本田美奈子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ザーサイを食べすぎて医者に止められたことがある」
本田美奈子さんは好物を聞かれたら豚汁とザーサイと答えるくらいザーサイが好きだったと言います。なかでも「桃屋のザーサイ」が特にお気に入りだったようで、程よい塩加減と独特の味付けの虜になっていました。当時のアイドルとしては異例の発言で、ファンたちも驚いたようです。
デビューしてすぐのころ忙しさから食欲をなくしてしまった時期があり、何故かザーサイだけは食べ続けることが出来たのでそうです。以来カバンに入れて肌身離さず持ち歩いていたようで、特に海外での仕事の時は必需品だったそうです。
あまりに好き過ぎて家の中にあるザーサイを一度に一袋食べきってしまうなどしたために、「食べ過ぎて医者に止められたことがある」と週刊文春に掲載されていたコーナーで語っていました。
都市伝説・武勇伝2「マイケル・ジャクソンの自宅に招かれた」
本田さんの事務所がラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートを手掛けていたため、1987年にラトーヤ・ジャクソンとのジョイントコンサートが行われました。その縁でジャクソン・ファミリーとも親睦を深めることになります。
同じく1987年に「バッド・ワールド・ツアー」で初めて来日していたマイケル・ジャクソンを迎えるウェルカムパーティーにも招待され対面を果たしています。翌1988年にはロサンゼルスにあるマイケルの自宅に招待され、作詞家の秋元康さんらと訪問しています。
またこの時に撮影さえた写真や本田さんがマイケルからプレゼントされたステージ衣装の秘蔵グッズが、2009年の難病患者支援チャリティー公演の「音楽彩」で公開・展示されました。
都市伝説・武勇伝3「本当は演歌歌手志望だった」
本田さんは母親の影響で小学生の頃は歌謡曲、中学生になると都はるみさんや石川さゆりさんなどの演歌を歌っていました。そのため元々は演歌歌手志望で、オーディションで使用する歌も演歌を用意していたといいます。
事務所にスカウトされた時も演歌歌手としてデビューさせてほしいと頼みましたが、事務所が演歌歌手を育てたことが無かったため、泣く泣くアイドルとしてのデビューになりました。
1988年から活動を始めたロックバンド「MINAKO with WILD CATS」が解散した後に、再び演歌歌手への転向が模索されました。実際に着物を着てテレビ番組で演歌を歌うなど具現化していましたが、形にはならず本田さんはクラシックへの興味を深めていきます。
本田美奈子の年表
1967年 – 0歳「東京都板橋区で生まれる」
東京都板橋区で生まれる
本田美奈子さんは1967年7月31日に東京都板橋区の産院で生まれ、その日生まれた新生児を紹介する全国ネットのラジオのコーナーで紹介されました。幼いうちに埼玉県朝霞市に転居すると生涯のほとんどを過ごします。
朝霞市には2018年に本田美奈子ミュージアムがオープンしていて、本田さんのパネルや衣装などが展示されています。
「スター誕生!」に出演
歌手を目指していた母親の影響で本田さんも歌手になる夢に持つようになり、中学3年の時に伝説のオーディション番組「スター誕生!」に応募します。
予選では柏原芳恵さんの「ハロー・グッバイ」を歌って勝ち上がり決勝大会に出場するも、スカウトには至らず残念ながら落選してしまいます。この時の優勝者は松本明子さんで、決勝大会には徳永英明さんも出演していました。
1983年 – 16歳「スカウトされ芸能界へ」
原宿でスカウトされる
高校生になってすぐの1983年に初めて原宿を訪れた際に、芸能プロダクションであるボンド企画のスタッフに声をかけられ芸能界に足を踏み入れます。
ボンド企画は「少女隊」のメンバーとして本田さんをスカウトしましたが、彼女の歌う中原めいこさんのヒット曲「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」のデモテープを聴いて才能を感じ、ソロで売り出すことに変更したと言います。
長崎歌謡祭でグランプリに
高校2年生になった1984年に「第8回長崎歌謡祭」に本名の工藤美奈子の名で出場します。夏川りみさんや椎名林檎さん、お笑い芸人の友近さんなども出場した歌手の登龍門ともいわれていたコンテストです。
本田さんは「夢少女」という楽曲を歌いグランプリを受賞したことで、レコードデビューが決まりました。
1985年 – 18歳「殺意のバカンスでレコードデビュー」
殺意のバカンスでレコードデビュー
