本田美奈子の功績
功績1「クラシックの楽曲を日本語詞で歌った」
ミュージカルに出演するようになってから興味を深めていたクラシック音楽の楽曲を、本田美奈子が本格的に歌うようになったのは2002年ごろです。旧来のクラシックに囚われることなく、現代の感覚で歌うことで楽曲の素晴らしさを伝えようとしていました。
その中で特に彼女がこだわっていたのが日本語での歌唱でした。これによりクラシックの世界を大きく開拓し、新しいファン層を獲得することに成功します。本田美奈子のクラシックは2003年の「AVE MARIA」と、2004年の「時」で聴くことが出来ます。
功績2「1万2000人の中からオーディションに合格」
アイドル活動の中でロックに興味を持ちバンドを結成しますが、いまいち伸び悩み人気も停滞し始めます。そんな1980年代後半ごろは、本田さんにとって芸能人として一番苦しい時期でした。そんな中、ミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションの話を耳にします。
1990年に始まったオーディションには約1万2000人の応募者が集まり、選考は6ヶ月にわたって行われました。本田は選考を無事勝ち残り、主人公のキム役に決定します。一年半にも及ぶ舞台をやり遂げたことで、舞台女優としても高く評価されることになりました。
功績3「様々な海外アーティストとのコラボレート 」
デビュー当時は洋楽をほとんど聞かず詳しくもなかった本田さんでしたが、事務所の社長の勧めでマリリン・モンローやマドンナなどのスターの映像を見てステージでの振る舞いなどを勉強していました。
1986年にはアイルランドのギタリストであるゲイリー・ムーアから楽曲提供を受けたり、クイーンのギタリストのブライアン・メイにプロデュースをお願いしたりして、精力的に海外のミュージシャンと交流を持ちました。
翌年の1987年にはマイケル・ジャクソンの姉であるラトーヤ・ジャクソンとのジョイントコンサートを行ったり、同年7月にはジャマイカを訪れレゲエの重鎮であるスライ&ロビーのライブにゲストで出演したりしています。
本田美奈子の代表曲
Temptation(誘惑)
1985年に発売された4枚目のシングルで、この作品で初めてオリコンチャートでトップテン入りを果たします。東芝の暖房器具のCMに使用されたほか、フジテレビ系のドラマ「微熱MY LOVE」の主題歌にもなりました。またこの曲で初めての振り付けにも挑戦した記念すべき曲でもあります。
1986年のマリリン
露出度の高いセクシーな衣装と振り付けで人気を得るとたちまちチャートを駆け上りました。TBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」で第2位に輝き、オリコンでは第3位にランクインしています。2010年には声優で歌手でもある水樹奈々によってカバーもされました。
アメイジング・グレイス
元奴隷貿易船の船長から牧師となったジョン・ニュートンによって作詞された、「神の恵み」を意味する讃美歌です。急性骨髄性白血病によって入院していた本田が一時的に回復し退院した際に、ファンへの感謝を込めて制作されたミニアルバムに収録されました。
このアルバムが発売されたわずか2週間後に彼女は亡くなりました。そのため逝去を伝えるテレビ報道で繰り返しこの曲のライブ映像が放映されたため、印象深い彼女の代表曲となりました。
追悼コーナーを設ける店舗もあり、在庫切れになるほど売り上げは急上昇しました。オリコンのアルバム売上ランキングでは7位を記録し、第20回日本ゴールドディスク大賞「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。
本田美奈子の交友関係は?
堀越学園の同級生は大物ぞろい
1984年にデビューを果たしたアイドル達は「花の84年組」と呼ばれるほど、壮々たる顔ぶれが揃ったアイドルの当たり年でした。本田美奈子さんの堀越学園時代の同級生である南野陽子さんや長山洋子さん、永瀬正敏さんらもその一部です。
また堀越学園の「花の84年組」は悲劇のクラスでもありました。本田さんと同じ白血病で菊池陽子さんが亡くなり、岡田有希子さんと松平健さんの後妻として知られている松本友里さんは自ら命を絶っています。
特に親しかった友人は?
堀越学園時代のクラスメートだった南野陽子さんとは、卒業してお互いデビューしてからも特に仲が良かったと言います。堀越学園の編入試験で席が隣同士になったことがきっかけでした。本田さんの闘病中も度々病室にお見舞いに訪問しています。
また演歌歌手の坂本冬美さんとは東芝EMIの広報担当者を通じて出会い親しくなりました。旅番組に2人で出演し旅行に行ったり、バラエティ番組でゲームをしたりとテレビでの共演も多いです。また坂本さんは本田さんの追悼コンサートである「音楽彩」にも出演して歌声を披露しています。
療養生活を支えた人々
同時期に白血病と診断されたお笑い芸人のカンニングの中島忠幸さんとは、お互いに励まし合い手紙をやり取りしていました。中島さんとのやり取りの中で、いかに自分が人々から愛されているか知ったと本田さんは語っていました。
クラシック・アルバムの制作で関わった音楽プロデューサーの井上鑑さんは、本田さんが復帰した時のための楽曲をプレゼントしています。
当時、井上さんは福山雅治さんのコンサートツアー中だったため、福山さんを含むツアーバンドの協力を得てデモを制作しました。この楽曲は本田さんが亡くなった後に、トリビュート・シングルとして発売されています。