与謝蕪村とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や俳句、作品についても紹介】

与謝蕪村の功績

功績1「江戸時代3大俳人の1人」

松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ偉大な俳人

与謝蕪村は江戸時代初期の松尾芭蕉、後期の小林一茶と並ぶ3大俳人の1人といわれています。芭蕉と一茶が活躍した中間にあたる江戸時代の中期に活躍。3人はそれぞれに特色ある俳句を詠んでいて、その違いを楽しむのも面白いです。

芭蕉は普段使われていたようなシンプルな言葉で、静かで儚い「幽玄」「閑寂」の境地を句にしたためました。蕪村は芭蕉に憧れ、芭蕉の流派である「蕉風」の復活を目指して活動。結果的に芭蕉の句とはまた違った、漢語や雅語など普段使われない言葉も使って絵としてイメージしやすい句を多く作っています。

小林一茶は俗語のほかに方言も使い、人間味にあふれた心を自由に詠みました。このようにそれぞれの流派の特徴を押さえておくと、現代の俳人の句を読んだときにも3大俳人のうち誰の影響を受けていそうか推測できるので、俳句を読むのが面白くなります。

功績2「文人画(南画)を確立」

南荘の画家・夏珪の作品

文人画(南画)の確立でも知られている与謝蕪村。文人画は中国から伝わってきた美術様式ですが、蕪村の文人画は中国のそれとはまた違ったものです。日本の文人画は日本人の心情にマッチするように解釈されていて、だからこそ18世紀から19世紀にかけて花開いたのだと考えられます。

中国の文人画には、中国という土地がもつ壮大な自然の厳しさがよく表れています。日本の自然とはまた違った魅力がありますが、少し日本人には壮大すぎると感じられたのでしょう。蕪村の文人画には、彼が俳句でも大事にしていた日本的な「みやび」が表現されています。

功績3「新ジャンル『俳画』の開拓」

負けてこそ人にこそあれ相撲取(大江丸)

蕪村は俳画を1つの芸術にまで高めました。俳画とは、シンプルな線で描かれた絵に俳句を添えたもの。実際、与謝蕪村以前にも俳画を描いた人々は松尾芭蕉やその弟子たちを中心に多く描いていまが、俳画を1つの芸術にまで高めたのは蕪村だと考えられています。

俳画は自分の句に絵をつける場合もあれば、他の俳人の句を題材にする場合もあります。上の画像「負けてこそ人にこそあれ相撲取」は、安井大江丸という俳人の詠んだ句に蕪村が絵をつけたものです。さらさらっと描いたような筆致が、力が抜けていてどこか可愛らしい絵になっています。

与謝蕪村にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「出生・故郷に関する謎」

京都府与謝野町

蕪村の最大の謎は、その出自です。蕪村幼少期の家庭環境や家族構成、なぜ故郷を捨て江戸に出たのか、なぜ一度も毛馬村に帰郷しなかったのかといった疑問が湧きます。

こうした点について、蕪村は誰にも語らなかったと見られています。まるで自ら幼少期を闇に葬ったかのようでもあります。

「与謝」は、母の故郷である丹後の地名から名乗ったといわれていて、母を慕っていたことは確かです。

夏川を越すうれしさよ手に草鞋

丹後で詠んだとされるこの句には、母への暮情が込められています。

蕪村の幼少期に、その母を喪う事件があったのではないでしょうか。そのショックが蕪村から語るべき言葉を奪ったのかもしれません…。蕪村の人生冒頭は、ミステリアスなベールに包まれています。

都市伝説・武勇伝2「妻子がある身で禁断の恋」

禁断の恋をしていた蕪村

「英雄、色を好む」とはよく言われることですが、蕪村も例外ではなかったようです。60代も半ばを過ぎた蕪村には、小糸という愛人がありました。小糸は京の芸妓だったといわれています。

蕪村は、妻子ある身でありながら、その愛人にうつつを抜かし、嵐山で遊んだり、芝居見物に出かけたりと奔放な老いらくの恋を楽しんでいました。

ちなみに、蕪村45歳の年に娶ったの妻ともは、経歴不詳の人ながら、蕪村からみて娘ほどの年頃だったと言われています。蕪村60代半ばと言えば、愛娘くのも成人していた頃です。妻と娘は、蕪村のこうした行動をどう見ていたのでしょう。

