪失感を感じました。

1859年 – 19歳「法律学校を卒業し、ペテルブルクの法務省に就職」

音楽家の道を諦め、法務省に就職

音楽の道を諦めペテルブルクの法務省に就職

母親が亡くなって以降、悲しみをぶつけるかのようにチャイコフスキーは音楽への興味を強めていきます。学生の頃にピアノのレッスンを受けますが、当時の講師が「チャイコフスキーには才能の欠片もないので、音楽家になることはオススメしない」と父親に通達し、泣く泣くお役所の仕事に就いたのです。

あくまで親の決めた仕事でしたが、チャイコフスキーは働いて稼いだ給料で演劇やオペラ、バレエなどを観に行くことも増えました。そういった意味では、法務省にいたことで客観的に音楽を楽しむ時間ができ、益々関心を強める手立てとなったと予想できます。

ペテルブルグ音楽院が創設し、入学を決める

ペテルブルク音楽院

当時のロシア皇帝の叔母が影響し、音楽文化の発展へ力が注がれました。その一環として建てられたのが「ペテルブルグ音楽院」です。ロシアから有名な音楽家を輩出しよう!という強い意欲の元に創設され、チャイコフスキーはその学院の一期生として入学を果たしました。

また、チャイコフスキーが法務省にいながら音楽熱を再燃した理由は、友人とのヨーロッパ旅行だと言われています。ドイツなど音楽が職業として成り立っている国々を訪問したことで、かなり興奮したことは想像に難くありません。そのタイミングで音楽学院が創設したわけですから、今考えると非常にタイミングが良かったと言えますね。

1866年 – 26歳「『交響曲第一番』を作曲する」

優秀な成績で音楽学院を卒業

学生時代から作曲の腕を認められていた

チャイコフスキーは熱心に音楽を勉強し、卒業論文(=曲を1つ作曲する)の提出まで至っています。ただ当時のエピソードで、作曲についての質問に答えなければいけない機会があり、自身がなかったチャイコフスキーはこの質問会を欠席したそう。

これに院長は激怒して「卒業資格を与えない」とまで言い張りますが、作曲自体は本当に素晴らしい出来栄えであったため、怒りを沈めて卒業証書を授与しています。また、3年間の功績を称え、銀のメダルまで授与されたと言います。

制作活動に打ち込み、『交響曲第一番』を作曲

若き頃のチャイコフスキー

卒業後は作曲活動に打ち込みます。しかし、あまりのペースで作曲活動に打ち込んだ結果、医者に「発狂直前です」と言われるほど精神的に病んでしまい、一時休業を挟んでいます。

ただその数か月後には何とか自身初の楽曲『交響曲第一番』が完成させ、自身を持って恩師アントン・ルビンシテインに楽譜を見てもらいに行きます。ですがその想いは裏切られ、「こんな交響曲は演奏できない」と酷評を受けます。何度も改定してようやく演奏に漕ぎつけますが、それでも聴衆の反応はイマイチという結果に終わりました。

1875年 – 35歳「『ピアノ協奏曲 第一楽章』の初演」

ピアノ協奏曲を作曲し、アメリカで成功する

成功の第一歩を踏み出した

誰しも一度は聴いたことのある『ピアノ協奏曲 第一楽章』を作曲し、アメリカのボストンで初演を行っています。この時の演奏者は当時世界で最も有名なピアニストの1人「ビューロー」という方で、そんな幸運も後押しし、見事に聴衆のアンコールを勝ち取っています。

この曲について演奏したビューローは、「高潔で力強く、独創的な曲想」「作品の素晴らしさを全て教え上げようとするならば、私は疲れ果ててしまうでしょう」と大絶賛しており、アメリカで受け入れられたことを明らかにしています。

しかし、恩師のルビンシテインはまたしても酷評…

先ほど『交響曲 第一番』を否定した恩師のルビンシテインは、この「ピアノ協奏曲」についても真っ向から否定しています。

具体的には、「きみの協奏曲には何の意味もない。絶対に演奏することはできない。意味のあるのは、2ページか3ページだけ。あとのページは破り捨てるか、全て書き直すかした方がいい」と酷評しており、チャイコフスキー自身もこれにはかなりのショックを受けたと言います。

1876年 – 36歳「『白鳥の湖』が完成する」

世界的なバレエ音楽『白鳥の湖』とは?

