ビスマルクとはどんな人?生涯・年表まとめ【ドイツ統一の逸話や功績も紹介】

「ビスマルクってどんな人?」
「ビスマルクがおこなった鉄血政策とは?」
「ビスマルクに関するエピソードが知りたい!」

この記事をご覧のあなたはそのようなことをお考えではないでしょうか?ビスマルクは19世紀に活躍したプロイセンの政治家です。鉄血政策でプロイセン軍を強化し、ドイツ統一に貢献しました。

「強面で強かな外交官」や「政治家ビスマルク」という一面を持つ一方、皇帝をも驚かす大食漢という意外な一面を併せ持つビスマルク。今回はそんな彼の生涯をドイツ統一に関するエピソードを交えまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ビスマルクとはどんな人?

名前オットー・フォン・ビスマルク
誕生日4月1日(1815年)
生地プロイセン王国 シェーンハウゼン
没日7月30日(1898年)
没地ドイツ帝国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン
配偶者ヨハンナ・フォン・ビスマルク
埋葬場所フリードリヒスルーの邸宅

ビスマルクの生涯をハイライト

シェーンハウゼンにあったビスマルクの生家

オットー・フォン・ビスマルクは1815年にビスマルク=シェーンハウゼン伯爵家に生まれました。生家はプロイセン東部に広大な土地を持つ地主貴族(ユンカー)です。大学に進学したビスマルクは法学を学び官僚を目指します。しかし、官僚としての職務に馴染めず、生家に戻り地主としての生活を送りました。

1847年、ビスマルクは身分制議会の議員に当選し政治家人生をスタートさせます。1851年からは外交官として活動しました。

ビスマルクを首相に任命したプロイセン王ヴィルヘルム1世

ヴィルヘルム1世がプロイセン国王になると、諸外国との競争に勝つため軍備拡張を目指します。このとき、国王や軍が軍備拡張を実行できる人物として白羽の矢を立てたのがビスマルクでした。

ビスマルクは首相に就任すると「(ドイツの統一は)鉄と血によってのみ達成される」とし、議会の反対を押し切って軍拡を強行。予算を獲得したことで飛躍的に力を増したプロイセン軍は普墺戦争や普仏戦争で相次いで勝利しドイツ統一を達成しました。

普仏戦争でプロイセンに敗れたフランス皇帝ナポレオン3世

また、ビスマルクは普仏戦争で徹底的にたたいたフランスがドイツに報復できないよう、「ビスマルク体制」とよばれる反仏包囲外交を展開し、フランスの封じ込めに成功。晩年、ビスマルクは新たに即位したヴィルヘルム2世と対立したたため辞表を提出し政界を去りました。

冷徹でしたたかな思考の持ち主

若き日のビスマルクの肖像

ビスマルクの冷徹さやしたたかさを印象付けるエピソードがあります。あるとき、ビスマルクは友人と狩りに出かけました。ところが、友人は狩りの川で溺れてしまいます。普通は慌てて助けにいこうとするでしょうが、ビスマルクは違いました。

狩猟用の銃を友人へ向けたビスマルク

なんと、彼は持っていた狩猟用の銃を友人に向けたのです。そして友人に「助けることはできない。せめて苦しまずに済むよう死なせてあげよう」と言い放ちます。驚いた友人は必死に川から這い上がり一命をとりとめました。

ビスマルクが友人を必死にさせるための演技だったのかもしれませんが、二重遭難のリスクを避けたかっただけかもしれません。どちらにせよ、彼の脳裏に冷徹でしたたかな思案があったのは間違いないでしょう。

外交官として活躍した後に首相指名へ

ビスマルクは外交を有利に展開

1851年、ビスマルクはドイツ連邦議会に派遣する外交官に任じられました。この職は、大国オーストリアとの交渉でプロイセンの国益を守る重要なもので、無名のビスマルクにとって大抜擢といってよいものです。

ビスマルクは国王の期待に応え、クリミア戦争やイタリア統一戦争などでプロイセンに有利な外交を展開します。その一方、オーストリアとの連携に限界を感じ、ドイツ統一からオーストリアを排除する方向に動きます。外交官としての活躍はのちの首相指名につながりました。

