【年表付】小林一茶の代表俳句や作品の特徴、松尾芭蕉との関係を紹介

小林一茶は、江戸時代後期に活躍した俳人です。信濃国(現在の長野県)の柏原という宿場町で生まれました。14歳のとき、江戸(現在の東京都)へ奉公に出ています。苦しい奉公生活の中で俳諧と出会い、学ぶようになりました。のちに故郷の柏原にもどり、俳句の先生として暮らしました。

一茶の俳諧は、雪深い柏原の自然や、生き物とくに虫や小動物といったちいさな命をテーマにしたことで有名です。また、生涯に2万句を詠んだと言われるほど、たくさんの句を遺しています。

小さく力の弱い生き物に愛情を注ぐ一茶の句は、松尾芭蕉にも与謝蕪村にも見られなかった特徴から「一茶調」と呼ばれています。身近でわかりやすい言葉づかいも、一茶の魅力を伝える役に立っています。

しかし、一茶の人生は、一茶によって詠まれた俳句とは裏腹に、苦労の多いものでした。苦しみを背負い続けたと言っても良いくらいです。母や祖母、父といった身近な親族が相次いで亡くなり、義弟との間で遺産相続争いを繰り広げ、最愛の妻子まで亡くし、死の直前にも火事で家を失いました。

そんな一茶が、力弱くとも懸命に生きる動物たちに眼差しを向けて詠んだ俳句は、読むものに深い感動を与えてくれます。

今回は、そんな一茶の俳句に、いまなお魅了されつづけ、一茶の句集を愛読書にしている私が、一茶の苦難の人生とその中で詠まれた俳句についてご紹介します。

小林一茶の来歴は?

名前小林弥太郎
俳号小林一茶(他にい橋、菊明、亜堂など)
誕生日1763年(宝暦13年)5月5日
没日1828年(文政10年)1月5日
生地信濃国柏原
没地信濃国柏原
父親小林弥五兵衛
母親くに、はつ(継母)
配偶者菊(1814年─1823年)
雪(1824年─1824年)
やを(1826年─1828年)
兄弟仙六(義弟)
埋葬場所俳諧寺(上水内郡信濃町柏原)

小林一茶の生まれは?

小林一茶は、北信濃を通る北国街道沿いの宿場町・柏原(信濃国)に生まれました。小林家(本家)は、柏原においては有力な農民の家系であり、一茶誕生当時の小林家もそこに連なる分家として、中級の自作農をしていました。

善光寺にほど近い柏原の地は、浄土真宗の地盤でもあり、一茶の精神面に大きな影響を与えています。また、宿場に近い生育環境で常に人や荷馬が移動するさまを見ていたためか、一茶自身もその生涯の大半を歩き続けました。

もともとの暮らしぶりは安定しており、幼少期のこうした暮らしが、のちの俳諧をはじめとする猛勉強を支える下地としてあったものと考えられます。

松尾芭蕉との関係は?

小林一茶は、文化文政期(1804年-1830年)に活躍をしており、元禄文化(1688年-1704年)に活躍した松尾芭蕉とは、活動時期が大きく異なっています。しかし、まったく無関係というわけではなく、一茶が属した葛飾派は山口素堂を祖としていました。

素堂は、芭蕉の友人であり、蕉風俳諧の成立に大きく貢献したことで知られています。つまり一茶は、少なくとも形式的には、蕉門俳諧を学んだのでした。

一茶の時代、芭蕉はすでに「俳聖」として俳人から尊崇をあつめる存在であり、寛政5年(1793年)には芭蕉百回忌にあたっていたことから、全国的な俳諧ブームが起こっていました。

一茶も若いころには芭蕉の作風を意識した句を詠んでいます。しかし、そこに安住することなく、あらたに「一茶調」へと作風の飛躍に挑みました。一茶が今日、芭蕉や蕪村と比肩する俳人として名を遺したのは、芭蕉を「超えるべき壁」と見て新境地を切り開いたためと考えられます。

小林一茶の性格は?