見るに見かねた周囲の人々の忠告もあり、1783年には小糸との関係を断ち切りました。その際も未練たらたらだった蕪村は、俳諧の諧つまり諧謔を地でゆく人だったのです。

与謝蕪村の簡単年表

1716年
蕪村、毛馬村に生を受ける

1716(享保元)年、蕪村は摂津国東成郡毛馬村に誕生しました。生家は、庄屋や村長といった村の有力者と言われていますが、詳しくは分かっていません。

10代のうちに両親と土地屋敷まで失った蕪村は、20歳(※ )になると毛馬村を離れ、江戸に出ています。そこに至る経緯は、謎に包まれています。
※ 江戸に出た年については、17歳頃とする説もあります。

1737年
夜半亭・修行時代

江戸に出た蕪村は日本橋石町に住まいました。
22歳の頃、夜半亭を主宰していた早野巴人(宋阿)という俳諧師に師事して俳諧を学ぶようになります。巴人は、芭蕉の弟子であった其角・嵐雪に学んだ人で、芭蕉の孫弟子にあたります。

巴人の元で俳諧を詠む蕪村(当時は宰町という俳号を使っていました)の句は、巴人の著した「夜半亭歳旦帳」や「芭蕉句選」に収録されています。

1742年6月、夜半亭宋阿(早野巴人)が死去します(享年67歳)。夜半亭は解散となり、蕪村は師の死を悼みながら、兄弟子の砂岡雁宕を頼り下総国結城に移りました。以後10年に及ぶ放浪生活が始まったのです。

なお、1744年に宇都宮で著した「寛保四年歳旦帳」においてはじめて「蕪村」の俳号が用いられました。宇都宮は、師であった夜半亭宋阿の故郷でした。

1757年

1757年、蕪村はついに、長きにわたる放浪生活に終止符を打ち、京に屋敷を構え定住することになります。

それに先立つこと3年。1574年には、母の故郷である丹後国与謝を訪れ、見性寺というお寺に3年間寄寓しています。母の若かりし日に見上げたであろう空に格別の感慨があったことでしょう。

1760年には、蕪村45歳にして妻ともを娶ります。与謝の姓を名乗りはじめたのもこの頃とされます。毛馬ではなく、与謝。蕪村は己の素性を母のみに求めたことがわかります。

1766年

1766年、蕪村は太祇、召波とともに三菓社を立ち上げ、俳諧活動を本格化させます。また、讃岐を訪れ、絵画活動も盛んに行いました。

1770年には、師の夜半亭を引き継ぎ、夜半亭二世として俳諧宗匠に列することになりました(宗匠立机)。その後、弟子の几董により、蕪村七部集が編まれることとなります。1772年に句集「其雪影」、1773年句集「此のほとり」「あけ烏」、1776年に句集「続明烏」「花鳥篇」、1780年に句集「桃李」、1783年「五車反古」が著されました。

1783年

1783年初冬、持病の悪化など体調を崩した蕪村は、12月25日未明に死去しました。享年68歳でした。死因は重症下痢症といわれていましたが、近年では心筋梗塞だったとする説も唱えられています。

辞世の句
〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉

与謝蕪村の生涯年表

1716年 – 0歳「蕪村、誕生」

摂津国東成郡毛馬村に生まれる

大阪・都島区にある蕪村生誕地碑

蕪村は1716年に誕生しました。生家は富農、庄屋あるいは村長と言われています。父の名は不明、母の名は伝承によると谷口げんといったそうです。

蕪村の幼少期の暮らしぶりや家族構成は、ほとんどわかっていません。記録もなく、蕪村自身が語っていないことが原因です。一説には、母は蕪村13歳の頃に32歳の若さで亡くなったとされています。

1736年 – 20歳「 蕪村、毛馬村を出て長き修行へ」

茨城県結城市にある蕪村の句碑

蕪村の下積み時代〜江戸へ

1736年、江戸へ出た蕪村は、早野巴人(夜半亭宋阿)という俳諧師に師事して俳諧を学ぶことになります。並行して、画業の修練も積んでいます。

1738年に巴人の著した「夜半亭歳旦帳」や、同じく1739年の其角・嵐雪三十三回忌集「桃桜」に「宰町」の名で入集しています。

巴人のもと、頭角を現しはじめた蕪村でしたが、1742年に師の巴人が亡くなると、兄弟子の砂岡雁宕を頼って江戸を離れ、下総国・結城に移り住みます。

蕪村の下積み時代〜関東・東北を放浪

その後、蕪村は関東・東北をおよそ10年もの間旅をして暮らします。敬愛する芭蕉の「おくのほそ道」を辿ったり、師である巴人の故郷・宇都宮で歳旦帳を編み俳号を「蕪村」に改めたりしています。

