「カール大帝ってどんな人?」
「カール大帝の子孫はどうなったの?」
「カール大帝の名言はある?」
この記事にたどり着いた人は、このような疑問を持っているかもしれませんか?
カール大帝とは、8世紀後半から9世紀前半にかけて西ヨーロッパに生きた人物です。フランク王国の国王だったカール大帝(フランス語でシャルルマーニュ)はヨーロッパ各地での戦いに勝利し領土を拡大、ついには西ヨーロッパの中心地域を統一しました。
また、武力で西ヨーロッパを統一しただけではなく、外敵の侵入からヨーロッパを守り、ローマ教皇を中心とするキリスト教信仰を守り通します。そればかりではなく、古典文化の復興にも力を注ぎ、「カロリング・ルネサンス」をおこしました。
今回は、西ヨーロッパの土台を作り上げ、大帝とよばれたカール大帝の生涯や伝説についてまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
カール大帝とはどんな人物か
名前 | カール1世 |
---|---|
誕生日 | 742年4月2日 |
没日 | 814年1月28日 |
生地 | エルスタル(現ベルギー領) |
没地 | アーヘン |
配偶者 | ヒルデガルド |
埋葬場所 | アーヘン大聖堂 |
カール大帝の生涯をハイライト
カール大帝は742年にピピン3世の子として生まれました。ピピン3世はフランク王国のナンバー2の宮宰でしたが、メロヴィング王家を倒し、カロリング朝を開いた人物です。
ところが、彼の出生に関して、詳しいことはわかっていません。カール大帝に仕え『カール大帝伝』を著したアインハルトも、カールの出生については公表されておらず、今となってはわからないと記しています。
ピピン3世の死後、フランク王となったカール大帝は周辺諸国との戦争に明け暮れます。彼の治世は46年ですが、その間に53回もの遠征を実行しました。まさに、席が温まる余裕がないほど戦いを繰り返したといってよいでしょう。
また、彼は征服した土地に「伯」を置き、広大な領土を分割して統治させます。そして王国各地を巡回し続け、常にフランク王国の平和と統一の維持に努めます。
800年、ローマ教皇レオ3世は西ヨーロッパを統一したカール大帝の功績をたたえ、ローマ帝国皇帝の冠を授けます。これにより、カール大帝は西ヨーロッパ世界の守護者と考えられるようになりました。
そして814年、カール大帝は宮廷を置いていたアーヘンで亡くなります、彼の死後、王国はルートヴィヒ1世が相続します。ルートヴィヒ1世の死後、フランク王国は3つに分断されました。
フランク王になった経緯とは?
カールがフランク王になったのはフランク王ピピン3世の子供の一人だったからです。ピピン3世には3人の男子がいました。
そのうち、ピピン3世の領土を引き継いだのはカール大帝と弟のカールマンです。768年にピピン3世が死去すると、フランク王国の相続法に従い、領地が二分されました。
ピピン3世の残した領土のうち、アウストラシアとネウストリア(フランス北部・東部、ドイツ西部・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ)はカール大帝が、ブルグンドやプロヴァンス、ラングドック(フランス南部、スイス)はカールマンが相続しました。
しかし、771年にカールマンがランスで死去すると、カールマンの妃であるゲルベルガはランゴバルド王国に亡命してしまいます。そのため、カールマンの遺領はカール大帝が相続しました。これにより、彼はフランク王国全土を支配する王となります。
カールはなぜ、大帝と呼ばれたのか?
ところで、カールはなぜ「カール大帝」と呼ばれるのでしょうか。その理由は、偉大な業績を上げたからです。歴史上、「大帝」の称号付きで呼ばれるのは軍事的な成功者や国内政治で偉大な業績を上げた君主です。場合によっては、宗教上の重要人物も大帝とよばれます。
例えば、古代ローマ帝国のコンスタンティヌスは、帝国内の内乱に勝利しキリスト教を公認したことでコンスタンティヌス大帝とよばれました。
彼の場合もコンスタンティヌス大帝に似ています。軍事的にはランゴバルド王国やイスラム勢力、ザクセン人、アヴァール人などに勝利し西ヨーロッパの統一を回復しました。
さらに、宗教面ではローマ教皇の窮地を救いました。こうした軍事上・宗教上の功績もあって、カールは「大帝」とよばれるようになったのです。
絶えずフランク王国内を移動し続けたって本当?
カール大帝は1カ所にとどまり続けず、常に移動していました。彼の宮廷はドイツ西部のアーヘンに置かれます。しかし、ドイツ西部のインゲルハイムやオランダのナイメーヘンにも宮廷を築きました。それだけではなく、カール自身も王国内を移動し続けます。
移動の理由は二つあります。一つは、周辺諸国と絶え間なく戦争を繰り返していたからです。平均すると1年に1回以上戦争をしていたカール大帝は、宮廷にとどまり続けることなど不可能だったでしょう。
もう一つの理由は地方を支配する「伯」との関係を深めるためです。交通が未発達で、ややもすれば独立傾向を示しやすい地方の伯や住民たちに自分の姿を見せることで、その地域がフランク王国の支配下にあることを示したかったのでしょう。
墓所があるアーヘン大聖堂は世界遺産第一号
アーヘン大聖堂は1978年に他の11の遺跡と共に世界遺産第一号となりました。この建物が世界遺産に登録された理由は、アーヘン大聖堂の中にカール大帝の墓所があることと、この大聖堂でで600年にわたり神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われたからでした。
それに加え、アーヘン大聖堂は786年にカール大帝の命令で建築が始まった古い教会です。これは、現在の北ヨーロッパに残る大聖堂としては最も古いもので、アーヘン大聖堂が建てられた当初はアルプス以北で最大のドーム建築でした。
さらに、アーヘン大聖堂は内部の壮麗な装飾で有名です。大聖堂内の黄金のモザイクで飾られた空間は見るものを圧倒し、カール大帝の威厳に思いをはせることでしょう。