戦国一の妻・妻木煕子とはどんな人?生涯・年表まとめ【愛情あふれる逸話を紹介】

妻木煕子の功績

功績1「美しい心を持っていた妻木煕子の逸話」

光秀もわかっていた?結婚に必要なのは心の美しさ!

煕子は光秀のもとに嫁ぐ前に疱瘡(天然痘)にかかり、顔に痕が残ってしまいました。どうしても明智家との縁談を進めたかった父の範煕は、煕子の妹を替わりに嫁がせようとしますが、光秀はぜひに煕子をと希望したそうです。

これは光秀が煕子の人となりを深く理解していたからこその対応だと思います。このとき光秀は年月とともに見た目は変わるが、心は変わらないと言ったと伝えられています。

結婚するときにそんな経緯があったからこそ、煕子は越前での苦しい生活に耐えられたのに違いありません。この逸話は伝承の域を出ないとする人もいますが、煕子の心の美しさがこの逸話を作り出したと考えることもできます。

宣教師ルイス・フロイスによるフロイス日本史での光秀の人物像には、狡猾や裏切りなどの言葉が並んでいます。そんな光秀を自分が亡くなるまで信じ、支えた煕子の心はきっと美しかったことでしょう。

功績2「苦しい生活の中で、家計を支えるために煕子が売ったのは?」

かつらの他、刷毛や綱など、黒髪には使いみちがいろいろあった

越前での苦しい暮らしの中で、光秀は酒宴の用意にも苦労します。見かねた煕子はあるものを売って、酒宴のための費用に充てることにしました。

それは自分の黒髪です。髪の毛を売って家計の足しになるのかと疑問に感じる人もいるでしょうが、煕子の他にも黒髪を売ったと伝わっている人物がいます。

同じく戦国時代の武将、山内一豊の妻・千代も苦しい生活の中で黒髪を売り、夫を助けたそうです。女性の黒髪にはかつらやつけ毛の他に、綱や刷毛の材料などの使いみちがあり、ちゃんと売り物になりました。

ただし黒髪を短く切ってしまうのは当時の女性たちにとって、現代では考えられないほど大変なことでした。

女性が髪の毛を短く切るのは、出家をするときくらいだったので、周りの人たちから好奇の目で見られることも覚悟しなくてはなりませんでした。

世間の目を気にしない煕子の強さを感じさせる行動です。

功績3「過労で倒れるほど光秀の看病をした 」

自分の命を縮めても、愛する人の命を延ばした

1576年(天正4年)の5月に倒れた光秀の看病を煕子は献身的に行ったようです。光秀は相次ぐ戦いに疲れたために倒れたと考えられていますが、風痢だったとも伝えられています。

風痢は現代で言う感染性胃腸炎のことですが、これには激しい下痢を伴い、命の危険もある赤痢や疫痢も含まれます。赤痢の場合は現在でも、下痢止めを使うことはできず、抗菌剤による除菌をする以外は、対処療法を行います。

光秀は一時は死亡説も流れるほど、長く臥せっていたようですから、激しい下痢による脱水症状にならないように、煕子が根気よく水分を与え、身の回りの清潔を保っていたと思われます。

光秀が亡くなっていないということ、同じ年に煕子が亡くなっていること(つまり煕子も同じ病気に感染したと考えられます)が、煕子が献身的な看病を行った証拠です。

命を永らえた光秀は本能寺の変を起こし、時代を大きく動かしました。看病は立派な煕子の功績だと言えます。

妻木煕子にまつわる名言

静かな月と煕子の逸話、どちらも芭蕉の心を動かした

月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ

「静かな月のもとで、明智の妻の話をしましょう」という意味です。

妻木煕子が黒髪を売り、家計を助けた話を聞き、松尾芭蕉はとても感動したそうです。芭蕉はこの句を貧しいながらも心のこもったもてなしを受けたときに詠んだそうです。もしかすると、その家の妻を煕子に例えたのかもしれません。

心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜しまじ名をも惜しまじ 

これは「私の心がわからない人はなんとでも言うが良い、私は自分の命も名誉も惜しくない」という意味で、明智光秀の辞世の句として知られています。

光秀は自分の心をよくわかってくれていた妻の存在があったために、人生の最後にこんな句を詠むことができたのだと思われます。煕子がわかってくれていれば、光秀は人からどう思われようと自分の道を進める、そんな信頼感が2人の間にはあったような気がします。

妻木煕子の人物相関図

妻木煕子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「煕子は本当に愛された?光秀に側室がいた可能性」

煕子は本当に光秀の愛情を独り占めしていたのか

光秀は煕子だけを愛していたと思われていますが、実は隠れた女性が存在していたという説もあります。まずは、山岸光信の娘・千草です。山岸光信は光秀の叔父に当たります。

千草は未婚のまま出産したと言われていますが、結婚した後に死別したとも言われています。どちらにしても、妻木煕子と光秀が結婚する前の話です。

また、喜多村保光の娘と原仙仁の娘はともに側室だったと言われています。特に喜多村保光の娘は光秀の三男を出産。後に三男は坂本城を脱出、母方の喜多村家に逃れ、喜多村保之と名乗りました。明智家の血脈は意外な方向に向けて流れていったのかもしれません。

側室の存在にがっかりする人もいるかもしれませんが、当時は跡継ぎを絶やさないためにも、側室の存在は公に認められていました。しかし、家族として認められたのは圧倒的に正室でした。光秀の煕子に対する愛情を疑っては申し訳ないかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「本名ではない!「煕子」が知られたきっかけは?」

明智光秀の妻、本当は何という名前だった?

今まで明智光秀の妻の名は妻木煕子だとして、解説をして来ました。実はこの名前はつい最近になって使われるようになりました。妻木煕子は1975年に発行された三浦綾子の著作「細川ガラシャ夫人」に初めて登場します。

それ以前には光秀の正室はお牧の方、伏屋姫という名前が知られていました。光秀の時代、女性は結婚して正室になると〇〇の方と呼ばれ、有力者の娘であれば〇〇姫と呼ばれたため、現在のように名字と名前で表記されることはありませんでした。

しかもお牧の方は光秀の母親という説、伏屋姫に至っては光秀の側室、または後妻だったという説があって真実がはっきりしませんでした。

そこで現代の読者にもわかりやすく、父親の名字と名前の一文字を入れた妻木煕子を正妻の名前にしたのだと思われます。今ではすっかりこの名前が定着しています。

名前がついたことで、一人の女性の姿が一層はっきりとしたようです。

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