よく言えば機転が効き、まめで一途な性格ですが、反面独善的で執念深い一面もあわせ持っていたようです。そのことを如実に物語るのは、やはり義弟との遺産相続争いでしょう。

ながく故郷・柏原を離れていた一茶にとって、もとよりこの争いは分が悪いものでした。一茶自身そのことはよく心得ていて、だからこそ味方が必要であることを感じていました。

故郷・柏原の宿場機能問題で江戸における訴訟があった際、当時江戸住みだった一茶は労を厭わず協力しています。これは柏原の有力者と懇意になる絶好の機会でした。

一茶の目論見どおり、遺産相続争いでは一茶に追風が吹いたと思しき展開があります。地元有力者の介入もあり、主張どおり均分相続となった上、満額でないにせよ金子まで勝ち取っています。

小林一茶の故郷は?

故郷は北信濃の柏原という北国街道沿いの宿場町です。北国街道は、江戸幕府によって整備された街道で、五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)につぐ街道であることから、脇街道と呼ばれています。北国街道の役割は大きく二つあり、一つが善光寺参詣、もう一つが佐渡ヶ島から産出する金の輸送でした。

江戸方面から向かう場合、追分駅(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)まで中山道をたどり、そこから小諸城下、上田城下、善光寺などを経て柏原へ入ることになります。北国街道という名からもイメージされるとおり、冬季は降雪が多く、一茶の句にも

雪とけて村いっぱいの子どもかな

の句のように、たびたびその光景が詠まれています。

小林一茶の死因は?

1828年、一茶は65歳の生涯を閉じました。この死因については中風の発作であるとされています。中風とは、現代でいう脳血管障害つまり「脳卒中とその後遺症」の総称です。一茶は1820年に雪道で転んで中風を発症して以降、何度もこの中風発作を繰り返しています。

その結果、手足の痺れや麻痺が残り、最晩年には言語障害もあったと言われています。また、病気によるものか、後遺症のもどかしさゆえか、晩年の一茶に対して「言葉が聞き取りにくく、怒りっぽい」との門人の不満が記録に残されています。それでも一茶は、俳諧師として北信濃の門人宅を周り指導を続けていました。一茶の、俳諧に懸ける執念を感じます。

小林一茶は一体何がすごいのか?

すごさ1「生涯2万句を遺した言葉への執念」

小林一茶は生涯に2万句を詠んだと言われています。これは、松尾芭蕉が1000句、与謝蕪村が3000句であることと比較しても桁違いの数字です。ただ、その分、出来栄えの良くない句が多いとも言われています。

ひとつには、一茶の俳句の詠み方に理由があると考えられています。2万句の中には、相互に類似した句が多くあります。例えば次のような句です。

あの月をとってくれろと泣子哉

名月をとってくれろと泣子哉

明月をとってくれろと泣子哉

名月でもあの月でも、或いは明月であっても、指し示すものは変わりません。秋の月をさすわけですね。ただ名月といえば、満月つまり中秋の名月をさすものと感じられます。

一茶がたくさんの句を残したのは、このようにバリエーションをたくさん作ったからだと言えます。それはよく言われるように、言葉が擦り切れるまで句を見直し続けた一茶の執念の現れなのでしょう。

すごさ2.「一茶調と呼ばれるほどに独自の俳風を確立したこと」

一茶の俳諧の世界観は独特で、それ故に「一茶調」と呼ばれています。これだけ多くの人を魅了する一茶調ですが、ふしぎとそれを継承しようという俳人が現れなかったため、一茶の一代限りとなりました。

しかし、平易なことばで、力弱き生き物を詠いあげる一茶調は、やはり一茶でなければなし得なかったものです。信州の雄大な自然。厳冬期の雪深い故郷とそれゆえに訪れる春、夏、秋への愛おしさ。その中を懸命に生きる虫や動物たち。

翻って考えれば、小さな命に心を寄せるほど、一茶はいつも寂しかったのではないでしょうか。ともあれ、「芭蕉追従こそ良し」とされていたこの時代に、一茶調と呼ばれる境地に至ったことは、特筆すべき一茶の功績だと言えます。

