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ビスマルクとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や鉄血宰相の由来、政策、名言についても紹介】

ビスマルク(1815年〜1898年)は、プロイセン王国末期とドイツ帝国の初期に活躍した政治家です。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相」の異名を持地ます。

ビスマルクはプロイセン王国の地主であったユンカーの息子として生まれ、1835年にベルリン大学を卒業した後はプロイセン王国の議会の代議士として政界入りを果たすことになります。

ビスマルク

その後、ビスマルクは1848年革命で王政派として革命派の弾圧に回ったり、首相に就任した後は日本でも『鉄血演説』として名高い演説を行って議会ではなく、鉄(武器)と血(兵士)のみが問題を解決できると軍拡のためには議会の採決を無視することを辞さない構えを見せるなど、かなり強硬派の政治家としてヨーロッパで知られるようになりました。

そして首相に就任するやいなや、ドイツ民族の最大の課題であったドイツ統一の問題に介入していくようになり、普墺戦争でオーストリア帝国に勝利した時にはオーストリアからドイツ統一の主導権を奪い、1867年に北ドイツのプロテスタントの国を併合し北ドイツ連邦を成立。

さらに普仏戦争にてフランスに勝利すると1871年に南ドイツ諸国をも併合してパリのヴェルサイユ宮殿にてドイツ帝国の成立を成し遂げることになりました。

その後は外交官としての経験を生かしてフランスを封じ込めるビスマルク体制を構築。

これは様々な思惑がありながらも普仏戦争から第一次世界大戦までの約43年間ドイツに平和ももたらすことになります。

ビスマルクとはどんな人?

名前オットー・フォン・ビスマルク
誕生日4月1日(1815年)
生地プロイセン王国 シェーンハウゼン
没日7月30日(1898年)
没地ドイツ帝国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン
配偶者ヨハンナ・フォン・ビスマルク
埋葬場所フリードリヒスルーの邸宅

ビスマルクの知名度は?

ドイツでは非常に有名で銅像も立っている

ビスマルクは日本における知名度は低いかもしれませんが、ドイツでは超がつくほどの有名人。ドイツの重要都市には必ず彼の銅像が立つほどドイツの歴史には欠かせない人物でした。

さらにビスマルクは明治時代の日本にも大きな影響を与えたのですが、まずはビスマルクがドイツでどんな政治を行っていったのかや、ビスマルクと日本の関係についてみていきましょう

ビスマルクが行った政治とは?

ビスマルクはかなり保守的な政治家として知られており、ビスマルクが首相に就任してからもかなり保守的な政治を行なっていきました。

例えばビスマルクは出身であるユンカーに対しての優遇措置を行う最中、カトリック勢力の政党である中央党や、社会主義者などを徹底的に弾圧。カトリックはドイツで信仰されていたプロテスタントとは種類が違っていたのでビスマルクはカトリック勢力は分裂の火種としてみており、社会主義に至ってはビスマルクは「帝国の敵」と亡くなるまで敵視していたほどでした。

ビスマルクの社会政策

ビスマルク

ビスマルクはいわばユンカー勢力を優遇していたため、労働者に厳しいと思われがちなんですが、ビスマルクは逆に労働者を優遇すれば社会主義者が活動できにくくなると踏んでおり、ビスマルクは「飴と鞭政策」と呼ばれるように社会主義者を弾圧していきながら積極的に社会政策を実行していくことになります。

ビスマルクは1880年代に医療保険法、災害保険法、養老保険法など当時の世界では最も進んだ社会保障制度を確立。これは様々な変更はありながらも今のドイツの社会保障の原点となっています。

ビスマルクの名言

「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって解決される」

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

ビスマルクと日本の関係

ビスマルクが首相を務めていた頃我が国日本では明治維新が起こっており、岩倉具視・大久保利通といった政治家たちは不平等条約の改正に動きながらヨーロッパの制度を吸収しようと岩倉使節団をヨーロッパに派遣することとなりました。その中で政府の重鎮であった大久保利通は「日本はドイツに学ぶべき」と主張。

