ビスマルクとはどんな人?生涯・年表まとめ【ドイツ統一の逸話や功績も紹介】

1862年 – 47歳「プロイセン王国の首相に就任」

ビスマルクの首相就任

フランスからビスマルクが呼び戻された

ビスマルクが駐フランス大使を務めていた頃プロイセンでは軍事改革のために巨額の軍事費を盛り込んだ予算案を提出したことによって議会が紛糾。国王は無理矢理にでもこの予算案を決議したかったのですが、衆議院の反対にありこの予算案は妥協案ですら否決する事態に陥ってしまいます。国王はこの否決を受けて国王を退位するつもりでいましたが、皇太子がこれは王位に泥を塗る行為だとして猛反発。そこでプロイセンの中でもかなりの強硬派であるビスマルクを呼び戻すことに決定。

フランスにいたビスマルクを急遽呼び戻して国王に謁見させ、ビスマルクは「たとえ衆議院が猛反発しても軍事改革を行ってみせます」と断言しプロイセンの首相に任命。これから26年間始まるビスマルクの時代がついに幕を開けたのでした。

鉄血宰相の由来にもなった「ビスマルクの鉄血演説」

こうして首相に就任したビスマルクは9月30日に紛糾していた衆議院予算委員会に「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と堂々と演説。衆議院という舞台において話し合いよりも軍事を優先するとし、それを邪魔するのであれば議会の議決を無視するという構えを見せます。

ドイツ帝国議会

一歩間違えれば革命が起こる綱渡りの状態。ビスマルクはこの演説によって自由主義者と真っ向から対立すると国王は議会を閉会。ビスマルクはその間にも予算案を通さない場合の事例は憲法にはなく、予算案が否決されても予算を組まなければならず、さらにこの頃のプロイセン王国の首相制度は議院内閣制ではなく国王の信任によってなるもので、たとえ議会がビスマルクを退陣に追い込もうとしてもビスマルクが首相をやめる義務はないという抜け穴を利用してビスマルクは無理矢理予算案を押し通して軍事改革を断行。

議会を無視した態度は非難されているものの、このおかげでプロイセンは軍事大国としてのちのドイツ統一へと突き進んでいくことになるのです。

1866年 – 51歳「 普墺戦争と北ドイツ連邦成立」

大ドイツ主義と小ドイツ主義

ドイツ統一の議論が盛んだった

軍事改革を押し通したビスマルクでしたが、ビスマルクにとって最大の課題はドイツ統一の主導権をプロイセンが握ることでした。この当時ドイツという地域はドイツ連邦という連合体が存在していたのですが、結局は小国が寄り合い所帯で集まっているようなもので、この地域からしたらドイツを統一したいという思いでいっぱいだったのです。

そんな中、ドイツを統一するのにふさわしい国だと名が挙がっていたのがプロイセン王国とオーストリア帝国。オーストリア帝国はドイツ連邦が成立する前まで存在していた神聖ローマ帝国の皇帝を務めていたハプスブルク家が統治している国であったため「ドイツはオーストリアによって丸ごと統一されるべきだ!(この考えを全てのドイツ国民を支配下に置くことから大ドイツ主義と言います)」と主張していました。

その一方でプロイセンはオーストリア帝国内のドイツ人を統一せずにプロイセン主導でドイツ連邦を統一してドイツ人を支配下に置くという小ドイツ主義を主張していたのです。この大ドイツ主義と小ドイツ主義の考え方の違いからドイツ統一の問題が起こってしまったのです。

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の勃発

ドイツ統一の機運が高まる最中、当時デンマークに支配されていたドイツ系国家であるシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国とラウエンブルク公国の帰属問題が発生。ビスマルクはこの問題に介入してオーストリアと共にこの地域に進駐。デンマークに対して脅しを兼ねた最後通告を発しましたが、これをデンマークは拒否したため、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発。