小林一茶の代表作品と言える俳句

やせ蛙負けるな一茶ここにあり

季語

蛙ー春

補足

相撲でもしているのか、痩せ蛙を応援している一茶です。まるで鳥獣戯画のような世界観を感じます。

我と来て遊べや親のない雀

季語

雀-春

補足

親のない孤独な雀に「遊ぼう」と声をかけています。親元を遠く離れた江戸でのくるしい奉公生活を振り返っているようです。

青梅に手をかけて寝る蛙かな

季語

青梅-夏

補足

蛙が寝ているのですが、その寝姿が面白く、青梅に手をかけながら寝ているよ、というのです。剽軽な蛙とそれを見つめる一茶の表情まで浮かんできそうな句です。

寝せつけし子のせんたくや夏の月

季語

夏の月-夏

補足

子どもを寝かしつけたその夜、その子の服を洗っているというのです。熱帯夜であれば、家屋の中の子どもは腹をだして寝ているかもしれませんね。

名月をとつてくれろと泣子かな

季語

月-秋

補足

名月つまり満月を指して「とってくれろ」と泣いている…泣いているのですから、子を背に負っているのかもしれません。まるで影絵のような世界を感じます。

夕日影町一ぱいのとんぼかな

季語

とんぼ-秋

補足

柿色の夕日に染まる町をとんぼが埋め尽くしている、といった景色を詠んでいます。一茶は、誰とそれを見ているのでしょう。

これがまあ終のすみかか雪五尺

季語

雪-冬

補足

終のすみか、つまり残りの生涯を送るその家は、五尺(約150cm)の雪に囲まれているというのです。しかし、なんと言っても「これがまあ」が一茶らしさを醸し出しています。

猫の子がちよいと押へるおち葉かな

季語

おち葉-冬

補足

おち葉を子猫が手で押さえたという光景を詠んでいます。猫はよく動くものを手で押さえようとしますよね。ここでも「ちよいと」に一茶らしさが出ています。

ともかくもあなたまかせの年の暮れ

季語

年の暮れ-冬

補足

「あなたまかせ」の「あなた」とは他人ではなく、阿弥陀如来をさしています。一茶は浄土真宗の門徒であり、死の直前も念仏を唱えたと言われています。

目出度さもちう位也おらが春

季語

春ー春

補足

代表作『おらが春』より。めでたさも中くらいだよ、と言っているところが一茶の茶目っ気です。変に誇張せず肩張らない、いつもどおりの春を迎えたという気分が出ています。

小林一茶の名言は?

金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である。

他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貪欲、恐るべきは奢り。

小林一茶にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「不幸の塊?慟哭の一茶」

一茶の人生は「不幸の塊」とも言われるほどに、不幸続きでした。まず、3歳で母親を亡くします。ここから怒涛の不幸がはじまります。

8歳のとき、父は後妻(一茶の継母)を娶りますが、勝気な性格で一茶とは合わず、祖母が一茶の養育にあたったと言われています。その後14歳で祖母を亡くしました。さらに39歳で父を亡くします。

52歳のとき一茶は菊という女性と結婚し、都合四人の子供を授かりますが、54歳で生まれて間もない長男・千太郎を亡くし、57歳で長女・さとを亡くし、58歳で次男・石太郎を亡くし、さらに61歳のときに妻と三男・金三郎を亡くします。

この他に病気(皮膚病や中風発作)があり、65歳で亡くなる半年前には火事で家屋敷まで亡くしています。世に不幸話は数多くあれど、ここまで不幸を集めてしまった一茶の人生は特異というほかなく、まさに慟哭につぐ慟哭だったことでしょう。

都市伝説・武勇伝2「絶倫の塊?愛欲の一茶」

一茶の人並外れた特異点が、その性欲です。一茶は筆まめで、妻との性交渉の回数まで記録していました。一茶の時代の平均寿命や栄養状態に鑑みても、類まれな特質(体質)だったと見ることができます。

