カール大帝の功績
功績1「異民族やイスラム教徒を攻撃」
広大な領土を支配したカール大帝は異民族やイスラム教徒と戦い続けた人物としても知られています。ピピン3世の没後にフランクの王となったカール大帝はドイツ西部に住むザクセン人を征服します。それにより、ザクセン人はキリスト教を受け入れました。
また、778年にはイスラム教徒に征服されていたイベリア半島に遠征します。ところが、イベリア半島から帰還する途中にカール大帝の軍はバスク人の襲撃を受けて大損害を出してしまいます。
さらに、彼は現在のハンガリーにあたるパンノニア平原を根拠地としたアジア系のアヴァール人と戦い、大打撃を与えることに成功します。こうして、カール大帝の領土は西ヨーロッパ全体に及びました。
功績2「西ローマ皇帝として戴冠」
ローマ教皇レオ3世はカール大帝が持つ強大な武力に目を付けました。この時代、キリスト教会はローマ教皇を中心とする西方教会と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を中心とする東方教会に分かれていたのです。
東方教会のトップであるコンスタンティノープル大主教は東ローマ皇帝の力を背景にしていました。その一方、ローマ教皇には自分の後ろ盾になってくれる君主がいません。そのため、ローマ教皇は軍事力で東方教会や異民族、異端に対抗することができませんでした。
だからこそ、ローマ教皇はカール大帝を西ローマ皇帝にし、彼の後ろ盾を得て東方教会や異民族、異端に対抗しようとしました。カール大帝にしても、宗教のトップであるローマ教皇と手を組むことは、支配の正当性をアピールするうえで大きなメリットがありました。
後ろ盾が欲しいローマ教皇と、教皇の権威を借りたいカール大帝の双方の思惑が一致したことでカール大帝の西ローマ皇帝即位が実現したのです。
功績3「カロリング・ルネサンスをおこした」
カロリング・ルネサンスとは、カール大帝の時代におきた文化的な動きのことです。カロリングは、カール大帝の家の名前、ルネサンスは文芸復興という意味でつかわれます。
カール大帝がカロリング・ルネサンスをおこした目的は、古代ローマ帝国滅亡後、長い戦乱の時代が続いたため文学や芸術を復興するためでした。その目的を達成するため、彼は自分の宮廷にアルクィンをはじめとする学者たちを集め、学問を奨励します。さらに、各地に学校を設け、役人やキリスト教会の聖職者を育成しようとしました。
古代ローマ時代の文芸復興のためにラテン語の復興が欠かせません。そのためにカール大帝が行わせたのが、カロリング小字体の作成でした。その結果生まれたカロリング小字体は現在のアルファベットの小文字のもととなります。
カール大帝の名言
正しい行動は知識だけより良いものだ。しかし、正しいことをするためには、何が正しいか知る必要がある。
カール大帝のもっともよく知られている名言で、いかにも、行動力にあふれたカール大帝らしい言葉です。彼は文字の読み書きができませんでした。少しでも読み書きができるようにと、毎晩、石板で字を練習したそうです。
彼ほどの地位にあれば、文字の読み書きができなくても側近たちが何とかしてくれたでしょう。それでも、文字の勉強をしたのは「何が正しいか」を自分の目で確かめるためだったのかもしれません。
二つ目の言語を持つということは、二つ目の魂を持つということだ。
カール大帝は自分の母語であるゲルマン語のほかに、古代ローマ帝国の言語であるラテン語や、古代ローマ帝国の公用語だったギリシア語についても学びます。
その結果、ラテン語については自由に話せる程度に、ギリシア語なら聞いてわかる程度まで上達します。「知る」ということに対する彼のあくなき執念を感じます。
平和なくして、神を喜ばせることはできない
カール大帝は、生涯にわたって西ヨーロッパ各地を転戦しました。交通網が発達していない当時、各地で戦いを続けるのは相当大変だったことでしょう。
彼はキリスト教の王国を作るため、周囲の異民族やイスラム教徒と戦い続けました。その目的は、平和な世界を作ることだったのでしょう。