優雅なバレリーナたち

チャイコフスキーの三大バレエ音楽の1つ『白鳥の湖』は、ドイツの童話『奪われたヴェール』を元に構想が練られており、チャイコフスキーにとって初めてのバレエ音楽です。

初演当時は踊り手・振付師・指揮者・衣装・舞台装置などあらゆる面で恵まれず、なんとお蔵入りとなり、チャイコフスキーの書斎に眠っていたと言います。有名になったのはチャイコフスキーの死後、弟子による再演がキッカケで、長い年月を掛けて広まっていったことが分かります。

この頃チャイコフスキーを翻弄した2人の女性

手紙で愛を育んだ

当時チャイコフスキーが関わった2人の女性が「ファン・メック夫人」と「アントニーナ」です。ファン・メック夫人は大変なお金持ちで、文通を通してチャイコフスキーと親しくなったあとは送金をしたり、愛する気持ちを手紙で伝えあったりと、かなり深い関係になったとされています。

また、アントニーナは音楽院の生徒で、しつこくラブレターでチャイコフスキーに求婚を迫ったと言われています。色々と偶然が繋がった結果その片思いは実り、チャイコフスキー初めての正式な妻となりました。しかしその結婚生活は長く持たず、精神的に病んでしまったチャイコフスキーを発端に、別居へと至っています。

1885年 – 45歳「ロシア音楽協会のモスクワ支部理事に選ばれる」

かつて職を与えてくれた音楽協会の理事に

「ロシア音楽協会」とは、チャイコフスキーが26歳ごろから音楽教師として教鞭を取っていた組織であり、当時のチャイコフスキーにとっては音楽関連で初めての職でした。

ロシア音楽協会

その団体から認められ、最も大きいモスクワ支部の理事長に任命されたことで、チャイコフスキーはロシア音楽家のトップとして自身を持ち始めます。この頃はオペラや交響曲など多数の作曲をしていたことからも、順風満帆っぷりが伺えますね。

「指揮者」にも挑戦

指揮者にも挑戦したチャイコフスキー

チャイコフスキーはこの頃「指揮者」にも挑戦しています。実はチャイコフスキー自身20代の頃に指揮者を務め、そこで大失敗をしてしまった過去があります。しかし、それでも再挑戦したということから、いかに当時自信を持って活動していたかがわかります。

そうして不安を抱えながら指揮を担当し、結果拍手喝采に包まれました。これにはチャイコフスキーも「誰もが私をほめちぎります。私にこれほど指揮の才能があったとは思いも寄らなかった」と自画自賛しており、喜びに浸っている様子が見て取れます。

1892年 – 52歳「『くるみ割り人形』の初演が行われる」

チャイコフスキーの三大バレエ音楽『くるみ割り人形』とは?

初演当時の反響はそこまでだった

『くるみ割り人形』は、ドイツの作家ホフマンの原作『くるみ割り人形とネズミの王様』を題材としたバレエ楽曲で、先ほど紹介した『白鳥の湖』、有名な『眠れる森の美女』と並んで三大バレエ音楽と称されています。

元々マイナーな主題であったことから、初演当時はそこまで大きな反響は得られなかったそう。ただ逆に大成功をしなかったからこそ、現代でも新演出・新振り付けが作成され、改定を経て人気になっていったと言われています。