ひとつには、やはり一茶の生い立ちとその後の人生における不幸が背景にあるとの見方があります。家族に囲まれて育まれる中で受けるべきであった愛情の欠落と、長い遺産相続争いにより遅れた婚期。思うようにならぬ人生の鬱屈が、一茶をして愛欲に駆り立てさせたと考えられます。

もちろん、先天的な一茶の個性であったり、一茶自身つとめて「あるがまま」をもとめていたような節もあります。俳諧においても一茶には飾ったところが少なく、寂寥や欲望に忠実であろうとする人間臭さを強く感じます。

小林一茶の生涯歴史年表

1763年 - 0歳
一茶、誕生

信濃国柏原に生を受ける

1763年(宝暦13年)、小林一茶は父・小林弥五兵衛、母・くにの長男として、信濃国柏原(現在の長野県上水内郡信濃町柏原)に誕生しました。一茶はのちの俳号で、本名は弥太郎と名づけられました。

母の死

1766年(宝暦16年)、一茶の母・くにが病死します。一茶は、父と祖母・かなとの暮らしになりました。以後、一茶の養育はかなが受けもつようになります。

1770年(明和7年)、一茶の継母・はつが嫁いできます。翌年には義弟・弥兵衛が誕生します。はつと一茶とはもともと性格が合わず、弟の誕生によってその確執はさらに激しいものとなってしまいます。

1776年 - 14歳
祖母の死、その後一茶は江戸へ

祖母・かなの死

1776年(安永5年)、一茶の祖母・かなが亡くなります。一茶の味方がいなくなったことで、継母の一茶への風当たりはさらに強まります。

父・弥五兵衛は、これをみて一茶を江戸に奉公に出すことを決めます。継母と一茶とを引き離すことで、目の前の危機を脱しようと考えたのでしょう。

翌1777年、一茶は江戸での暮らしを開始します。その生活は、よく分かってはいません。10年ほどにわたり、一茶のの消息が途絶えるためです。寺院、医者、商家あるいは書家の伝手とさまざまに推測があります。

しかし、何より重要なことは、その江戸での生活の中で、一茶が「俳諧」との出会いを果たしていたことにあります。宗匠の執筆役などをつとめながら、江戸から上総、下総、安房に地盤を有する葛飾派に属したことが分かっています。


1787年 - 25歳
最初期の一茶作品現る

1787年(天明7年)、一茶の最初期の作品が現れます。翌年には、葛飾派の宗匠である二六庵竹阿に師事するようになり、本格的に俳諧の道を歩み始めます。

1789年(寛政元年)には、奥州を旅して「奥州紀行」を著したとされています。物証は乏しいものの(象潟を訪れた記録があります)、この時代の俳諧宗匠に必須とされた奥羽旅行をしたわけで、すでに一茶が俳諧宗匠への道を歩んでいることがわかります。

師・二六庵竹阿の死と帰郷、そして修行の旅へ

1790年には、一茶の師匠であった二六庵竹阿が亡くなります。翌年、一茶は、14年ぶりに柏原に里帰りをしました。

1792年(寛政4年)には、下総から安房を巡回した後、西国行脚の旅にでました。ここから足掛け7年にわたり京阪、四国、九州の各地へと足を運んでいます。浦賀、伊東、遠江を経て京に入り、前年の帰郷の際父から頼まれた西本願寺へ代参りをしました。

さらに大坂、淡路島を経て四国に入ると、讃岐(現在の香川県)観音寺を拠点としつつ、伊予から九州へと足を伸ばします。1973年(寛政5年)を九州周遊に充てた一茶は、1974年に山口から四国の讃岐観音寺に入り、年を越しています。

1795年(寛政7年)は、伊予(現在の愛媛県)松山で、酒造業を営み俳人としても著名な栗田樗堂を訪ねています。その後大坂に戻り摂津、河内、大和、播磨などを周りました。また、同年ここまでの旅の記録を『たびしうゐ(旅拾遺)』という本にまとめ著しています。

