オスカー・ワイルドとは、19世紀に活躍し数々の名作を遺した文豪です。
新約聖書から題材をとって作り上げた戯曲『サロメ』や、「自己犠牲」という題材を皮肉とも賞賛ともつかない筆致で描いた『幸福な王子』などが代表作として知られています。
それらの作品にみられる独特の美しい筆致から、オスカー・ワイルドは「耽美主義文学の旗手」として多くの文豪に影響を与えています。
『細雪』を著した谷崎潤一郎や、『ドグラ・マグラ』の夢野久作、あるいは彼の作品を訳した森鴎外なども影響を受けたと目されており、その影響力は文字通り「世界の文壇に影響を与えた」と言ってもよいでしょう。
とはいえ、美しくも悲劇的な作風が特徴的なオスカー・ワイルドですが、その生涯や経験が作品にどのような影響を与えたのかまでは、実は知らない方も多いのではないでしょうか?
ということで今回は、「オスカー・ワイルドの作品について」というよりは「オスカー・ワイルドの人物像について」を中心として、より彼の作品を楽しめるように彼の人生を紹介していきます。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
オスカー・ワイルドとは?生涯をダイジェスト
名前 | オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド |
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偽名 | セバスチャン・エルモス |
誕生日 | 1854年10月16日 |
没日 | 1900年11月30日(享年46) |
生地 | グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 (現アイルランド)・ダブリン |
没地 | フランス共和国・パリ |
配偶者 | コンスタンス・ロイド (1884年~1898年) |
埋葬場所 | フランス共和国・パリ ペール・ラシェーズ墓地 |
代表作 | 『サロメ』『幸福な王子』 『ドリアン・グレイの肖像』etc |
まずはオスカー・ワイルドの生涯について簡単に解説しましょう。
1854年、オスカー・ワイルドはアイルランドの首都ダブリンに住む恵まれた家庭で生まれました。彼は医師である父ウィリアムと詩人である母ジェーンの下で、幼い頃より高度な教育を受けて育ちます。
20歳の頃、彼はオックスフォード大学に進学し、様々な講義やサロンに参加してルネサンスについて学んでいきました。そして、デビュー作である長詩「ラヴェンナ」を刊行した後、大学を首席で卒業したのです。
その後、彼は様々な芸術家や俳優たちと出会い、性別に囚われない自由な恋愛を謳歌していきます。また、アメリカ各地で講演を行って稼ぎながら、多くの詩人や作家たちとも交流を深めていきました。そして、1884年には結婚して2人の息子を授かります。
しかし、1891年に16歳年下の文筆家アルフレッド・ダグラス卿と恋人関係となり、2人は各地を旅行して回っていました。その結果、オスカー・ワイルドはアルフレッド・ダグラスの父であるクイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスによって卑猥行為を咎められて投獄されてしまい、破産宣告までされてしまったのです。
服役が終わった後、オスカー・ワイルドは偽名を使ってアルフレッド・ダグラスと共に各地を放浪しました。しかし、既に彼は世間から見捨てられた存在となっていたのです。そして、1900年にフランスのパリを訪れていたオスカー・ワイルドは、梅毒による脳髄膜炎によって死亡しました。
オスカー・ワイルドの文学ジャンルや恋愛観、死因について
オスカー・ワイルドの文学ジャンルとは
オスカー・ワイルドの文学的な作風は「耽美主義文学」としてジャンル付けされています。
「耽美主義文学」とは、一言で言えば「非道徳的な部分も隠さずに描き、本質的な美しさを追及する文学」のこと。もっと噛み砕いて言えば「エログロナンセンスを含んだ純文学」とも言うべきジャンルと捉えていただいてもいいでしょう。
オスカーはこのタイプの文学の第一人者として語られており、日本においても谷崎潤一郎や夢野久作などの名だたる文豪たちが、オスカーの影響を受けたと思しき耽美的な文学作品を発表しています。
例えば、谷崎の『痴人の愛』などは耽美主義の中でも代表的な作品ですし、夢野の『ドグラ・マグラ』なんかも、見ようによっては耽美的に映るかもしれない作品です。
他にも、責め絵で有名な伊藤晴雨(いとうせいう)、「芸術のデパート」との異名を誇るジャン・コクトーの作風にも影響を与えており、その「耽美主義」の作風は、様々な芸術家に影響を与えました。
オスカー・ワイルドの芸術思想は、国籍や表現媒体を問わず、”芸術”という観念そのものに影響を与えるほどの、非常に強いものだったのです。
オスカー・ワイルドの恋愛はかなり派手だった
古来から”美”というものは度々”恋”や”愛”と結びつけられてきましたが、「美の本質」を表現することを目指したオスカーもその例には漏れず、非常に恋多き生涯を送りました。
トピックの画像の時点でお気づきの方も多いかもしれませんが、オスカーは両性愛者であり、彼の生涯には男女を問わず、非常に多くの恋人が存在しています。その誰もがかなりの美男美女であるあたり、もしかすると彼は相当な面食いだったのかもしれません。
また、オスカーの恋愛関係は相当ハデかつ奔放だったようで、妻と子を得てからも彼は度々同性異性を問わずに恋人を作り、浮気に精を出しています。この辺り、同じく日本の文豪の代表である太宰治とも少し似ていますね。
とはいえ、キリスト教的な価値観の強かった当時のヨーロッパでは、同性愛というのは受け入れられないものだったようで、オスカーはこの奔放な恋愛が原因で、後に破滅へと突き進んでいくことになってしまうのです。
オスカー・ワイルドとオスカー像の関係とは
結論から言いますと、詩人であるオスカー・ワイルドとアカデミー賞を受賞した際に贈られるオスカー像の間には何の関係もありません。
実は、オスカー像という名称は愛称であり、正式名称は「Academy Award of Merit」です。しかし、現在ではアカデミー賞を受賞することを「オスカーを獲得した」と表現することも多く、公式の名称であるかのように定着しています。
また、「オスカー」の起源は、アカデミー賞の事務局員が像を見て「オスカーおじさんにそっくりだ!」と言ったことから広まったとされるオスカーおじさん説や、ジャーナリストのシドニー・シコルスキーが考えたとされるシコルスキー説など、様々な説が存在しているのです。
オスカー・ワイルドの最期は世間に見捨てられた
オスカー・ワイルドの最期は、美しさを追及した彼にとっては皮肉なことに、惨めさが漂う非常にうすら寂しいものでした。
オスカーは、恋人であるアルフレッドの父、ジョン・ダグラス卿から、息子との同性愛を咎める裁判を起こされて敗北。投獄されたばかりか破産を宣告され、それまでの名声の全てを失うことになってしまったのです。
なんとか出所したオスカーでしたが、その頃には世間に見捨てられてしまっており、失意のままアルフレッドと共に各地を放浪。そのまま流れついたパリのホテルで、彼はひっそりと息を引き取ることになってしまうのでした。