1893年 – 53歳「コレラにより急死」

チャイコフスキーはコレラに感染し急死する

チャイコフスキーの眠る墓

チャイコフスキーは1893年の10月、ペテルブルグに芝居を観に行ったあと、11月に友人の家で消化不良を引き起こします。ただ胃腸の調子が悪いことは珍しくなかったので、そのまま放置。しかし一杯の水を飲んだ後、更に体調は悪くなり、結果家から出られないほど症状は悪化しています。

そうして医者が呼ばれると、「コレラ」という診断を受け、あっけなくチャイコフスキーは亡くなっています。飲んだ水が生水であったことからコレラに感染されたと考えられ、嘔吐や腎不全、高熱など苦しみの中でチャイコフスキーは急死する最後となりました。

本当の死因は「自殺」だった…!?

チャイコフスキーの死後数十年が経った1978年。ロシアの音楽学者が「チャイコフスキーは自殺である」という説を発表します。これは有名人のチャイコフスキーが同性愛者であることで、社会的問題に発展することを恐れた政府の力が働いたのであろう…という説になっています、

しかし、あくまでこの説は噂話程度のものであり、症状を見てもコレラの可能性が高いとされています。しかし、当時作曲した『交響曲 第六番』の初演を『悲創』というタイトルに急遽変更していることから、「チャイコフスキーは死を悟っていた=自殺することが確定していた」と推測する人が多いようです。

いずれにせよ、今となっては急死の真相は誰もわからない状態となっています。

ピョートル・チャイコフスキーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

中学生でも理解できるような、平易な文章で書かれた解説書兼伝記です。専門用語もほとんどありませんので、例え音楽初心者であっても確実にチャイコフスキー理解が深まるような一冊となっています。

チャイコフスキー-作曲家・人と作品シリーズ-

5,000通以上の手紙からチャイコフスキーを深堀りした解説書。文章的に読みづらい箇所もある本ですが、チャイコフスキーについて知見を深めたい方は、参考書としてぜひ読んでみてください。あとは付録の作品一覧も地味にありがたいです。

くるみ割り人形

英語版の本ですが、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』の原作小説となっています。Kindle版で無料にて読むことができるので、読んでみるとチャイコフスキーの世界観への理解が深まるかなと思います。

おすすめの動画

チャイコフスキー 名曲10選

『ピアノ協奏曲 第一楽章』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』など、チャイコフスキーの中でもずば抜けて有名な楽曲だけを厳選して流してくれている動画です。これだけ見れば有名どころは全て抑えられます。

庄司紗矢香さん チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲二長調

日本人ヴァイオリニストの庄司さんが演奏するチャイコフスキーの代表的な協奏曲。素人が聴いても鳥肌が立つ圧倒的なメロディーは本当に素晴らしいです。

おすすめの映画

チャイコフスキー

チャイコフスキーの生涯を追ったドキュメンタリー映画。何十年も前の映画ですが、幻想的なロシアの風景に合わせて流れるチャイコフスキーの楽曲が心を洗ってくれます。モノクロで画質が悪い部分もあるので、ブルーレイ盤でぜひ視聴しましょう。

関連外部リンク

ピョートル・チャイコフスキーについてのまとめ

ロシアで最も有名な偉人として、今なお世界中に知られるチャイコフスキー。『ピアノ協奏曲 第一楽章』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』など、数々の代表曲を世に送り出し、長い年月をかけて現代でも多くの人に愛されていることは、本当に素晴らしい功績です。

これまで音楽に触れてこなかった方であっても、チャイコフスキーの楽曲は絶対に耳にしたことがあります。だからこそ、今後は「なぜそんな有名なのか?」「音楽的にどんな部分が優れているのか?」という所に焦点を当て、学びを深めていくと面白いと思います。

本記事から音楽という教養を身に付け、新たな趣味嗜好を広げる方が一人でも増えて下さることを祈っています!

こちらの記事もおすすめ

音楽史とは?西洋クラシックから日本まで年表順でざっくり解説!
日本の音楽史がよく知れるおすすめ本5選【入門から上級まで】

1 2

1 COMMENT

コメントを残す