1796年(寛政8年)、伊予の栗田樗堂宅を拠点に伊予各地を周遊し、翌年は備後、高松、小豆島、近江と周り、大和(現在の奈良県)長谷寺で年を越します。

1798年(寛政10年)、近畿地方を周ったのち、一茶は江戸に向かいました。柏原へ立ち寄り、江戸へ入っています。この長い旅の仕上げとして『さらば笠』を著しました。

1800年(寛政12年)には、この旅の成果が認められたのか、師匠の庵号であった「二六庵」を名乗ることを許されています。

1801年 - 39歳
父の死

1801年(享和元年)、3月一茶は柏原に里帰りをしています。その直後、4月に一茶の父・弥五兵衛が病に倒れました。

一茶は柏原に留まり、父の看護にあたりました。しかし、病勢は変わることなく、父の弥五兵衛は6月に他界します。一茶は、父の死に接しての思いと俳諧を『父の終焉日記』にまとめて著しました。

一茶の理解者であった父の逝去は、継母・義弟と一茶との遺産相続争いのはじまりでもありました。ちなみに、この時代の柏原地区の慣習では兄弟による均分相続が一般的で、父・弥五兵衛もその旨の遺言を残しています。

しかし、継母・義弟にしてみれば、長く家を不在にしていた一茶にかわり農作業や家事雑事に勤しんだのは自分たちだとの思いもあったようです。実際に継母と義弟のはたらきにより、小林家の財産は増えていました。結果、この遺産相続争いは長期化してしまうことになります。

なお、俳諧でも一茶の身辺に動きがあり、一茶はこの年限りで「二六庵」の呼称を使うことができなくなりました。これは、葛飾派内での人間関係の摩擦によるものと言われています。

1804年 - 42歳
俳諧宗匠としての基盤構築

『文化句帳』と「一茶園月並」

1804年(文化元年)、一茶は『文化句帳』を著しています。また「一茶園月並」を主宰します。

俳諧宗匠としての基盤づくり、とりわけ生計を安定させるための苦闘が続いていました。当時の俳諧宗匠の収入源は、宗匠が各地を巡回して指導にあたる方法と、月並句会を開き発句を募集する方法とがありました。

この「一茶園月並」は、一茶の事務負担が大きかったこともあり一年余りで頓挫してしまいます。

葛飾派を離れる

同じ年、二六庵の庵号問題が尾を引いたのか、一茶はそれまで属した「葛飾派」から離れ、知己である俳人・夏目成美の派に属しその庇護を受けました。

あわせて住まいも、それまで住んでいた江東区大島から墨田区緑の貸家に転居しています。

1808年 - 46歳
遺産相続問題の一応の決着

取極一札之事

1808年(文化5年)、祖母の33回忌法要のため帰郷した一茶は、遺産相続問題について交渉し「取極一札之事」を交わしました。これにより正式に田畑、山林、家屋敷の半分の権利が一茶のものと認められることになったのです。ただし、このときの交渉でも最終的な解決には至りませんでした。

この年の12月、遺産相続交渉で江戸の貸家を200日あまり空けていたため、大家が別人に家を貸し渡してしまい、一茶は家を失うという珍事が起きました。

「一茶社中」へ向けた準備

翌1809年(文化6年)も4月に帰郷し、長野、豊野、中野、小布施などを巡回します。北信濃一帯に起こりつつあった俳諧ブームに乗じ、愛好家への指導で生計を立てようとする一茶の計画でした。この時期の一茶の活発な運動は、あたかも武田信玄や上杉謙信が北信州で覇をきそったような緊張感に満ちていました。

一茶は、義弟に対する遺産相続の交渉の傍ら、いわゆる「一茶社中」を築く準備を行ないます。それは故郷に定住しようとする、一茶の決意の表れでもありました。

なお、この年から「宗門人別帳」に戸主として記載されたほか、年貢も課されるようになりました。それまでは義弟の(扶養)家族扱いとなっていたようです。

『七番日記』を開始

1810年(文化7年)に、一茶は『七番日記』というタイトルで日記を書きはじめます。文章と句によって構成されるこの日記は1818年(文政元年)まで続いています。代表作『おらが春』と並ぶ、一茶の代表作品とされている『七番日記』には、妻を抱いた回数まで記録されており、史上希にみる赤裸々な日記となっています。

