ビスマルクにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「皇帝も驚くほどの大食漢」
ビスマルクといえば卵を乗せたピザであるビスマルク風ピザを思い浮かべる人が多いかもしれませんが、その名前の由来になったのがこのビスマルクでした。というのもビスマルクは目の前にある食べ物を手当たり次第食べそれをワインやシャンパンなどで流し込むというやりすぎな暴飲暴食の癖があり、体重は1879年では123キロあったそうです。
ちなみにビスマルクは卵と牡蠣が大好き。卵は一回の食事で15個食べることがありステーキなどに乗せるのがお気に入りだったそうで、牡蠣は一回で175個を食べたことがあるということがビスマルクの自慢話の一つとなっているんだとか。
そのためビスマルクの健康状態はお世辞にも良いものとはいえず、医者からドクターストップがかかるほどで議会でも立っているのが辛いという状態が続いていたのですがそれでも83歳までいきていたのを見ればビスマルクからしたら健康状態に気にかけない一つの理由になっていたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「意外と質素なビスマルク」
ビスマルクはとても質素な生活を送っており、家の庭先には日本やアメリカなどから輸入した松を愛していたんだそうです。
さらに首相を辞任した後には読書ばかりするようになり聖書を毎日読むことが日課となっていたんだとか。
ビスマルクの簡単年表
ビスマルクはプロイセン王国のショーンハウセンに生まれました。
ビスマルクの家系は代々ユンカーという地主の家柄であり、生活はかなり豊かなものでした。
ビスマルクはベルリン大学を卒業した後にユンカーの息子として文官として使えることを決意しますが、しかし何事も続かない性格が仇となってしまい何事も続かない状態となってしまいます。
しかし、1846年から政治運動をしていたことで1847年の選挙の時に身分制議会の議員に選出。そのまま議員としての道を歩むことになりました。
ビスマルクは議員に選ばれると保守派の急先鋒として活躍。
一時はロシア外交官の仕事に左遷させるも、とヴィルヘルム1世が即位し、軍制改革を進めていくと議会の影響をもろともしないビスマルクに宰相の白羽の矢が立ち1862年に宰相に就任しました。
ビスマルクは首相に就任するやいなや議会の議決を受けずに軍拡をする必要性を説き、軍拡を実施。この頃ドイツ統一の動きが活発化してきたことを受けてビスマルクは1864年にデンマークに勝利するとその勢いのままドイツ統一の主導権を巡りオーストリアと戦争に突入。
いわゆる普墺戦争の勝利によってドイツ統一の主導権はプロイセンが握ることとなり、そして1867年に北ドイツが統一され、北ドイツ連邦が成立しました。
北ドイツを統一した後に、ビスマルクは残りの南ドイツ諸国の統一に乗り出します。
ビスマルクはこの頃問題となっていたスペイン王位継承問題を使いエムス電報事件によってフランスを戦争に引きずり込むことに成功。軍隊の近代化を進めてきたプロイセン軍は連戦連勝してフランスを圧倒し、南ドイツ諸国を併合。
1871年にヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国の樹立を宣言しました。
普仏戦争でフランスに勝利したドイツ帝国でしたが、ビスマルクの最大の悩みはフランスがドイツ統一に復讐を行うことでした。
ビスマルクはこれをどうにかしようとフランスを孤立させて封じ込める作戦に移行し、外交官としての経験を生かしてオーストリア・ロシア・ドイツの間で三帝同盟を締結するに至ります。
その後露土戦争の戦後処理でドイツとロシアの間でいざこざが起こるものの、これはビスマルクが失脚するまで続けられました。
ビスマルクはヨーロッパ諸国がこぞって行っていたアフリカやアジアなどの植民地獲得競争の調停に乗り出していくようになります。
ビスマルクは当時ベルギー王のレオポルト2世がアフリカ中部のコンゴの領有を主張したことによってドイツの首都であるベルリンにて1884年にベルリン会議を開催。
この会議によって植民地獲得の原則を定められました。
ビスマルクによってヨーロッパに新体制がもたらされましたが、ヴィルヘルム1世が崩御してヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこのヴィルヘルム2世と馬が合わず、最後には総選挙で敗れた結果1890年に首相を辞任。
1862年以来28年間ドイツを指導してきたビスマルクはこれによって政界を引退し、4年後の1894年に病死しました。
1815年 – 0歳「 ビスマルク生まれる」
プロイセン王国のユンカーの息子として生まれた
ビスマルクは1815年4月1日プロイセン王国のブランデンブルクに生まれました。ユンカーとは日本でいうところの大地主でビスマルクの家系はプロイセン王国の前身でもあるブランデンブルク辺境伯領の時代から貴族として活躍し、プロイセン王国が成立した後もこの地域の農場を経営しておりかなり裕福な家系でした。