岩倉使節団

日本はドイツと同じく分裂状態からようやく統一した時期であり、さらにドイツのヴィルヘルム1世が日本の明治天皇と同じように感じ取ったのが要因であったと思います。

さらに初代内閣総理大臣である伊藤博文はドイツを訪問した時にビスマルクに謁見。ビスマルクは「ドイツを日本の憲法研究の拠点としたことは大いに賢明な決断である。出来る限りの協力をしたい」と伊藤博文に述べ、この当時ドイツで一番と言われていた法学者であるグナイストを伊藤に紹介。さらにその弟子であるモッセを日本に招き入れ日本初の近代憲法である大日本帝国憲法の制定に大きな影響を与えました。

ビスマルクにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「皇帝も驚くほどの大食漢」

ビスマルクピザ

ビスマルクといえば卵を乗せたピザであるビスマルク風ピザを思い浮かべる人が多いかもしれませんが、その名前の由来になったのがこのビスマルクでした。というのもビスマルクは目の前にある食べ物を手当たり次第食べそれをワインやシャンパンなどで流し込むというやりすぎな暴飲暴食の癖があり、体重は1879年では123キロあったそうです。

ちなみにビスマルクは卵と牡蠣が大好き。卵は一回の食事で15個食べることがありステーキなどに乗せるのがお気に入りだったそうで、牡蠣は一回で175個を食べたことがあるということがビスマルクの自慢話の一つとなっているんだとか。

そのためビスマルクの健康状態はお世辞にも良いものとはいえず、医者からドクターストップがかかるほどで議会でも立っているのが辛いという状態が続いていたのですがそれでも83歳までいきていたのを見ればビスマルクからしたら健康状態に気にかけない一つの理由になっていたのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「意外と質素なビスマルク」

ビスマルクはとても質素な生活を送っており、家の庭先には日本やアメリカなどから輸入した松を愛していたんだそうです。

さらに首相を辞任した後には読書ばかりするようになり聖書を毎日読むことが日課となっていたんだとか。

ビスマルクの年表を簡単にまとめると?

1815年
ビスマルクはプロイセン王国のショーンハウセンに生まれました。
ビスマルクの家系は代々ユンカーという地主の家柄であり、生活はかなり豊かなものでした。
1847年
ビスマルク政界入り
ビスマルクはベルリン大学を卒業した後にユンカーの息子として文官として使えることを決意しますが、しかし何事も続かない性格が仇となってしまい何事も続かない状態となってしまいます。
しかし、1846年から政治運動をしていたことで1847年の選挙の時に身分制議会の議員に選出。そのまま議員としての道を歩むことになりました。
1862年
プロイセン王国の宰相に就任
ビスマルクは議員に選ばれると保守派の急先鋒として活躍。
一時はロシア外交官の仕事に左遷させるも、とヴィルヘルム1世が即位し、軍制改革を進めていくと議会の影響をもろともしないビスマルクに宰相の白羽の矢が立ち1862年に宰相に就任しました。
1867年
ビスマルクは首相に就任するやいなや議会の議決を受けずに軍拡をする必要性を説き、軍拡を実施。この頃ドイツ統一の動きが活発化してきたことを受けてビスマルクは1864年にデンマークに勝利するとその勢いのままドイツ統一の主導権を巡りオーストリアと戦争に突入。
いわゆる普墺戦争の勝利によってドイツ統一の主導権はプロイセンが握ることとなり、そして1867年に北ドイツが統一され、北ドイツ連邦が成立しました。
1870年
北ドイツを統一した後に、ビスマルクは残りの南ドイツ諸国の統一に乗り出します。
ビスマルクはこの頃問題となっていたスペイン王位継承問題を使いエムス電報事件によってフランスを戦争に引きずり込むことに成功。軍隊の近代化を進めてきたプロイセン軍は連戦連勝してフランスを圧倒し、南ドイツ諸国を併合。
1871年にヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国の樹立を宣言しました。
1873年
三帝同盟成立
普仏戦争でフランスに勝利したドイツ帝国でしたが、ビスマルクの最大の悩みはフランスがドイツ統一に復讐を行うことでした。
ビスマルクはこれをどうにかしようとフランスを孤立させて封じ込める作戦に移行し、外交官としての経験を生かしてオーストリア・ロシア・ドイツの間で三帝同盟を締結するに至ります。
その後露土戦争の戦後処理でドイツとロシアの間でいざこざが起こるものの、これはビスマルクが失脚するまで続けられました。
1884年
ベルリン・コンゴ会議
ビスマルクはヨーロッパ諸国がこぞって行っていたアフリカやアジアなどの植民地獲得競争の調停に乗り出していくようになります。
ビスマルクは当時ベルギー王のレオポルト2世がアフリカ中部のコンゴの領有を主張したことによってドイツの首都であるベルリンにて1884年にベルリン会議を開催。
この会議によって植民地獲得の原則を定められました。
1890年
ビスマルク首相辞任
ビスマルクによってヨーロッパに新体制がもたらされましたが、ヴィルヘルム1世が崩御してヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクはこのヴィルヘルム2世と馬が合わず、最後には総選挙で敗れた結果1890年に首相を辞任。
1862年以来28年間ドイツを指導してきたビスマルクはこれによって政界を引退し、4年後の1894年に病死しました。

