「ツタンカーメンの呪いって何?」
「どのような災が起こったの?」
1922年、20世紀最大の発見ともいわれる出来事がありました。古代エジプトのファラオであったツタンカーメンの墓陵がほぼ完全な形で発見されたのです。
ツタンカーメンの墓陵が何重もの扉によって閉ざされており、約3000年もの間、誰も中に入ることはありませんでした。墓陵の謎を解明するために考古学者ハワード・カーター指揮する調査隊が発掘のため、固く封印された墓陵の中へ入っていきました。
そしてその数ヶ月後、調査の出資者であるカーナヴォン伯爵の急死を皮切りに、調査隊やツタンカーメンの墓陵に関係する人々が謎の死を遂げます。これを「ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)」と人々は騒ぎ立て、恐れました。
ですがツタンカーメンの呪いには不可思議な点が多いのです。この記事でツタンカーメンの呪いに関わる情報をすべてお伝えしていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ツタンカーメンについて簡単に解説
ツタンカーメンは父アメンホテプ4世と側妻キヤ(若い方の貴婦人)との間に生まれました。父アメンホテプ4世が亡くなり、ファラオとして跡を継いだツタンカーメンは父が行った改革をすべて翻し、国の安定を図りました。
ファラオとして責務を果たしていましたが、19歳のとき馬から落ち、足を骨折し、これが原因で敗血症になり、追い打ちをかけるようにマラリア感染症にかかったことで早逝します。そして多くの埋葬品や黄金とともに王家の谷に葬られました。
ツタンカーメンとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、ミイラの場所、呪いについても紹介】
ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?
始まりは1923年カーナヴォン伯爵の急死
1922年、考古学者ハワード・カーター指揮する調査隊によってツタンカーメンの墓陵が発見されました。この時代、発掘調査には莫大な資金が必要で、発掘調査には必ず資金を提供する資産家の存在がありました。
ツタンカーメン墓陵の発掘も同じで、資金提供者としてジョージ・ハーバート(第5代目カーナヴォン伯爵)が関与していました。ツタンカーメンの王墓が発見されたと電報が届いてから、わずか2週間以内にエジプトへ飛び、カーターとともに王墓の中に入りました。
長年、資金を提供し続け、ようやく成果が実ったのです。カーターとカーナヴォン伯爵は抱き合って喜び合いました。
そんな喜びもつかの間、王墓発見より数ヶ月後に突然カーナヴォン伯爵は急死します。死因は髭剃り中にたまたま蚊に刺されたことで、熱病に感染し肺炎を併発したためでした。突然の伯爵の死にカーターや現場は非常に動揺しました。しかし、さらに悲劇は続くのです。
王墓の発掘から立て続けに関係者が死亡
カーナヴォン伯爵の死去後、発掘関係者やツタンカーメンの墓陵に訪れた人々が立て続けに亡くなります。それらの死因はそれぞれ墓陵とは関係のないものばかりでしたが、この話は世界中の人々を震え上がらせるには十分でした。
ツタンカーメンの墓陵入口にはこのような警告文が刻まれていると、当時のマスコミは報道しました。
偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう。
この碑文を刻んだものが誰かはわかっていませんが、あくまで墓荒らしに対する警告文であり、ただの文に人を殺せる力はありません。しかし実際にツタンカーメンの墓陵発掘に関わった多くの人たちが、わずか数ヶ月から数年の間に亡くなっていることも、また事実なのです。