植民地獲得には消極的だった

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ビスマルクはイギリスやフランスなどに比べると植民地獲得に消極的でした。そればかりか、ドイツ統一後は領土拡張などの対外的野心を持たない方針をとります。領土を拡大することで周辺国との軋轢を避け、フランス包囲網を盤石にしたわけです。

アフリカでドイツが獲得した植民地

しかし、ドイツの産業界や国民世論が対外植民地獲得を求め始めると、ビスマルクは方針を一転しアフリカ大陸や東南アジアに進出。それでも、海外に広大な植民地を持つイギリスとの対立を避けるため、イギリスが強い利害関係を持っている地域への進出を控えます。

ビスマルクの功績

功績1「”鉄血政策“でプロイセン軍を強化した」

ビスマルクは首相に就任すると「鉄血政策」とよばれる軍備拡張を行いました。彼が軍備拡張を行ったのは、ドイツ統一のためには軍事力が必要不可欠だと考えたからです。ビスマルクの強力な後押しでプロイセン軍は前にもまして精強な軍隊となりました。

プロイセンがオーストリアに圧勝した普墺戦争

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その実力が試されたのが対デンマーク戦争や普墺戦争です。この二つの戦争でプロイセン軍は敵国軍を圧倒し短期間で勝利をおさめます。特に普墺戦争は7週間戦争といわれるほど短期間で終わり、諸国はプロイセン軍の強さに驚きました。

功績2「ドイツ統一を達成した」

ビスマルクはドイツ統一の立役者として知られます。プロイセンは普墺戦争の勝利によって北ドイツをほぼ手中に収め、オーストリアをドイツ統一から排除。しかし、全ドイツを統一するにはドイツ統一を望まず妨害しかねないフランスを打倒しなければなりませんでした。

プロイセン王にスペイン王位から手を引くよう迫ったフランス大使ベネデッティ伯爵

1870年、フランスのナポレオン3世は温泉保養地のエムスに滞在中のプロイセン王に大使を派遣し、今後、スペイン王位に手を出さないよう要求します。エムスからの電報でフランス大使の非礼な態度を知ったビスマルクは、この件を誇張し、さもフランスがプロイセン王を高圧的に侮辱したかのように改ざんして公表しました(エムス電報事件)。

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事件を知った国民は激怒し、反仏感情が沸騰します。この反仏感情の高まりを利用して、ビスマルクはフランスに宣戦布告。普仏戦争を行い勝利しました。そして、ベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立が宣言され、ドイツ統一が達成されます。

功績3「反フランスのビスマルク体制をつくった 」

1871年から1890年にかけて、ドイツ帝国宰相だったビスマルクが作り上げた国際秩序を「ビスマルク体制」といいます。ビスマルク体制の目的は、普仏戦争の敗北でドイツに怨みを持つフランスを封じ込めることでした。

ビスマルク体制

そのため、ビスマルクはオーストリアやロシア、イタリアと同盟を結びます。また、海外に植民地を持たないドイツは植民地獲得に敏感なイギリスを刺激せずに済む立場だったので、海外進出を控えることでイギリスと友好関係を保ちます。

二重・三重にもめぐらされたフランス包囲網はビスマルクがドイツ帝国宰相でいる間、機能し続けました。ビスマルク体制が崩壊するのは、ビスマルク退任後のことです。

ビスマルクの名言

「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって解決される」

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

ビスマルクと日本の関係

ビスマルクが首相を務めていた頃我が国日本では明治維新が起こっており、岩倉具視・大久保利通といった政治家たちは不平等条約の改正に動きながらヨーロッパの制度を吸収しようと岩倉使節団をヨーロッパに派遣することとなりました。その中で政府の重鎮であった大久保利通は「日本はドイツに学ぶべき」と主張。

岩倉使節団

日本はドイツと同じく分裂状態からようやく統一した時期であり、さらにドイツのヴィルヘルム1世が日本の明治天皇と同じように感じ取ったのが要因であったと思います。

さらに初代内閣総理大臣である伊藤博文はドイツを訪問した時にビスマルクに謁見。ビスマルクは「ドイツを日本の憲法研究の拠点としたことは大いに賢明な決断である。出来る限りの協力をしたい」と伊藤博文に述べ、この当時ドイツで一番と言われていた法学者であるグナイストを伊藤に紹介。さらにその弟子であるモッセを日本に招き入れ日本初の近代憲法である大日本帝国憲法の制定に大きな影響を与えました。

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