ビスマルクの年表を具体的にまとめると?

1815年 – 0歳「 ビスマルク生まれる」

プロイセン王国のユンカーの息子として生まれた

ビスマルクは1815年4月1日プロイセン王国のブランデンブルクに生まれました。ユンカーとは日本でいうところの大地主でビスマルクの家系はプロイセン王国の前身でもあるブランデンブルク辺境伯領の時代から貴族として活躍し、プロイセン王国が成立した後もこの地域の農場を経営しておりかなり裕福な家系でした。

ビスマルクはその末っ子として生まれたため、ユンカーの当主とはなりませんでしたが、この当時ユンカーの家系は文官か軍人となるのは当然でしたがビスマルクは最終的に文官としての道を歩んでいくことになります。

1834年 – 19歳「 ビスマルクベルリン大学に入学」

文官への道を歩み始める

ビスマルクは1822年にベルリンへと移住。ビスマルクはここでの学生生活は苦痛であったとのちに回想していますが、ビスマルクはこの学校を卒業すると語学が得意であったことが功を奏し、ゲッティンゲン大学に入学してその後1834年にベルリン大学へと入学しました。

ゲッティンゲン大学

しかし、ビスマルクは大変飽きっぽい性格であり彼は勉学に集中することはなく、本を読んだり社交界に通ったりする毎日だったそうです。

転々とするビスマルク

ベルリン大学を卒業した後、ビスマルクは高等裁判所の司法試験に合格しましたが、合格したら司法の仕事に飽き始め即時に辞職。さらに行政官としての試験を受けて合格してアーヘンで官僚として働くことになりましたが、ここでもビスマルクは仕事に熱心になることはなくやることといえば得意の語学を引っさげて女性を口説きまくる毎日。さらにこの女性の付き合いの費用を稼ぐためにルーレット賭博にお金をかけてしまい借金まで背負ってしまう始末だったそうです。

軍へ入隊した

ビスマルクは経済的な理由の失恋もあってかアーヘンからポツダムへと転勤。ここで兵役に召集され軍隊に入隊しました。兵役が終わるとビスマルクは官僚の仕事をさっさと辞職して故郷に帰りユンカーとして生活を送ることを決意し、兄とともに農地経営を行い始めここで借金をコツコツと返済。ヨーロッパの諸都市へ旅行を嗜む余裕ができるほどに経済は安定したんだそうです。

1847年 – 32歳「 ビスマルク政界入りを果たす」

復古主義の強硬派議員として

ビスマルクは1846年12月から政治運動をしていたこともありその影響でマクデブルクの選挙人に名が知られていました。そのため、その推薦もあって1847年にマクデブルク身分制議会の議員に選出。そのままのながれで連合州議会議員になりました。ビスマルクはこのころには少数派となっていた復古主義的な強硬保守派の議員であり、ビスマルクは時代遅れと言われながらも強硬派の急先鋒としてのプロイセンの絶対王政を守り、地主の強固な権利を認める運動を進めていきました。

1848年革命とビスマルク

強硬派であったビスマルクでしたが、時代の流れはビスマルクとは真逆の方向に向かっていくことになります。ビスマルクが議員となったよく都市である1848年にフランスで王政が打倒されて共和政が樹立。その流れはプロイセンも所属していたドイツ連邦にも飛び火することになり、これまで連邦と言いながらも諸侯によってバラバラであったドイツを統一する動きへと発展。ビスマルクは絶対王政を守るために革命勢力と戦うつもりでいましたが、国王になだめられたことによってこの作戦は失敗してしまいます。

