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カール大帝とはどんな人?ヨーロッパの父と言われた理由は?【生涯まとめ】

「カール大帝ってどんな人?」
「カール大帝の子孫はどうなったの?」
「カール大帝の名言はある?」

この記事にたどり着いた人は、このような疑問を持っているかもしれませんか?

カール大帝とは、8世紀後半から9世紀前半にかけて西ヨーロッパに生きた人物です。フランク王国の国王だったカール大帝(フランス語でシャルルマーニュ)はヨーロッパ各地での戦いに勝利し領土を拡大、ついには西ヨーロッパの中心地域を統一しました。

また、武力で西ヨーロッパを統一しただけではなく、外敵の侵入からヨーロッパを守り、ローマ教皇を中心とするキリスト教信仰を守り通します。そればかりではなく、古典文化の復興にも力を注ぎ、「カロリング・ルネサンス」をおこしました。

今回は、西ヨーロッパの土台を作り上げ、大帝とよばれたカール大帝の生涯や伝説についてまとめます。

カール大帝とはどんな人物か

名前カール1世
誕生日742年4月2日
没日814年1月28日
生地エルスタル(現ベルギー領)
没地アーヘン
配偶者ヒルデガルド
埋葬場所アーヘン大聖堂

カール大帝の生涯をハイライト

カロリング朝を開いたピピン3世

カール大帝は742年にピピン3世の子として生まれました。ピピン3世はフランク王国のナンバー2の宮宰でしたが、メロヴィング王家を倒し、カロリング朝を開いた人物です。

ところが、彼の出生に関して、詳しいことはわかっていません。カール大帝に仕え『カール大帝伝』を著したアインハルトも、カールの出生については公表されておらず、今となってはわからないと記しています。

『ローランの歌』の挿絵に描かれたカール大帝

ピピン3世の死後、フランク王となったカール大帝は周辺諸国との戦争に明け暮れます。彼の治世は46年ですが、その間に53回もの遠征を実行しました。まさに、席が温まる余裕がないほど戦いを繰り返したといってよいでしょう。

また、彼は征服した土地に「伯」を置き、広大な領土を分割して統治させます。そして王国各地を巡回し続け、常にフランク王国の平和と統一の維持に努めます。

800年、ローマ教皇レオ3世は西ヨーロッパを統一したカール大帝の功績をたたえ、ローマ帝国皇帝の冠を授けます。これにより、カール大帝は西ヨーロッパ世界の守護者と考えられるようになりました。

そして814年、カール大帝は宮廷を置いていたアーヘンで亡くなります、彼の死後、王国はルートヴィヒ1世が相続します。ルートヴィヒ1世の死後、フランク王国は3つに分断されました。

フランク王になった経緯とは?

カールがフランク王になったのはフランク王ピピン3世の子供の一人だったからです。ピピン3世には3人の男子がいました。

そのうち、ピピン3世の領土を引き継いだのはカール大帝と弟のカールマンです。768年にピピン3世が死去すると、フランク王国の相続法に従い、領地が二分されました。

フランク王国によって支配された地方

ピピン3世の残した領土のうち、アウストラシアとネウストリア(フランス北部・東部、ドイツ西部・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ)はカール大帝が、ブルグンドやプロヴァンス、ラングドック(フランス南部、スイス)はカールマンが相続しました。

しかし、771年にカールマンがランスで死去すると、カールマンの妃であるゲルベルガはランゴバルド王国に亡命してしまいます。そのため、カールマンの遺領はカール大帝が相続しました。これにより、彼はフランク王国全土を支配する王となります。

カールはなぜ、大帝と呼ばれたのか?

ところで、カールはなぜ「カール大帝」と呼ばれるのでしょうか。その理由は、偉大な業績を上げたからです。歴史上、「大帝」の称号付きで呼ばれるのは軍事的な成功者や国内政治で偉大な業績を上げた君主です。場合によっては、宗教上の重要人物も大帝とよばれます。

例えば、古代ローマ帝国のコンスタンティヌスは、帝国内の内乱に勝利しキリスト教を公認したことでコンスタンティヌス大帝とよばれました。

ローマ教皇ハドリアヌス1世のもとを訪れるカール大帝

彼の場合もコンスタンティヌス大帝に似ています。軍事的にはランゴバルド王国やイスラム勢力、ザクセン人、アヴァール人などに勝利し西ヨーロッパの統一を回復しました。

さらに、宗教面ではローマ教皇の窮地を救いました。こうした軍事上・宗教上の功績もあって、カールは「大帝」とよばれるようになったのです。

絶えずフランク王国内を移動し続けたって本当?