1985年の4月にデビュー曲「殺意のバカンス」を東芝EMIからリリースします。本田さんのデビュー時のキャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」でした。
また先にデビューしていて名前が広がっていた工藤夕貴さんと被らないように、本名の工藤美奈子ではなく本田美奈子の名前でのデビューとなりました。世界に羽ばたいてほしいという願いを込めて、世界で活躍する自動車メーカーの「ホンダ」から名付けられました。
日本武道館でのコンサートを開催
デビューした年の年末に早くも初の日本武道館でのコンサートを開催したことからも、本田さんの勢いを知ることができます。
オリジナルに加えて邦楽・洋楽のカヴァー曲を織り交ぜたラインナップでした。邦楽からはアン・ルイスさんの六本木心中、洋楽からはクイーンの「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」やフィル・コリンズの「ワン・モア・ナイト」まで幅広い楽曲を歌いました。
1986年 – 19歳「1986年のマリリンをリリース」
「1986年のマリリン」をリリース
前作の「Temptation(誘惑)」では「第27回日本レコード大賞」「第16回日本歌謡大賞」「第14回FNS歌謡祭」などで新人賞を受賞しましたが、「ザ・ベストテン」では10位以内にランクインできず本田さんは悔しい思いをしたと言います。
その悔しさを胸に今作ではより本田さんらしさを意識した楽曲作りが、制作スタッフたちによって模索されました。作詞を担当した秋元康さんが本田さんのイメージを膨らませた結果頭に浮かんだのがマリリン・モンローだったため、「マリリン」というキーワードから曲が制作されました。
ロックバンドを結成
1986年ごろから英国のロックバンド「クイーン」との交流を深め、ステージでの振る舞いや歌唱法に大きな影響を受けます。その結果1988年から女性だけのロックバンド「Minako With Wild Cats」を結成することになりました。
1989年までの約2年ほどの活動で2枚の作品を発表し、ロック流の歌唱法を身につけたのはこの時期のことでした。
1992年 – 26歳「ミュージカル「ミス・サイゴン」に出演」
公演中に足を骨折
「ミス・サイゴン」の初演中の1992年7月4日に本田さんが舞台装置に足を挟まれる事故が起こりました。この事故で彼女は足の指4本を複雑骨折し、19針を縫う全治3ヶ月の重症を負いました。にも関わらず3週間で舞台復帰し、残りの公演を無事演じ切りっています。
当時の共演者だった市村正親さんによると、普通の人ならとても意識を保てないような大怪我だったと言います。しかし、本田さんは代役の役者が来るまで決して舞台を降りようとはしませんでした。それだけこの舞台にかけた彼女の覚悟が見えるようです。
2003年 – 37歳「クラシックアルバム「AVE MARIA」をリリース」
「AVE MARIA」をリリース
新しい見方でクラシックを歌える歌手を探していたクラシック・プロデューサーの岡野博行さんと、ミュージカルからクラシック音楽への興味を深くしていた本田美奈子さんが出会ったことでクラシックアルバム「AVE MARIA」の制作が始まりました。
岡野さんが選んだ100曲以上の候補曲から本田さん自らが収録する曲を選び、伴奏の楽器のレコーディングにも立ち合いながらこだわりを持って作り込んで行きました。編曲にはポップス界の重鎮プロデューサーである井上鑑が担当し、クラシックとポップスの見事な融合が実現しました。
2005年 – 38歳「急性骨髄性白血病により死去」
白血病が発覚
2004年の年末にアルバム「時」のリリースやエイズ啓発運動「Act Against AIDS」の武道館コンサートなど忙しく過ごしていた本田さんでしたが、風邪の症状のような微熱が続いていました。年が明けた1月に病院で診察を受けると「急性骨髄性白血病」が発覚し緊急入院となりました。
2度に渡る化学療法と臍帯血移植、抗癌剤治療を試みるも寛解には至らず、2005年11月6日午前4時38分に家族に見守られながら38歳の若さでこの世を去りました。
本田美奈子についてのまとめ
本田美奈子さんの人生は歌と共に歩んだ人生でした。アイドルとしてデビューしましたがロックバンドを組んだりクラシックを歌ったりと、その幅の広い歌唱力には多くの人が驚いたことでしょう。
亡くなった時には多くの人々が嘆き悲しみ、彼女の存在の大きさを痛感しました。あの「アメージング・グレイス」の歌声は永遠に語り継がれることでしょう。
まだ彼女の歌声を聞いたことない人はぜひこの機会に聞いてみてください。きっ