革命の流れは止められませんでしたが、ドイツ統一はその後ビスマルクの最初の課題としてのしかかることになったのです。

1851年 – 36歳「フランクフルト国民議会のプロイセン代表となる」

プロイセン代表に就任

プロイセンのシンボル

1848年革命の後ドイツ統一について話し合いが行われるフランクフルト国民議会が開催。ドイツから選挙で選ばれた代表が出席しました。しかし、この当時ドイツ統一の主導権候補であったオーストリアとプロイセンとの間で対立が発生。ビスマルクはこの時期に地位をオーストリア並みにあげることを目的としてプロイセン代表として議会の代表となりました。

ビスマルクは当時オーストリアしか認められていなかった着席やタバコを吸うことを堂々とやってのけ、オーストリアが抗議しながらもそれを無視するという荒業を成し遂げて、さらにオーストリアが自分に有利となる議事録に改ざんしようとするとビスマルクはそれに猛抗議。オーストリアの面目を丸つぶれに追い込みます。

駐ロシア大使へと左遷

サンクトペテルブルク

保守的であったビスマルクはフランクフルト国民議会で活躍していきましたが、プロイセンでは自由主義の考えが普及し始めている時であり、ビスマルクはこの頃から政府によって邪魔者扱いを受けていくようになりました。そのためビスマルクは1859年にロシアの駐ロシア大使に左遷。ビスマルクは首都であるサンクトペテルブルクに赴任しロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見しました。

駐フランス大使時代

ビスマルクはロシア大使として働いている最中、本国プロイセンではビスマルクを首相に据える動きがどんどん高まっていくことになります。
ヴィルヘルム1世はビスマルクのことを評価はしていましたが、自由主義者の反発もあるためヴィルヘルム1世はとりあえずビスマルクを隣国フランスの大使に任命しました。

1862年 – 47歳「プロイセン王国の首相に就任」

ビスマルクの首相就任

フランスからビスマルクが呼び戻された

ビスマルクが駐フランス大使を務めていた頃プロイセンでは軍事改革のために巨額の軍事費を盛り込んだ予算案を提出したことによって議会が紛糾。国王は無理矢理にでもこの予算案を決議したかったのですが、衆議院の反対にありこの予算案は妥協案ですら否決する事態に陥ってしまいます。国王はこの否決を受けて国王を退位するつもりでいましたが、皇太子がこれは王位に泥を塗る行為だとして猛反発。そこでプロイセンの中でもかなりの強硬派であるビスマルクを呼び戻すことに決定。

フランスにいたビスマルクを急遽呼び戻して国王に謁見させ、ビスマルクは「たとえ衆議院が猛反発しても軍事改革を行ってみせます」と断言しプロイセンの首相に任命。これから26年間始まるビスマルクの時代がついに幕を開けたのでした。

鉄血宰相の由来にもなった「ビスマルクの鉄血演説」

こうして首相に就任したビスマルクは9月30日に紛糾していた衆議院予算委員会に「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と堂々と演説。衆議院という舞台において話し合いよりも軍事を優先するとし、それを邪魔するのであれば議会の議決を無視するという構えを見せます。

ドイツ帝国議会

一歩間違えれば革命が起こる綱渡りの状態。ビスマルクはこの演説によって自由主義者と真っ向から対立すると国王は議会を閉会。ビスマルクはその間にも予算案を通さない場合の事例は憲法にはなく、予算案が否決されても予算を組まなければならず、さらにこの頃のプロイセン王国の首相制度は議院内閣制ではなく国王の信任によってなるもので、たとえ議会がビスマルクを退陣に追い込もうとしてもビスマルクが首相をやめる義務はないという抜け穴を利用してビスマルクは無理矢理予算案を押し通して軍事改革を断行。

議会を無視した態度は非難されているものの、このおかげでプロイセンは軍事大国としてのちのドイツ統一へと突き進んでいくことになるのです。

1866年 – 51歳「 普墺戦争と北ドイツ連邦成立」

大ドイツ主義と小ドイツ主義

ドイツ統一の議論が盛んだった

軍事改革を押し通したビスマルクでしたが、ビスマルクにとって最大の課題はドイツ統一の主導権をプロイセンが握ることでした。この当時ドイツという地域はドイツ連邦という連合体が存在していたのですが、結局は小国が寄り合い所帯で集まっているようなもので、この地域からしたらドイツを統一したいという思いでいっぱいだったのです。