ビスマルクはその末っ子として生まれたため、ユンカーの当主とはなりませんでしたが、この当時ユンカーの家系は文官か軍人となるのは当然でしたがビスマルクは最終的に文官としての道を歩んでいくことになります。
1834年 – 19歳「 ビスマルクベルリン大学に入学」
文官への道を歩み始める
ビスマルクは1822年にベルリンへと移住。ビスマルクはここでの学生生活は苦痛であったとのちに回想していますが、ビスマルクはこの学校を卒業すると語学が得意であったことが功を奏し、ゲッティンゲン大学に入学してその後1834年にベルリン大学へと入学しました。
しかし、ビスマルクは大変飽きっぽい性格であり彼は勉学に集中することはなく、本を読んだり社交界に通ったりする毎日だったそうです。
転々とするビスマルク
ベルリン大学を卒業した後、ビスマルクは高等裁判所の司法試験に合格しましたが、合格したら司法の仕事に飽き始め即時に辞職。さらに行政官としての試験を受けて合格してアーヘンで官僚として働くことになりましたが、ここでもビスマルクは仕事に熱心になることはなくやることといえば得意の語学を引っさげて女性を口説きまくる毎日。さらにこの女性の付き合いの費用を稼ぐためにルーレット賭博にお金をかけてしまい借金まで背負ってしまう始末だったそうです。
ビスマルクは経済的な理由の失恋もあってかアーヘンからポツダムへと転勤。ここで兵役に召集され軍隊に入隊しました。兵役が終わるとビスマルクは官僚の仕事をさっさと辞職して故郷に帰りユンカーとして生活を送ることを決意し、兄とともに農地経営を行い始めここで借金をコツコツと返済。ヨーロッパの諸都市へ旅行を嗜む余裕ができるほどに経済は安定したんだそうです。
1847年 – 32歳「 ビスマルク政界入りを果たす」
復古主義の強硬派議員として
ビスマルクは1846年12月から政治運動をしていたこともありその影響でマクデブルクの選挙人に名が知られていました。そのため、その推薦もあって1847年にマクデブルク身分制議会の議員に選出。そのままのながれで連合州議会議員になりました。ビスマルクはこのころには少数派となっていた復古主義的な強硬保守派の議員であり、ビスマルクは時代遅れと言われながらも強硬派の急先鋒としてのプロイセンの絶対王政を守り、地主の強固な権利を認める運動を進めていきました。
1848年革命とビスマルク
強硬派であったビスマルクでしたが、時代の流れはビスマルクとは真逆の方向に向かっていくことになります。ビスマルクが議員となったよく都市である1848年にフランスで王政が打倒されて共和政が樹立。その流れはプロイセンも所属していたドイツ連邦にも飛び火することになり、これまで連邦と言いながらも諸侯によってバラバラであったドイツを統一する動きへと発展。ビスマルクは絶対王政を守るために革命勢力と戦うつもりでいましたが、国王になだめられたことによってこの作戦は失敗してしまいます。
革命の流れは止められませんでしたが、ドイツ統一はその後ビスマルクの最初の課題としてのしかかることになったのです。
1851年 – 36歳「フランクフルト国民議会のプロイセン代表となる」
プロイセン代表に就任
1848年革命の後ドイツ統一について話し合いが行われるフランクフルト国民議会が開催。ドイツから選挙で選ばれた代表が出席しました。しかし、この当時ドイツ統一の主導権候補であったオーストリアとプロイセンとの間で対立が発生。ビスマルクはこの時期に地位をオーストリア並みにあげることを目的としてプロイセン代表として議会の代表となりました。
ビスマルクは当時オーストリアしか認められていなかった着席やタバコを吸うことを堂々とやってのけ、オーストリアが抗議しながらもそれを無視するという荒業を成し遂げて、さらにオーストリアが自分に有利となる議事録に改ざんしようとするとビスマルクはそれに猛抗議。オーストリアの面目を丸つぶれに追い込みます。
駐ロシア大使へと左遷
保守的であったビスマルクはフランクフルト国民議会で活躍していきましたが、プロイセンでは自由主義の考えが普及し始めている時であり、ビスマルクはこの頃から政府によって邪魔者扱いを受けていくようになりました。そのためビスマルクは1859年にロシアの駐ロシア大使に左遷。ビスマルクは首都であるサンクトペテルブルクに赴任しロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見しました。
駐フランス大使時代
ビスマルクはロシア大使として働いている最中、本国プロイセンではビスマルクを首相に据える動きがどんどん高まっていくことになります。
ヴィルヘルム1世はビスマルクのことを評価はしていましたが、自由主義者の反発もあるためヴィルヘルム1世はとりあえずビスマルクを隣国フランスの大使に任命しました。