カール大帝とはどんな人?ヨーロッパの父と言われた理由は?【生涯まとめ】

カール大帝の生涯年表

747年 – 0歳「カール大帝誕生」

フランク王ピピン3世の子として生まれる

カール大帝が生まれたベルギーのエルスタル

742年、カールはフランク王ピピン3世の長男として生まれました。母親は正妻のベルトレドとされていますが、詳細は不明です。しかも、『カール大帝伝』の著者アインハルトも「不明」としていることから、何らかの事情があったのかもしれません。

彼が生まれたのはベルギー北部のエルスタルとされます。その理由は、エルスタルはカール大帝の祖父であるカール・マルテルが本拠地を置いたからで、カロリング家にとってゆかりの街だったからにほかなりません。

768年 – 21歳「カール大帝がフランク王となる」

ローマ教皇から塗油の儀式を受け、王位継承権を得る

カロリング朝の王族に塗油の儀式を行った教皇ステファヌス3世

即位の14年前である754年、幼いカールは当時のローマ教皇ステファヌス3世から塗油の儀式を受けました。この儀式はキリスト教世界で神聖さを与えるためのものです。ということは、ローマ教会のトップであるローマ教皇がカールを次の王として認めたといってよいでしょう。

この時、塗油の儀式を受けたのは父のピピン3世、カール、そして弟のカールマンでした。ピピン3世の死後、カールとカールマンは領土を2つに分けてそれぞれ王となります。771年にカールマンが死去すると、カールはカールマンの領土を自分の領土としました。

772年 – 25歳「ザクセン人を討伐」

30年以上にわたったザクセン戦争

772年、カール大帝は異教を信じるザクセン人たちに征服戦争を仕掛けます。目的は領土の拡大とキリスト教の布教でした。ザクセン人たちはキリスト教の受け入れを拒み、戦いを続けます。

カール大帝に降伏するザクセン人の指導者ヴィドゥキント

ザクセン人側もやられっぱなしではありませんでした。ザクセン人のリーダーであるヴィドゥキントは782年にフランク王国領に攻め込み、フランク王国の一軍を壊滅させます。すると、知らせを聞いたカール大帝は遠征先のスペインから急遽帰国し、ザクセン人たちを打ち破りました。

とはいえ、彼は戦争の早期終結を望んでいました。彼はリーダーのヴィドゥキントに降伏を呼びかけます。その結果、785年にヴィドゥキントは降伏しキリスト教に改宗しました。しかし、ヴィドゥキントの降伏後も戦いは続き、ザクセン戦争が終結したのは804年のことです。

774年 – 27歳「ランゴバルド王国を滅ぼす」

ランゴバルド王国を滅ぼし、ローマ教会の保護者となる

ランゴバルド王国の王権を象徴するロンバルディアの鉄王冠

ランゴバルド人はゲルマン人の一派で、もともとドイツに住んでいました。しかし、イタリアを支配していた東ローマ帝国の力が弱まると、北イタリアに侵入しランゴバルド王国を建国します。

ランゴバルド王国は751年にラヴェンナに攻め込みます。そして、東ローマ帝国が北イタリアに置いていたラヴェンナ総督を滅ぼしました。さらに、半島統一を目指してローマ教皇に圧力をかけます。

すると、軍事力を持たないローマ教皇はカール大帝に救援を求めます。彼は北イタリアに遠征しランゴバルド王国を滅ぼし、教皇の望みをかなえました。このとき、彼が手に入れたランゴバルド王国の鉄王冠はイタリアの支配権を象徴するものになります。

796年 – 49歳「アヴァール人の宮廷を攻撃」

ハンガリーでアジア系のアヴァール人を撃破

アヴァール人の支配地域(Avars)

アヴァール人はアジア系の民族で、5世紀に南ロシアに現れました。6世紀にはハンガリーを中心とするパンノニア平原に進出します。アヴァール人は7世紀にスラヴ人やゲルマン人の一部を従え大帝国を作り上げました。

そして、アヴァール人は進出した先で都市を攻撃し、教会を破壊しました。西ヨーロッパの中央部を統一したカール大帝はアヴァール人攻撃を決断。数度の戦いの末、796年にアヴァール人の宮廷を攻め落としました。

その後、アヴァール人の王国はフランク王国・スラヴ人・ブルガール人に分割されます。

800年 – 53歳「カール大帝、西ローマ皇帝となる」

ローマ教皇レオ3世がカール大帝に帝冠を授けた

カール大帝に西ローマ皇帝の帝冠を授けた教皇レオ3世

ローマ教皇レオ3世はカール大帝にローマに来るよう要請します。この要請に応じたカール大帝は大軍を率いてローマに入りました。そして、カール大帝はクリスマスのミサのためにローマ教皇がいるサンピエトロ大聖堂を訪問します。

ミサの最中、ひざまずくカール大帝に対しレオ3世は皇帝の冠をカール大帝の頭にのせました。このサプライズ演出に教会にいた群衆は歓喜し、彼の西ローマ皇帝即位を祝いました。

彼が皇帝になることで長らく絶えていた西ローマ帝国の皇帝が復活したことになり、東ローマ帝国とは別のルールで動く西ローマ世界が成立したといえます。

カール大帝の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

「カール大帝―ヨーロッパの父」

この本の著者は中世初期の研究者として非常に有名な人物です。そのため、内容も非常に豊富で、彼が生きた8世紀後半から9世紀の状況がよくわかります。

しかし、西ヨーロッパ世界の仕組みや全体像が話の中心になっているので、カール大帝個人について知りたい場合は物足りないかもしれません。

カール大帝についてのまとめ

いかがでしたか?

フランク王カール大帝は卓越した武力で西ヨーロッパの中心部分を統一しました。広大な領土を征服したカールは「大帝」とよばれます。

彼の武力に目を付けたローマ教皇レオ3世は、カール大帝に西ローマ皇帝の帝冠を授けます。彼の偉業によりカトリック教会とゲルマン人の王国が融合した西ヨーロッパ社会が作り上げられたといってよいでしょう。

読者の皆様が、カール大帝の人生やカール大帝の功績などに対し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。

長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。

1 2 3

コメントを残す