そんな中、ドイツを統一するのにふさわしい国だと名が挙がっていたのがプロイセン王国とオーストリア帝国。オーストリア帝国はドイツ連邦が成立する前まで存在していた神聖ローマ帝国の皇帝を務めていたハプスブルク家が統治している国であったため「ドイツはオーストリアによって丸ごと統一されるべきだ!(この考えを全てのドイツ国民を支配下に置くことから大ドイツ主義と言います)」と主張していました。

その一方でプロイセンはオーストリア帝国内のドイツ人を統一せずにプロイセン主導でドイツ連邦を統一してドイツ人を支配下に置くという小ドイツ主義を主張していたのです。この大ドイツ主義と小ドイツ主義の考え方の違いからドイツ統一の問題が起こってしまったのです。

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の勃発

ドイツ統一の機運が高まる最中、当時デンマークに支配されていたドイツ系国家であるシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国とラウエンブルク公国の帰属問題が発生。ビスマルクはこの問題に介入してオーストリアと共にこの地域に進駐。デンマークに対して脅しを兼ねた最後通告を発しましたが、これをデンマークは拒否したため、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発。

軍事改革を押し通したプロイセン軍がデンマーク軍を圧倒し、1865年のガシュタイン条約によってシュレースヴィヒを獲得しました。

普墺戦争

普墺戦争

こうしてデンマークに勝利したプロイセンでしたが、この第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の後始末でオーストリアと対立。さらに親プロイセン派のレヒベルク外相が失脚したことでにわかにプロイセンとオーストリアの間で戦争ムードが立ち込めていくようになります。ビスマルクはもしも戦争が起こった時にオーストリアに味方する国をなくそうとフランスやロシアに対して裏工作を実施。

なんとか中立にすることに成功してオーストリアに戦争を持ち込む準備が整ったのでした。こうして満を持して準備が整ったプロイセン軍。ビスマルクは「オーストリアが度々プロイセンに対して挑発している」と非難してこれに乗ってしまったオーストリアはプロイセンに対して宣戦布告。普墺戦争が幕を開けることになりました。

しかし、ドイツ統一の主導権を巡った重要な戦争は初めから結果が分かっているようなもので、鉄道や電信を効率的に使用したモルトケ率いるプロイセン軍の圧倒的な戦術に比べてオーストリア軍はまだ近代化がままならず今だに旧式の軍備を使っているに過ぎない状態であったためプロイセンはオーストリアに連戦連勝。

プラハ条約の締結

すでに戦の結果は分かっていたオーストリアはプロイセンに講和を申し込みプラハ条約が締結。このプラハ条約によってドイツ連邦の解体が決定し、オーストリアはドイツ地方の主導権を完全に失うこととなりました。一方のプロイセンはハノーヴァー、クーアヘッセン、ナッサウ、フランクルフトといったドイツの主要都市を獲得。

さらにドイツの主導権を獲得したプロイセンは1666年にプロイセン主導の君主連合である北ドイツ連邦が成立させました。こうしてオーストリアからドイツ統一の主導権を奪い取ったビスマルクはドイツ統一への大事な一歩を踏み出したのです。

1871年 – 56歳「 普仏戦争とドイツ帝国成立」

南ドイツ諸国統一の夢とスペイン継承問題

北ドイツ連邦を成立させたビスマルクでしたが、彼の次の課題はまだ統一していなかった南ドイツ諸国を統一することでした。ビスマルクはできることならば普墺戦争の時に統一しておきたかったのですが、この頃の南ドイツ諸国はカトリック。プロイセンなどはプロテスタントの国であったため一気に統一すると揉め事が起こること間違いなしというわけだったのです。

ビスマルクは南ドイツ諸国を統一するために関税の同盟を結ぶなどゆっくりと統一の準備をしていくのですが、この最中スペインにおいてスペイン継承問題が発生。スペインの新たな王にプロイセンの王の出身であるホーエンツォレルン家を指名した事に挟み撃ちに会うことを嫌ったフランスが猛反対。

普仏戦争のきっかけになった王家継承問題

最終的にはホーエンツォレルン家の擁立は断念したのですが、フランスはさらにホーエンツォレルン家からスペイン王になることをしないということをヴィルヘルム1世に要求。この要求はプロイセンの許容範囲を超える要求であり拒否するのですが、ビスマルクはこの状態を利用してビスマルクはこの事件の電報を改ざん。