軍事改革を押し通したプロイセン軍がデンマーク軍を圧倒し、1865年のガシュタイン条約によってシュレースヴィヒを獲得しました。

普墺戦争

こうしてデンマークに勝利したプロイセンでしたが、この第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の後始末でオーストリアと対立。さらに親プロイセン派のレヒベルク外相が失脚したことでにわかにプロイセンとオーストリアの間で戦争ムードが立ち込めていくようになります。ビスマルクはもしも戦争が起こった時にオーストリアに味方する国をなくそうとフランスやロシアに対して裏工作を実施。

なんとか中立にすることに成功してオーストリアに戦争を持ち込む準備が整ったのでした。こうして満を持して準備が整ったプロイセン軍。ビスマルクは「オーストリアが度々プロイセンに対して挑発している」と非難してこれに乗ってしまったオーストリアはプロイセンに対して宣戦布告。普墺戦争が幕を開けることになりました。

しかし、ドイツ統一の主導権を巡った重要な戦争は初めから結果が分かっているようなもので、鉄道や電信を効率的に使用したモルトケ率いるプロイセン軍の圧倒的な戦術に比べてオーストリア軍はまだ近代化がままならず今だに旧式の軍備を使っているに過ぎない状態であったためプロイセンはオーストリアに連戦連勝。

プラハ条約の締結

すでに戦の結果は分かっていたオーストリアはプロイセンに講和を申し込みプラハ条約が締結。このプラハ条約によってドイツ連邦の解体が決定し、オーストリアはドイツ地方の主導権を完全に失うこととなりました。一方のプロイセンはハノーヴァー、クーアヘッセン、ナッサウ、フランクルフトといったドイツの主要都市を獲得。

さらにドイツの主導権を獲得したプロイセンは1666年にプロイセン主導の君主連合である北ドイツ連邦が成立させました。こうしてオーストリアからドイツ統一の主導権を奪い取ったビスマルクはドイツ統一への大事な一歩を踏み出したのです。

1871年 – 56歳「 普仏戦争とドイツ帝国成立」

南ドイツ諸国統一の夢とスペイン継承問題

北ドイツ連邦を成立させたビスマルクでしたが、彼の次の課題はまだ統一していなかった南ドイツ諸国を統一することでした。ビスマルクはできることならば普墺戦争の時に統一しておきたかったのですが、この頃の南ドイツ諸国はカトリック。プロイセンなどはプロテスタントの国であったため一気に統一すると揉め事が起こること間違いなしというわけだったのです。

ビスマルクは南ドイツ諸国を統一するために関税の同盟を結ぶなどゆっくりと統一の準備をしていくのですが、この最中スペインにおいてスペイン継承問題が発生。スペインの新たな王にプロイセンの王の出身であるホーエンツォレルン家を指名した事に挟み撃ちに会うことを嫌ったフランスが猛反対。

普仏戦争のきっかけになった王家継承問題

最終的にはホーエンツォレルン家の擁立は断念したのですが、フランスはさらにホーエンツォレルン家からスペイン王になることをしないということをヴィルヘルム1世に要求。この要求はプロイセンの許容範囲を超える要求であり拒否するのですが、ビスマルクはこの状態を利用してビスマルクはこの事件の電報を改ざん。

フランスとプロイセンの両方のナショナリズムを煽り立て、消極的であったナポレオン3世を無理矢理引きずり出すことに成功。ビスマルクはフランスを戦争に導いたのでした。

普仏戦争

1870年に普仏戦争が勃発したのですが、この戦争の勝敗はとっくに決まっているようなものでした。モルトケ将軍率いるプロイセン軍はよく訓練されさらに近代化が済んでいた50万の軍勢が揃っており戦争に備えて設備された鉄道施設によって自由自在に大量の兵士を動員することができました。