1813年 - 51歳
遺産相続問題の最終解決と結婚

「熟談書附之事」

1813年(文化10年)、父の13回忌のため前年末に帰郷した一茶は、借家を借り故郷定住の意思を表示します。

交渉は、父の死去後、一茶が相続すべき田畑からの収益を義弟が手に入れていたことについてでした。結果として、小林家の菩提寺である明専寺の住職が調停役となり11両2分(一茶の要求は30両)を義弟が支払うことで決着しました。

一茶は、相続した耕作地における農業を小作人にあたらせる一方、北信濃に点在する「一茶社中」の門人を巡回指導して生活基盤の安定化に努めています。

尻の腫物のため寝込む

この年の6月、一茶は尻に腫物ができ、善光寺町の門人宅で寝込んでしまいます。驚いた門人たちが駆けつけ、義弟まで見舞いに来るほどでした。75日にわたり病臥を余儀なくされた一茶。その後も皮膚病を患っており、梅毒に罹患していたとの説もあります。

結婚

翌1814年(文化11年)は、一茶の生活が一変した年になりました。ひとつは、義弟と二分した実家での暮らしを始めたことです。もう一つが、一茶の結婚でした。実家の分割を行ったのは、結婚が本決まりになり生活の場が必要になったためと言われています。

相手は、野尻宿の常田菊(1787年ー1823年)でした。年齢は28歳で、51歳の一茶とはまさに「親子ほど」年の離れた夫婦です。菊は生真面目な性格だったのか、一茶の身の回りを助けるだけでなく、義弟や継母にはじまり近所付き合いに至るまでをこなしています。

1816年 - 54歳
長男誕生

長男・千太郎の出生と死

1816年(文化13年)、一茶と菊の夫婦に待望の長男が誕生しました。しかし、体質が虚弱で発育に問題があり、千太郎は生後わずか28日で亡くなってしまいます。

1818年 - 56歳
長女誕生

長女・さとの出生と死と「おらが春」

1818年(文政元年)、一茶は改めて長女を授かります。さとと名付けられたのは「聡い子」に育ってほしいとの願いからだったと言われています。

しかし、そうした一茶と菊の願いも虚しく、さとは翌年5月に天然痘にかかり、6月に亡くなってしまいます。1歳になったばかりのことでした。一茶は、さとの誕生から死に至るまで詠んだ句と文章とを、一茶の代表作でもある『おらが春』という作品にまとめています。

1820年 - 58歳
次男の誕生と死

次男・石太郎の誕生と死

1820年(文政3年)10月、一茶は次男・石太郎を授かりました。石太郎という名前は、石のように強い子であってほしいという願いが込められていたようです。しかし、翌年1月、石太郎もまた世を去ってしまいました。母・菊の背に負われたまま窒息死してしまったりと伝えられています。

1822年 - 60歳
三男の誕生と妻の死、そして三男の死

1822年(文政5年)の一茶は、『まん六の春』『文政句帳』の執筆に取り組んでいます。

三男・金太郎の誕生と妻・菊の死

1822年(文政5年)、一茶は三男・金太郎を授かりました。今度こそ、の想いがあったのでしょう。「石よりも強い金」という命名には鬼気迫るものさえ感じられます。しかし、今度は妻・菊が健康を損ないました。産後の肥立ちが悪く、翌年の5月に亡くなってしまうのです。

三男・金太郎の死

同じ年の12月、今度は三男の金太郎が亡くなってしまいます。1816年で長男・千太郎を授かって以降、わずか6年間で、一茶はじつに3人の男の子と1人の女の子、そして妻まで亡くしてしまったのです。また、この間、一茶は一茶で体調不良が続いていました。ヒゼンという皮膚病にかかり、またそれとは別に中風の発作を繰り返していました。身体的障害に加え、ときに言語障害まで起こす中風に苦しめられています。