フランスとプロイセンの両方のナショナリズムを煽り立て、消極的であったナポレオン3世を無理矢理引きずり出すことに成功。ビスマルクはフランスを戦争に導いたのでした。

普仏戦争

普仏戦争

1870年に普仏戦争が勃発したのですが、この戦争の勝敗はとっくに決まっているようなものでした。モルトケ将軍率いるプロイセン軍はよく訓練されさらに近代化が済んでいた50万の軍勢が揃っており戦争に備えて設備された鉄道施設によって自由自在に大量の兵士を動員することができました。

その一方でフランスは植民地であるアルジェリアから兵士をかき集めても35万人ほど。さらに旧式の武器を使いプロイセン軍の格好の餌食となっていったのでした。さらに南ドイツ諸国もプロイセン側に参戦したことによってフランスは孤立。スダンの戦いにおいてナポレオン3世が8万人の将兵と共に捕虜となったことが決め手となりプロイセン軍は1871年にヴェルサイユ宮殿を占領。

プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得し、さらには南ドイツ諸国を統一するとに成功。こうして南ドイツ諸国をも併合した北ドイツ連邦はヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国が成立しました。

1873年 – 58歳「三帝同盟成立」

フランスの封じ込め政策

戦争後のナポレオン3世とビスマルク

普仏戦争によってドイツ帝国が成立しましたが、ビスマルクの最大の危惧は普仏戦争で敗れたフランスが軍事改革を行いドイツの脅威になることでした。そのためビスマルクはフランスをなんとかして封じ込めなければならないと考えていたため、ビスマルクの時代は植民地を獲得するのは消極的となり、そのかわり諸外国と同盟を結んでフランスを孤立させようとするのです。

ビスマルクは1873年にロシアとオーストリアとの間で三帝同盟を締結。バルカン半島の平和的解決とフランスから革命運動がやってこないのを防ぐことを合意し、フランスの封じ込めに成功したのです。

1878年 – 63歳「ベルリン会議開催」

ヨーロッパの安定に尽力

ベルリン会議

ドイツとロシアとオーストリアは対フランスという観点から同盟を締結するにまで至りましたが、この頃のヨーロッパではロシアの南下政策の一環でバルカン半島に進出していたのをイギリスやオーストリアなどが阻止する動きを見せていました。こうなるとせっかく結んだ同盟関係もロシアとオーストリアの対立によっておじゃんになってしまうためビスマルクはヨーロッパの安定はドイツの安定として公正な仲介人として調停に乗り出しました。

こうして1878年にドイツ帝国の首都であるベルリンにてベルリン会議が開催。しかし、このベルリン会議にてイギリスとオーストリア側に有利になるなる項目が多かったためロシアでは反ドイツの感情が噴出。ドイツとロシアの関係が崩れたことによって三帝同盟は崩壊することになりました。

ベルリン・コンゴ会議

ビスマルクはドイツの安定を最優先としていましたが、ベルギーのレオポルト2世がコンゴの領有化を宣言したことによってヨーロッパで問題が発生。ビスマルクは1884年にベルリン・コンゴ会議を開催し、この会議によってドイツはトーゴ・カメルーン・ドイツ領東アフリカ・ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の植民地として制定。

ドイツでも植民地を持つことになり第一次世界大戦で敗れるまで植民地を運営していくことになったのです。

三国同盟の締結

ロシアとの対立によって三帝同盟は崩壊するに至りましたが、ビスマルクはさらに元々独墺同盟を結んでいた上にイタリアも参加させて三国同盟を締結。これが第一次世界大戦の同盟国の原型となります。
また、三国同盟が締結する前年にロシアとの同盟が復活。三国同盟と三帝同盟の二重体制となり、いわゆるビスマルク体制が確立されたのでした。

1890年 – 75歳「ドイツ帝国の首相辞任」

ビスマルクとヴィルヘルム2世の対立

ヴィルヘルム2世

1888年。プロイセン王国時代から国王として君臨していたヴィルヘルム1世が90歳で崩御。跡を継いだフリードリヒ3世も病気によって99日で崩御したことによってまだまだ29歳であるヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位することになりました。