その一方でフランスは植民地であるアルジェリアから兵士をかき集めても35万人ほど。さらに旧式の武器を使いプロイセン軍の格好の餌食となっていったのでした。さらに南ドイツ諸国もプロイセン側に参戦したことによってフランスは孤立。スダンの戦いにおいてナポレオン3世が8万人の将兵と共に捕虜となったことが決め手となりプロイセン軍は1871年にヴェルサイユ宮殿を占領。

プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得し、さらには南ドイツ諸国を統一するとに成功。こうして南ドイツ諸国をも併合した北ドイツ連邦はヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国が成立しました。

1873年 – 58歳「三帝同盟成立」

フランスの封じ込め政策

戦争後のナポレオン3世とビスマルク

普仏戦争によってドイツ帝国が成立しましたが、ビスマルクの最大の危惧は普仏戦争で敗れたフランスが軍事改革を行いドイツの脅威になることでした。そのためビスマルクはフランスをなんとかして封じ込めなければならないと考えていたため、ビスマルクの時代は植民地を獲得するのは消極的となり、そのかわり諸外国と同盟を結んでフランスを孤立させようとするのです。

ビスマルクは1873年にロシアとオーストリアとの間で三帝同盟を締結。バルカン半島の平和的解決とフランスから革命運動がやってこないのを防ぐことを合意し、フランスの封じ込めに成功したのです。

1878年 – 63歳「ベルリン会議開催」

ヨーロッパの安定に尽力

ベルリン会議

ドイツとロシアとオーストリアは対フランスという観点から同盟を締結するにまで至りましたが、この頃のヨーロッパではロシアの南下政策の一環でバルカン半島に進出していたのをイギリスやオーストリアなどが阻止する動きを見せていました。こうなるとせっかく結んだ同盟関係もロシアとオーストリアの対立によっておじゃんになってしまうためビスマルクはヨーロッパの安定はドイツの安定として公正な仲介人として調停に乗り出しました。

こうして1878年にドイツ帝国の首都であるベルリンにてベルリン会議が開催。しかし、このベルリン会議にてイギリスとオーストリア側に有利になるなる項目が多かったためロシアでは反ドイツの感情が噴出。ドイツとロシアの関係が崩れたことによって三帝同盟は崩壊することになりました。

ベルリン・コンゴ会議

ベルリン・コンゴ会議の様子

ビスマルクはドイツの安定を最優先としていましたが、ベルギーのレオポルト2世がコンゴの領有化を宣言したことによってヨーロッパで問題が発生。ビスマルクは1884年にベルリン・コンゴ会議を開催し、この会議によってドイツはトーゴ・カメルーン・ドイツ領東アフリカ・ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の植民地として制定。

ドイツでも植民地を持つことになり第一次世界大戦で敗れるまで植民地を運営していくことになったのです。

三国同盟の締結

ロシアとの対立によって三帝同盟は崩壊するに至りましたが、ビスマルクはさらに元々独墺同盟を結んでいた上にイタリアも参加させて三国同盟を締結。これが第一次世界大戦の同盟国の原型となります。
また、三国同盟が締結する前年にロシアとの同盟が復活。三国同盟と三帝同盟の二重体制となり、いわゆるビスマルク体制が確立されたのでした。

1890年 – 75歳「ドイツ帝国の首相辞任」

ビスマルクとヴィルヘルム2世の対立

1888年。プロイセン王国時代から国王として君臨していたヴィルヘルム1世が90歳で崩御。跡を継いだフリードリヒ3世も病気によって99日で崩御したことによってまだまだ29歳であるヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位することになりました。

しかし、ヴィルヘルム2世はビスマルクがとても有能で尊敬していたのですが、それでもこの頃73歳だったビスマルクの意見は44歳も離れていたヴィルヘルム2世に合うはずもなく、さらにヴィルヘルム2世がどちらかといえばイケイケの皇帝め植民地を多く持って世界に覇を唱える大帝国にドイツを盛り立てていきたかったため、ヴィルヘルム2世は植民地を持つことに消極的であったビスマルクのことをだんだん疎ましく思い始めることになります。