1824年 - 62歳
再婚と離婚

二度目の妻、ゆき

1824年(文政7年)5月、一茶は再婚を果たします。相手は飯山藩士の娘で田中雪といい、38歳の若さでした。しかし、武家から農家に嫁いできた雪は、慣れない農家の嫁としての暮らしに加え、俳諧師として家に寄り付かない夫との暮らしが心細かったのでしょう。結婚生活は3か月ほどで破綻し、8月には離婚することになってしまいました。

1826年 - 64歳
三度目の結婚と柏原大火

三度目の妻、やを

1826年(文政9年)、一茶は三度目の結婚を果たします。相手はやをという32歳の女性でした。やをには私生児の男児・倉吉がいました。ようやく跡継ぎもでき、一茶の生活に平穏が訪れたかにみえました。

1827年 - 65歳
自宅焼失と一茶の最後

一茶の自宅が焼失する

1827年(文政10年)7月、柏原に大火があり、柏原宿の8割が焼失する大火がありました。この時の大火災で一茶の屋敷も失われてしまいます。一茶は、かろうじて焼失を免れた土蔵に入り、ここで過ごすことになりました。

一茶、逝く

同年12月末、俳諧指導から柏原に帰宅した一茶は、自宅の土蔵に入りました。1月5日、気分がすぐれず寝ていた一茶は、同日夕に息を引き取ります。一茶は、明専寺にある先祖代々の墓に埋葬されました。なお、一茶が亡くなったとき、やをは一茶の子供を身ごもっていました。春に誕生した女児は「やた」と名づけられて成人し、一茶の子孫を遺しています。むろん、一茶はそのことを夢にも思わなかったことでしょう。


小林一茶の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

一茶俳句集 (岩波文庫)

一茶の俳句を、詠まれた年代順に整序してまとめた書籍です。一茶の俳句をひと通り読むのに最適な一冊です。注釈は最小限ではありますが、素材の良さを味わうように読むには十分です。

ひねくれ一茶 (講談社文庫)

一茶を主人公にした小説です。作者は田辺聖子。物語の展開は、ややドラマチックな感じもありますが、信州のことばで会話が繰り広げられており、臨場感を味わうことができます。

小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)

古典文学のビギナー向けシリーズで、一茶の作品世界についてわかりやすく書かれています。逆境にあっても懸命に生き抜き、悲しみも苦しみも俳諧に昇華させた一茶の生き様を体感できます。

おすすめの動画

【しあわせ信州】 一茶これにあり~ふるさと北信濃をめぐる~ 【投稿作品】

小林一茶の故郷である信濃町をはじめ、中野市、山ノ内町、小布施町、高山村といった北信濃の観光情報を紹介する動画です。一茶ゆかりの地の情報も多くあり、北信濃の雄大な自然と文化に興味が湧きます。

『ちば見聞録』#015「一茶と双樹」(2014.7.12)【チバテレ公式】

一茶の江戸滞在当時、親交の深かった流山の秋元双樹との関係を皮切りに、当時の一茶の消息を辿る動画です。考証とともに紹介される一茶の句が興味深いです。

関連外部リンク

小林一茶についてのまとめ

今回は、小林一茶の人生について、彼の年表を通して追体験しつつ、掘り下げてご紹介しました。

一茶は、小さな命を素材に俳諧を詠んだイメージがあまりに強く、それだけに好々爺然とした一茶像が一般的ですが、実際はかなり違うと感じます。

例えば遺産問題や北信濃における一茶社中構築など、川中島合戦を彷彿するような、大胆な戦略と緻密な戦術を見せており、軍記物の一軍師のような素顔さえ垣間見えます。ぜひ、そうした視点で、もう一度一茶の作品に触れてみてください。

この記事をきっかけに、一茶の作品に共感される方が増えてくれたら、嬉しいです!