若い時分より豊臣秀吉に仕え、江戸幕府の初代将軍である徳川家康からも高い評価を受けながら、親友との友情を優先して関ヶ原に散った義勇の名将・大谷吉継。
そのエピソードの清廉なカッコよさから、戦国時代好きからの人気は非常に高く、戦国時代マニアからの人気は、かの信長・秀吉・家康の三英傑にも決して劣らない人物です。
そんな吉継の代名詞と言えば、やはり顔全体を覆う白い頭巾。「大谷吉継」という名前を知らずとも、「石田三成とよく一緒にいる、白い頭巾の武将」と言えば、ドラマなどで思い当たる人も多いのでは?
とはいえ、その白い頭巾は決して「おしゃれ」を目的としたものではありませんでした。
白い頭巾は、吉継にとって「なくてはならないもの」であり、同時に「忌み嫌うべきものの象徴」――――「病によって崩れてしまった顔を隠すためのもの」だったのです。
では、そんな吉継の病気は、一体どんな病気だったのか。
この記事では、大谷吉継の病気について、様々な説から深掘りしていきたいと思います。
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
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大谷吉継は何の病気だった?
「大谷吉継の病気は何だったのか」については、非常に多くの説が存在して、現在もはっきりとした結論は出ていません。
通説はいくつか存在していますが、そもそも大谷吉継という人物の記録自体が、さほど多いわけではないため、資料自体にも虚実が入り乱れ、信ぴょう性が疑問視されている状況なのです。
そもそも、大多数の方が「大谷吉継」からイメージするだろう「白い頭巾で顔を隠していた武将」という記述も、江戸時代に書かれた資料に由来するイメージのため、もしかすると「白い頭巾の武将」というイメージ自体も、後世の創作である可能性があります。
というわけで、ここでは「どの病気だった」という結論を出すのではなく、一般的に語られる通説を三つほど紹介していきたいと思います。
最も有力な説は「ハンセン病」
まずは、吉継の病に関する記録や説を簡単に整理しましょう。
大谷吉継が白い頭巾で顔を隠したのは、「病によって崩れてしまった顔を隠したかったから」という説が一般的です。他にも、石田三成との友情を示す「吉継の顔から”膿が落ちた”お茶を、三成が気にせずに一息に呷った」というエピソードも有名でしょう。
こういったエピソードを纏めると、吉継の病は「顔の変形と、顔の化膿と膿の噴出を伴う病である」ということになります。
そして、以上のエピソードの状況証拠から考えるに、吉継がり患していた病は「ハンセン病」であると言う説が、現在における通説です。
実際、その説を補強するエピソードとして、病を負った吉継に対して「吉継が”業病”の治療のために、夜な夜な城下の領民を切り殺して食べている」という噂が立っていたという記録も残っています。
当時の俗信として、「業病(当時で言う”ハンセン病”)は、病を負った部位と同じ部位を食べることで完治する病気である」というものがあり、そんな噂や俗信が存在していたことも、「吉継の病=ハンセン病」という説を強める原因となっています。
しかし、その辻斬りのエピソード自体も出所や年代がはっきりとはわかっておらず、創作の可能性も否定しきれません。
ですので、この説は有力ではありますがあくまでも”通説”であり、まだ”真実”とは言い難い状況にあると言えるでしょう。
「梅毒」だったという説も
「ハンセン病説」に対する異説として、「吉継の病は”梅毒”だった」という説も根強く残っています。「顔かたちが崩れ、化膿と膿の噴出を伴う病」という意味では、確かに否定できない説だと言えるでしょう。
実際、吉継はかなりのイケメンかつプレイボーイであったとも言われているため、性交を通じて感染する梅毒にり患していてもおかしくは無いかと思われます。
とはいえ、歴史書に「梅毒に罹った」ということを示唆する記述は存在していないため、説としての信ぴょう性は「業病」という記載が存在している「ハンセン病説」に一歩譲るというのが現状です。
しかし、肖像画では失った目が描かれている伊達政宗のような例もあるため、文書における記録も、事実とは異なる部分がある可能性は否定できないでしょう。
実は単なる「目の病気」だった?
「ハンセン病説」「梅毒説」はともに有力な説ではありますが、共に創作の可能性の高いエピソードを参考としている部分があるため、決め手に欠けるのが現状です。
ですので、吉継に近い文書記録だけを信用するなら、吉継の病は「なんらかの”目”に関わる病気」ということになります。
「白い頭巾で顔を隠していた」というのが創作の可能性があることは前に示した通りですが、「病で視力が落ちていて、少なくとも崩し文字を書ける状況ではなかった」「関ヶ原の戦いにも、輿に乗って参戦した=体力が著しく衰えていた」ということは、記録上に明確に記載、あるいは証拠として残されています。
ですので、エピソードではなく記録だけを頼るなら、吉継の病は「”視力の低下”と”体力の衰え”を伴う病」ということになります。
ハンセン病と梅毒もこの条件は満たすため、一概にその2説が間違いだとは言えませんが、そういった症状の病が数多く存在するのもまた事実。
「吉継の病はハンセン病だ!」「梅毒だ!」と一概に言い切るのではなく、広い視野を持って冷静に記録を分析することが、「吉継の病の正体」という歴史上の謎を解明することには最も重要なのではないでしょうか。