しかし、ヴィルヘルム2世はビスマルクがとても有能で尊敬していたのですが、それでもこの頃73歳だったビスマルクの意見は44歳も離れていたヴィルヘルム2世に合うはずもなく、さらにヴィルヘルム2世がどちらかといえばイケイケの皇帝め植民地を多く持って世界に覇を唱える大帝国にドイツを盛り立てていきたかったため、ヴィルヘルム2世は植民地を持つことに消極的であったビスマルクのことをだんだん疎ましく思い始めることになります。

ビスマルクの失脚

晩年も政治に意欲を燃やした

ビスマルクとヴィルヘルム2世の関係が悪化していく最中、1889年に労働者のストライキが起こったことが原因でヴィルヘルム2世はこれまで存在していた社会主義者鎮圧法を廃止してある程度労働者に譲歩した法案を通そうと考え始めます。

しかし、ゴリゴリの保守派であったビスマルクは社会主義者鎮圧法に反対。ビスマルクとヴィルヘルム2世の決裂は決定的なものになります。さらに1890年に総選挙が行われビスマルクの保守党が敗れるとビスマルクはこれが潮時だと感じ、ヴィルヘルム2世に首相辞任の辞表を提出。

これが受理されたことによって30年近くヨーロッパに影響を与えたビスマルクの時代は終わりを迎えたのです。

ビスマルクの晩年

ビスマルクが首相を辞任した後、ヨーロッパの情勢は大きく動き出すことになります。フランスでは当時シベリア鉄道の建設に動いていたロシアに多額の援助を行う見返りに露仏同盟が締結。ビスマルクが後半生のほとんどをかけて作り上げたビスマルク体制は崩壊することになります。

ビスマルクはその後ベルリンの郊外に移住して回想録を出版するなど悠々自適な生活を送りながら、再び政界に舞いもどろうと立候補を行おうとしており最後まで野心が潰えることはありませんでしたがビスマルクが首相を辞任した時には75歳。体にも限界がき始めそして1898年83歳でその激動の人生に幕を下ろしました。

ビスマルクが亡くなったことはすぐにヴィルヘルム2世に伝えられ、陸海軍に対して7日間もに服すように命令。葬儀は質素を愛していたビスマルクの意向を汲み取りささやかな葬儀が行われた後邸宅の後ろの小丘に墓が建てられました。その後ヨーロッパでは戦争の動きが見え始めていきバルカン半島の問題などでドイツとロシアが対立。そして時代はビスマルク体制から第一次世界大戦に移り変わっていくことになるのです。

ビスマルクの関連作品

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ビスマルクドイツ帝国を築いた政治外交術

この本はビスマルクの業績と当時の欧州各国の動きも簡潔で分かりやすく説明されており、ビスマルクが生きていた時代のヨーロッパの状況や、ビスマルクの政治運営などを詳しく知ることができます。

ビスマルク(上)

この本はビスマルクのプライベートな部分を描いており、ビスマルクの人生に関わった様々な人物達が織り成す人間模様には濃厚で壮大なドラマを感じ取ることができる本となっています。

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【ゆっくり解説】オットー・フォン・ビスマルク

ゆっくり解説によるビスマルクの解説動画です。一介の議員からドイツの首相にまでのしあがり、そしてドイツ統一の3つの戦争をどのように戦っていったのかを詳しく解説しています。

ビスマルクについてのまとめ

ビスマルクは絶対不可能と言われていたドイツ統一や多方面に対する同盟関係という二つの偉大な功績を成し遂げ、これまでイギリスやフランスなどに遅れをとっていたプロイセンを一気に肩を並べるほどの大国にまで押し上げました。

しかし、ドイツはその後ヴィルヘルム2世の政策の失敗によってビスマルクが亡くなってから20年後にドイツ帝国は崩壊。最悪の独裁者であるヒトラーが現れたのちにドイツは二つに分裂され、そして1991年にようやく再び統一されて今に至ることになります。

ビスマルクの方はというと、海軍ではビスマルクという名の戦艦が建造されたり、ドイツ建国の偉大な父としてその名をドイツに刻み込んでいます。今移民問題やEU問題で揺れているヨーロッパ。そんな今だからこそ強硬的とまではいかないものの、ビスマルクのような確固たる信念を持ったリーダーが必要なのではないのでしょうか?

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