カール大帝の騎馬像

カール大帝は1カ所にとどまり続けず、常に移動していました。彼の宮廷はドイツ西部のアーヘンに置かれます。しかし、ドイツ西部のインゲルハイムやオランダのナイメーヘンにも宮廷を築きました。それだけではなく、カール自身も王国内を移動し続けます。

移動の理由は二つあります。一つは、周辺諸国と絶え間なく戦争を繰り返していたからです。平均すると1年に1回以上戦争をしていたカール大帝は、宮廷にとどまり続けることなど不可能だったでしょう。

もう一つの理由は地方を支配する「伯」との関係を深めるためです。交通が未発達で、ややもすれば独立傾向を示しやすい地方の伯や住民たちに自分の姿を見せることで、その地域がフランク王国の支配下にあることを示したかったのでしょう。

墓所があるアーヘン大聖堂は世界遺産第一号

アーヘン大聖堂

アーヘン大聖堂は1978年に他の11の遺跡と共に世界遺産第一号となりました。この建物が世界遺産に登録された理由は、アーヘン大聖堂の中にカール大帝の墓所があることと、この大聖堂でで600年にわたり神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われたからでした。

それに加え、アーヘン大聖堂は786年にカール大帝の命令で建築が始まった古い教会です。これは、現在の北ヨーロッパに残る大聖堂としては最も古いもので、アーヘン大聖堂が建てられた当初はアルプス以北で最大のドーム建築でした。

アーヘン大聖堂の内部

さらに、アーヘン大聖堂は内部の壮麗な装飾で有名です。大聖堂内の黄金のモザイクで飾られた空間は見るものを圧倒し、カール大帝の威厳に思いをはせることでしょう。

カール大帝の功績

功績1「異民族やイスラム教徒を攻撃」

広大な領土を支配したカール大帝は異民族やイスラム教徒と戦い続けた人物としても知られています。ピピン3世の没後にフランクの王となったカール大帝はドイツ西部に住むザクセン人を征服します。それにより、ザクセン人はキリスト教を受け入れました。

また、778年にはイスラム教徒に征服されていたイベリア半島に遠征します。ところが、イベリア半島から帰還する途中にカール大帝の軍はバスク人の襲撃を受けて大損害を出してしまいます。

アヴァール人が根拠地としていたハンガリーの大平原

さらに、彼は現在のハンガリーにあたるパンノニア平原を根拠地としたアジア系のアヴァール人と戦い、大打撃を与えることに成功します。こうして、カール大帝の領土は西ヨーロッパ全体に及びました。

功績2「西ローマ皇帝として戴冠」

西ローマ皇帝の帝冠を受けるカール大帝

ローマ教皇レオ3世はカール大帝が持つ強大な武力に目を付けました。この時代、キリスト教会はローマ教皇を中心とする西方教会と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を中心とする東方教会に分かれていたのです。

東方教会のトップであるコンスタンティノープル大主教は東ローマ皇帝の力を背景にしていました。その一方、ローマ教皇には自分の後ろ盾になってくれる君主がいません。そのため、ローマ教皇は軍事力で東方教会や異民族、異端に対抗することができませんでした。

だからこそ、ローマ教皇はカール大帝を西ローマ皇帝にし、彼の後ろ盾を得て東方教会や異民族、異端に対抗しようとしました。カール大帝にしても、宗教のトップであるローマ教皇と手を組むことは、支配の正当性をアピールするうえで大きなメリットがありました。

後ろ盾が欲しいローマ教皇と、教皇の権威を借りたいカール大帝の双方の思惑が一致したことでカール大帝の西ローマ皇帝即位が実現したのです。

功績3「カロリング・ルネサンスをおこした」

カロリング・ルネサンスとは、カール大帝の時代におきた文化的な動きのことです。カロリングは、カール大帝の家の名前、ルネサンスは文芸復興という意味でつかわれます。

カール大帝がカロリング・ルネサンスをおこした目的は、古代ローマ帝国滅亡後、長い戦乱の時代が続いたため文学や芸術を復興するためでした。その目的を達成するため、彼は自分の宮廷にアルクィンをはじめとする学者たちを集め、学問を奨励します。さらに、各地に学校を設け、役人やキリスト教会の聖職者を育成しようとしました。

カロリング小字体で書かれた福音書

古代ローマ時代の文芸復興のためにラテン語の復興が欠かせません。そのためにカール大帝が行わせたのが、カロリング小字体の作成でした。その結果生まれたカロリング小字体は現在のアルファベットの小文字のもととなります。

カール大帝の名言

正しい行動は知識だけより良いものだ。しかし、正しいことをするためには、何が正しいか知る必要がある。

カール大帝のもっともよく知られている名言で、いかにも、行動力にあふれたカール大帝らしい言葉です。彼は文字の読み書きができませんでした。少しでも読み書きができるようにと、毎晩、石板で字を練習したそうです。

彼ほどの地位にあれば、文字の読み書きができなくても側近たちが何とかしてくれたでしょう。それでも、文字の勉強をしたのは「何が正しいか」を自分の目で確かめるためだったのかもしれません。

知識欲があったカール大帝

二つ目の言語を持つということは、二つ目の魂を持つということだ。

カール大帝は自分の母語であるゲルマン語のほかに、古代ローマ帝国の言語であるラテン語や、古代ローマ帝国の公用語だったギリシア語についても学びます。

その結果、ラテン語については自由に話せる程度に、ギリシア語なら聞いてわかる程度まで上達します。「知る」ということに対する彼のあくなき執念を感じます。

平和なくして、神を喜ばせることはできない

カール大帝は、生涯にわたって西ヨーロッパ各地を転戦しました。交通網が発達していない当時、各地で戦いを続けるのは相当大変だったことでしょう。

彼はキリスト教の王国を作るため、周囲の異民族やイスラム教徒と戦い続けました。その目的は、平和な世界を作ることだったのでしょう。

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