ビスマルクの失脚

ビスマルクとヴィルヘルム2世の関係が悪化していく最中、1889年に労働者のストライキが起こったことが原因でヴィルヘルム2世はこれまで存在していた社会主義者鎮圧法を廃止してある程度労働者に譲歩した法案を通そうと考え始めます。

晩年も政治に意欲を燃やした

しかし、ゴリゴリの保守派であったビスマルクは社会主義者鎮圧法に反対。ビスマルクとヴィルヘルム2世の決裂は決定的なものになります。さらに1890年に総選挙が行われビスマルクの保守党が敗れるとビスマルクはこれが潮時だと感じ、ヴィルヘルム2世に首相辞任の辞表を提出。

これが受理されたことによって30年近くヨーロッパに影響を与えたビスマルクの時代は終わりを迎えたのです。

ビスマルクの晩年

ビスマルクが首相を辞任した後、ヨーロッパの情勢は大きく動き出すことになります。フランスでは当時シベリア鉄道の建設に動いていたロシアに多額の援助を行う見返りに露仏同盟が締結。ビスマルクが後半生のほとんどをかけて作り上げたビスマルク体制は崩壊することになります。

ビスマルクはその後ベルリンの郊外に移住して回想録を出版するなど悠々自適な生活を送りながら、再び政界に舞いもどろうと立候補を行おうとしており最後まで野心が潰えることはありませんでしたがビスマルクが首相を辞任した時には75歳。体にも限界がき始めそして1898年83歳でその激動の人生に幕を下ろしました。

ビスマルクが亡くなったことはすぐにヴィルヘルム2世に伝えられ、陸海軍に対して7日間もに服すように命令。葬儀は質素を愛していたビスマルクの意向を汲み取りささやかな葬儀が行われた後邸宅の後ろの小丘に墓が建てられました。その後ヨーロッパでは戦争の動きが見え始めていきバルカン半島の問題などでドイツとロシアが対立。そして時代はビスマルク体制から第一次世界大戦に移り変わっていくことになるのです。

ビスマルクの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ビスマルクドイツ帝国を築いた政治外交術

この本はビスマルクの業績と当時の欧州各国の動きも簡潔で分かりやすく説明されており、ビスマルクが生きていた時代のヨーロッパの状況や、ビスマルクの政治運営などを詳しく知ることができます。

ビスマルク(上)

この本はビスマルクのプライベートな部分を描いており、ビスマルクの人生に関わった様々な人物達が織り成す人間模様には濃厚で壮大なドラマを感じ取ることができる本となっています。

おすすめ動画

【ゆっくり解説】オットー・フォン・ビスマルク

ゆっくり解説によるビスマルクの解説動画です。一介の議員からドイツの首相にまでのしあがり、そしてドイツ統一の3つの戦争をどのように戦っていったのかを詳しく解説しています。

ビスマルクについてのまとめ

ビスマルクは絶対不可能と言われていたドイツ統一や多方面に対する同盟関係という二つの偉大な功績を成し遂げ、これまでイギリスやフランスなどに遅れをとっていたプロイセンを一気に肩を並べるほどの大国にまで押し上げました。

しかし、ドイツはその後ヴィルヘルム2世の政策の失敗によってビスマルクが亡くなってから20年後にドイツ帝国は崩壊。最悪の独裁者であるヒトラーが現れたのちにドイツは二つに分裂され、そして1991年にようやく再び統一されて今に至ることになります。

ビスマルクの方はというと、海軍ではビスマルクという名の戦艦が建造されたり、ドイツ建国の偉大な父としてその名をドイツに刻み込んでいます。今移民問題やEU問題で揺れているヨーロッパ。そんな今だからこそ強硬的とまではいかないものの、ビスマルクのような確固たる信念を持ったリーダーが必要なのではないのでしょうか?

1 2 3

コメントを残す