カール大帝にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「生涯でただ一度の敗戦となったロンスヴォーの戦い」
カール大帝は生涯で53回もの軍事行動を行いました。常に「楽勝」だったわけではありませんが、彼は戦いに勝利し続けます。しかし、イベリア半島への遠征の帰り、彼は生涯ただ一度の敗戦を経験しました。それがロンスヴォーの戦いです。
イベリア半島のイスラム勢力から人質を取り、戦いの目的を達したカール大帝はピレネー山脈を越えて帰国しようとしていました。ところが、山間の道を行き、峠を越えようとしていたカールをスペイン北西部に住んでいたバスク人が襲撃します。
この時、最後方を守っていたのがカール大帝の忠臣である聖騎士ローランでした。ローラン率いる最後尾の部隊はバスク人と激しく戦い全滅してしまいます。その結果、カール大帝自身はローランの奮戦もあってかろうじて脱出しました。
この時の聖騎士ローランの活躍を描いたのが『ローランの歌』です。その後、『ローランの歌』は代表的な騎士伝説として語り継がれました。『ローランの歌』で、聖騎士ローランは伝説の武器デュランダルを装備して奮戦します。
都市伝説・武勇伝2「カール大帝が身に着けた宝石”シャルルマーニュの護符”って何?」
シャルルマーニュとはカール大帝のフランス語読みです。シャルルマーニュの護符は、アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードがカール大帝に贈ったものでした。
シャルルマーニュの護符は、エメラルドやガーネット、真珠などで飾られた黄金の枠に大きなサファイアが埋め込また豪華なしつらえです。加えて、サファイアは皇帝の石とも呼ばれ、持つ者を皇帝にするといわれます。カール大帝にふさわしい宝石ではないでしょうか。
カール大帝が亡くなると、この護符は彼の遺体とともにアーヘン大聖堂に埋葬されました。
彼の死後、150年以上たった1000年、時の神聖ローマ皇帝オットー3世がカール大帝の遺体と対面した際、彼の遺体はほとんど腐敗していなかったといいます。それゆえ、遺体が腐敗しなかったのはシャルルマーニュの護符の効果だと信じられました。
その後、この護符はアーヘン大聖堂に安置されました。しかし、ナポレオン軍がドイツを占領した時、彼の命令で護符はフランスに移されます。それから、この護符はナポレオン3世の皇后ウジェニーが引き継ぎました。最終的に、護符は第一次世界大戦後にランス市に寄贈されます。
都市伝説・武勇伝3「動物大好き?カール大帝の意外な趣味とは?」
カール大帝は珍しい動物が大好きで、動物飼育に熱中したといわれます。彼に珍しい動物を贈ったのはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードでした。
ハールーン・アッラシードが贈ったのは象1頭と何匹かの猿です。象には「アブル・アッバース」という名がついていました。他にも北アフリカのアグラブ朝からはライオンと熊が贈られています。
カール大帝はこうした動物たちを宮廷付属の庭園で飼育します。宮廷庭園では象や猿、ライオンだけではなく、シカやクジャク、キジなども飼育されていました。
都市伝説・武勇伝4「ハートのキングのモデルはカール大帝?」
トランプのキングの絵札にはそれぞれモデルがあります。ハートのキングのモデルはカール大帝です。ほかのキングと比べ、口ひげがないのが特徴です。といっても、彼に髭がなかったわけではありません。
実は、トランプの絵の版木を彫っていた職人が、誤って口髯をきりおとしてしまい、その姿が代々受け継がれるようになってしまったのです。
また、ハートのキングが持っている剣は、もともと戦斧だったそうです。その理由は、戦斧はカール大帝の時代によく使われていた武器だったからです。それが、時代を経るにしたがって剣に変えられました。カール大帝も時代の変化で武器が変わったのです。