いつ終わるともしれない蕪村の放浪でしたが、1754年に赴いた丹後与謝・宮津での3年間で心に定めることがあったのでしょう。丹後与謝は蕪村の母の故郷です。1757年に京に居を構え、その後は終生京を拠点として暮らしました。

1757年 – 42歳「 蕪村、京において本格始動」

山水図屏風(左隻)

45歳にして妻を娶る

1760年、蕪村は45歳にして結婚します。ともという女性が相手でしたが、娘ほど年が離れていたと言われるほか、詳しいことはわかっていません。

蕪村とともの間には、一人娘くのが誕生します。蕪村に、自身の少年時代のトラウマがあったかどうかはわかりませんが、子煩悩な父親であったことは確かなようです。

京の画壇で名を馳せる

野馬屏風(部分)

1763年、「山水図屏風」「野馬屏風」を発表し、蕪村の名前は京の画壇で高く評価されるようになりました。

1768年には「蘇鉄図」を讃岐国丸亀の妙法寺に遺しています。

三菓社を結成

1766年、太祇、召波とともに三菓社と呼ばれる俳句結社を作ります。この三菓社での句会が、蕪村の俳諧活動の拠点となりました。

夜半亭を継承

1770年、兄弟子であった高井几圭の子・几董を後継者とすることを条件に、師・巴人の夜半亭を継ぐことを決意します。これにより、蕪村は俳諧宗匠に列することになりました。

以後、「其雪影」(1772年)、「あけ烏」(1773年)、「続明鴉」(1776年)と蕉風復興運動を展開します。ただ、この時期の蕪村は画業への取り組みもあり、俳諧運動の実務では弟子の几董が大きな役割を担いました。

1771年 – 56歳「 『十便十宜図』成る、蕪村の円熟期」

十便十宜図(蕪村筆)

池大雅との競作「十便十宜図」

池大雅が十便図を、蕪村は十宜図をそれぞれ描きました。技巧では大雅、俳趣では蕪村と個性を感じる競作です。

春風馬堤曲

1777年、蕪村は連作詩「春風馬堤曲」のほか「殿河歌」「老鶯児」を発表します。とくに「春風馬堤曲」は、藪入りの少女に委ねて、帰郷する心持ちを表す作品です。蕪村にとっては、毛馬村のことが脳裏にあったのかもしれません。

1778年には、「野ざらし紀行図」「おくのほそ道図巻」を発表しています。

1783年 – 68歳「 蕪村、逝く」

与謝蕪村の墓

最期まで止まなかった芭蕉への憧憬

1783年、蕪村は義仲寺の襖絵を描いています。義仲寺は、芭蕉の墓があるお寺です。また、芭蕉百回忌取越興行を江戸の俳人・蓼太とともに後援しています。

晩秋、体調を崩した蕪村の病勢は次第に悪化し、妻ともと娘くのの献身的な看病にもかかわらず、12月25日未明に息を引き取りました。

最晩年の活動

「夜色桜台図」「紅白梅図屏風」「富嶽列松図」などがあります。中でも「紅白梅図屏風」は、辞世の句と重なるもので、蕪村最期の脳裏に浮かんだのは清楚な白梅の光景だったのではないかと考えられます。

与謝蕪村の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

与謝蕪村 (別冊太陽 日本のこころ)

画俳二つの道の達人、というサブタイトルで蕪村の人生とあわせて絵画と俳句とを紹介しています。蕪村という人の概略を知り、その作品世界に触れる意味では、格好の書籍です。

蕪村俳句集

蕪村の俳句に触れるなら、まずこちらをお勧めします。密かに句集を編もうとするも未完、娘の婚家の資として頒布される、など表紙に赤裸々な事情が書かれています。

蕪村句集 現代語訳付き

俳句に興味はあるけれど読み方が分からない、といった方にお勧めしたいのがこちらの書籍です。現代語訳がついているので、非常に分かりやすく感じます。

関連外部リンク

与謝蕪村についてのまとめ

いかがでしたか?

今回は与謝蕪村の生涯をまとめました。蕪村は芭蕉亡き後の廃れた俳句界に新星のごとく現れ、蕉風回帰を唱えつつ自ら筆と絵筆を手に俳諧・絵画の世界へ新し風を吹き込んだのです。

賛否両論ありますが、蕪村の作品は現代でいう「VR」のようだったのでしょう。テレビもパソコンもない時代の俳諧や絵画は、詠み手描き手の想いを高度に再現する、まさに「VR」だったのだと思います。良ければこういった視点で、もう一度蕪村の作品に触れてみてください。

この記事をきっかけに、蕪村の作品に共鳴され関心を持っていただければ幸いです。

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