隈研吾は、東京オリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場を始め、山手線の高輪ゲートウェイ駅や六本木のサントリー美術館など、数々の有名な建築物を設計した日本を代表する建築家です。
現代の建築はコンクリートを大量に用いることが一般的ですが、隈研吾は木材を重視した新たな時代の建築手法を用いることで知られています。その設計思想から、隈研吾は「和の大家」とも称され、世界に通用する日本の建築家として認められています。
隈研吾は、私達が日常的に目にしている建築物も多く作り上げています。例えば、福岡県の太宰府天満宮にあるスターバックス、日本橋の三越本店、老舗和菓子屋のパリ支店など、隈研吾の設計した建築物は幅広い地域に点在しており、日本だけでなく世界中で隈研吾のデザインを見ることができます。
この記事では、隈研吾の代表的な建築物を写真とともに紹介しつつ、隈研吾の性格やこだわり、武勇伝など内面的な面も合わせて紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
隈研吾とはどんな人物か
名前 | 隈研吾 |
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誕生日 | 1954年8月8日 |
出生地 | 神奈川県横浜市 |
出身校 | 東京大学大学院建築意匠専攻 |
配偶者 | 篠原聡子(建築家) |
隈研吾の生涯をハイライト
隈研吾の生涯について、はじめに簡単にご説明したいと思います。
- 1954年に横浜で生まれる
- 幼い頃は獣医を目指していたが、1964年の開催を控えた東京オリンピックの建築物を目にし、本気で建築家を志すことに
- 東京大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院建築意匠専攻修士課程を修了
- その後は大手設計事務所の日本設計に就職し戸田建設、米国コロンビア大学での研究員時代を経て、1990年に隈研吾建築都市設計事務所を設立
- オリンピックのメインスタジアムとして作られた新国立競技場を始めとして、六本木のサントリーホールや高輪ゲートウェイ駅など、数々の有名建築物を残す
- 現在でも意欲的に新たな建築設計を行っている現役の設計士
隈研吾の性格は?
隈研吾は、温和な性格で知られています。もともと、運営母体がキリスト教系のイエズス会である神奈川の栄光学園で中学・高校時代を過ごしたこともあり、穏やかな性格であるそうです。
一方で、揺るぎない信念を持つ建築士としての側面もあります。コンクリートを用いた設計が当たり前である大規模建築において、木材を始めとした新しい素材を追求し続ける姿勢は、隈研吾の強い信念が現れている好例と言えます。
隈研吾の代表的な建築作品は?
隈研吾の建築作品としてもっとも有名なのは、オリンピックのメインスタジアムとして設計された「新国立競技場」でしょう。新国立競技場の設計に携わったことで、世間の多くの人が隈研吾の名前を知ることになりました。
しかし、それ以前にも隈研吾は多くの建築作品でその名前を知られていました。サントリー美術館や根津美術館は、多くの人に知られている隈研吾の代表建築作品です。また、都内の環状8号線沿いに建てられたM2ビルは、隈研吾の出世作として知られています。
隈研吾の建築へのこだわりとは?
隈研吾は、「負ける建築」というキーワードをよく使います。隈研吾は、コンクリートで作られた高層ビルは「勝つ建築」であるといいます。それは確かに力強く威圧するものではあるけれども、21世紀の調和が求められる世界においては、勝つのではなく「負ける建築」が必要であるのだといいます。
そして、「負ける建築」として木材を中心とした柔軟で温和、かつサステイナブルな建築を追求しているのです。
隈研吾の功績
功績1「有名な作品を含む150以上の建築物の設計を行った」
隈研吾は、多くの建築作品を残しており、その数は150以上にも及びます。この記事の中でもいくつか紹介してきましたが、それ以外にも、無印良品の「窓の家」でしたり、銀座のティファニービル、豊島区役所が入っているとしまエコミューゼタウンビルなども隈研吾の設計です。
街を歩いていれば、一つは隈研吾の設計した建築物があるくらいに、多くの街でその建築物をみることができます。
功績2「建築家として5人目に紫綬褒章を受賞した」
様々な功績を残した隈研吾は、2019年に紫綬褒章を受賞します。紫綬褒章は、優れた文化的・芸術的な功績を残した人物に対して送られる褒章で、建築士としては歴代でも5人目という栄誉でした。
これは、隈研吾が日本において多大な功績を残したことが認められたものです。新国立競技場の設計をはじめ、隈研吾の多くの設計物が高く評価されてきたことの表れであるとも言えるでしょう。
隈研吾の名言
哲学のない建築は人の心を動かさない。僕は図面を書くときは、手紙だと思って書けといってるんです。
日本の建築物はデザイン性に欠けるとよく言われます。機能だけを持った建築物は人の心を動かしません。手紙のように心のこもった建築物は、機能性以上に人々の生活を豊かにするものだと言えるでしょう。
20世紀は、コンクリートのせいで、会話は固くなり、人間の表情もずいぶん暗くなった。もう一度、様々な物質と、いきいきとした会話をはじめよう。
20世紀は高度経済成長と共に、高層ビルに代表されるようなコンクリートを大量に利用した巨大な建造物が多く建てられました。
しかし、その無機質な建物たちは人々の表情を暗くしたと隈研吾は言います。コンクリートだけではなく、様々な物質を用いて建築を行うことで、人間の生活を明るくしたいという隈研吾の思いが込められた言葉と言えます。
隈研吾にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「あえてサラリーマンとなり社会勉強をした」
一流を目指す多くの建築士は大学卒業後アトリエ系の建築事務所に就職しますが、その中で隈研吾は敢えて大企業である日本設計に就職しました。
隈研吾は、後のインタビューで「社会に揉まれるため」と就職先の選択理由を語っています。この選択が功を奏したのかはわかりませんが、隈研吾の設計物は多くの人達の心に届く社会的価値の高いものとして評価されています。
都市伝説・武勇伝2「震災の経験から木材を重視するようになった」
隈研吾は、木材を重視する建築家として知られていますが、そのきっかけは阪神淡路大震災と東日本大震災にあったそうです。これらの震災でコンクリート建築の脆さを思い知った隈研吾は、木材に可能性を感じるようになりました。
そして、持続可能で地球と人間をつなぐ素材である木材を重視した設計に取り組むようになりました。
隈研吾の簡単年表
隈研吾は、神奈川県横浜市の大倉山に生まれました。小さい頃は猫が好きで獣医を志していた隈研吾でしたが、徐々に建築に興味をもつようになり、1964年に開催された東京オリンピックの建築物を目にしたことで、建築家を志すことになりました。
東京大学を卒業した隈研吾は、大手設計事務所である日本設計での勤務、アメリカへの留学を経て、個人事務所を設立します。そして、この設計事務所から数々の著名な建築物を作り上げていきました。
隈研吾がその活動初期に設計したM2ビルという商業施設は、その芸術性の高さから高い評価を受けました。M2ビルはいわゆるポストモダン建築を代表するような作品で、M2ビルの設計から隈研吾の名前が知られるようになり、数々の建築物の設計を受注することになりました。
隈研吾の名前を世間一般にまで知らしめたのは、オリンピックのメインスタジアムとして利用される新国立競技場の設計を担当したことでしょう。隈研吾は、自身の設計思想をもとに、木材をふんだんに利用したスタジアムを建設し、世界中から高い評価を受けました。