1556年 – 26歳「夫とともに国を追われる」
長良川の戦いで明智城が落城
熙子が国を追われる原因となったのが長良川の戦いです。これは美濃の国主・斎藤道三とその息子の義龍の争いでした。一度は義龍に家督を譲った道三でしたが、次第にもっと優秀な弟たちを溺愛、義龍よりも丁重な扱いをするようになったのです。
このままではいずれ跡継ぎの座を奪われると危ぶんだ義龍は、弟2人を殺害、これが親子の戦にまで発展しました。
光秀たちは道三方についたために、義龍の攻撃を受けて明智城が落城、一族が離散することとなりました。この戦いには道三の娘・濃姫と結婚した織田信長も陣を構え、道三を手助けしようとします。ここでも織田信長と明智家との不思議な縁が感じられます。
織田信長の勢力が拡大
斎藤道三を破り、美濃の国主となった斎藤義龍でしたが、5年ほどで病に倒れ亡くなってしまいます。義龍の息子が跡を継いだものの、1567年に美濃は織田信長に攻められ、斎藤氏の居城であった稲葉山城は落城、信長の居城となり名前まで岐阜城と変えられてしまいます。これが稲葉山城の戦いとして現在でも知られています。
すでに1560年から駿河を破り、三河と同盟を結んでいた織田信長はその後は犬山城を落として尾張を統一していました。その勢力は美濃を手に入れることでさらに増大し、この後は室町幕府を再興、光秀たちの力も借りながら日本統一へと向かっていきます。
1563年 – 33歳「三女玉が誕生」
細川家に嫁いだ玉は幸せだったのか
三女の玉が細川家に嫁いだために、細川家記に細川忠興の正室の母として熙子の存在が記録されました。これは玉のおかげと言っても良いのですが、玉自身は幸せな生活を送ったのでしょうか。
1578年に玉は細川家に嫁ぎ(これは織田信長の発案だったそうです)、翌年には長女、その次の年には長男を出産しています。しかし1582年には父の光秀が本能寺の変を起こした後に謀反人として亡くなってしまいます。
これがきっかけとなり、玉は2年ほど幽閉されてしまいます。屋敷に戻された後も常に監視された生活だったようです。
このようなことが影響して、玉はキリスト教に救いを求めるようになったと考えられています。玉は美しく聡明だと評判が高かったため、その母である熙子も美しかったと考えられているほどですが、それも幸せを保証してくれるわけではありませんでした。
桶狭間の戦いから織田信長は日本統一へ向かった?
玉が生まれる3年前には、織田信長が駿河の今川義元を破り、三河の徳川家康と同盟を結びます。勢力を拡大した信長はその勢いのままに、犬山城の織田信清(信長のいとこにあたり、信長の姉と結婚しています)を破って尾張の統一を果たします。
ここから、美濃も手中に収めた信長は日本を統一しようと考え、その信長に光秀が仕えることになります。桶狭間の戦いも熙子たち明智一族に大きな影響を与えたことがわかります。
1573年 – 43歳「坂本城が完成」
坂本城築城のきっかけ!比叡山焼き討ち事件
1571年の比叡山焼き討ちは、織田信長の惨たらしい所業として現在でも有名です。信長が比叡山延暦寺の所領を横領したことがきっかけと言われていますが、当時の延暦寺は莫大な経済力を持っていました。米の産地の多くは延暦寺の荘園でしたし、それを運ぶ琵琶湖の船まで延暦寺の思いのままだったそうです。
信長は女、子どもまで情け容赦なく首を切らせたと言いますが、延暦寺の経済力を減らしたくて焼き討ちを行ったのかもしれません。
光秀はこの焼き討ちで武功を立てた上に、戦後処理にも尽力しました。だから延暦寺を見張るため、琵琶湖の海運を握るために、坂本城を築城するように信長から命令されたのです。再び城を作れるまでになった光秀に熙子も感無量だったことが想像できます。
この人も明智家には影響大だった!最後の将軍足利義昭
足利義昭が越前の朝倉義景を頼ったことから、光秀と義昭は面識を持つようになります。義昭に織田信長を頼るように勧め、渡りをつけたのも光秀だったそうです。光秀はしばらくの間、足利将軍と織田家の両方に仕えていたようですが、滋賀郡を領地としたことをきっかけに正式に織田家の家臣になりました。
1573年に義昭が挙兵、信長はなんとか講和をしようとしますが、うまく行かず、結局義昭は降伏した後、追放されます。こうして室町幕府は完全に滅び、光秀は織田信長の家臣として生きることになります。
足利義昭の存在が光秀と信長を出会わせ、本能寺の変に向かわせたと言えます。この流れは煕子にも止めることができなかったのではないでしょうか。
1576年 – 46歳「坂本城で死去」
本能寺の変を引き起こした?煕子の死
1575年の高屋城の戦いから始まり、長篠の戦い、越前一向一揆の鎮圧など、光秀は戦に明け暮れます。ただ忙しかっただけではなく、味方の裏切りや離反に合い、ストレスも溜まっていたようです。このため過労になった光秀は1576年に倒れてしまいます。
煕子の献身的な看病で奇跡的に持ち直しますが、信長の無茶とも言える仕事のさせ方に煕子自身はどう考えていたのでしょうか。現在なら間違いなく過労死が取り沙汰されるレベルの話でしょう。
結局はこの看病が原因となり、煕子も病に倒れてしまいます。もちろん光秀は心配したはずです。神主であった吉田兼見に祈祷を頼んだことが記録に残っています。一度は祈祷が効果を表し、兼見はお礼の銀を受け取っていますが、11月に入って容態が急変、煕子は帰らぬ人となってしまいました。
自分をわかってくれていた最愛の人を失ったことで、光秀の何かが変わってしまったのかもしれません。そしてそれが本能寺の変を引き起こしたのかもしれないと考えさせられます。
光秀を追い詰めたもう1つの死
1581年の記録に光秀は妹を亡くしたとあります。実の妹だったのか、義理の妹だったのかははっきりとわかっていませんが、名前を御ツマキと言ったそうで、当時の公家の日記にもツマキ、または妻木という名前が度々登場するそうです。
信長のお気に入りだったと言われており、御ツマキが亡くなったことで、光秀は一層孤立を深めて、本能寺の変に向かっていったのではないかと考えられています。
煕子、御ツマキという身近な女性の死によって戦国武将も大きな影響を受けるということがわかりました。彼らも人の子だと実感するとともに、やはり身近な人の死を乗り越えるのは大変なことだと思わずにはいられません。
妻木煕子の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
細川ガラシャ夫人(上)三浦綾子
娘のガラシャが主人公ですが、煕子が結婚前に疱瘡にかかり、自分の見た目が変わるところから物語が始まります。
美しかった自分の見た目が変わってしまったことで、煕子は人の痛みがわかるように成長したようです。光秀が煕子に心を許し、ともに人生を歩んで行こうと思ったことにもうなずけます。
煕子がもし生きていたら、玉が政治の道具として、細川家に嫁いでいくのをどんな気持ちで見送ったのか、考えると辛いものがあります。
細川ガラシャ夫人(下)
玉の壮絶な死に方は、読んだ後も重くのしかかってきますが、彼女の夫だった忠興はどんな気持ちだったのかと考えてしまいます。玉の死は結果として関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に勝利をもたらし、細川家は現代まで続いています。
この死を煕子が知らないで済んだのは、本当に良かったと思います。
おすすめドラマ
明智光秀~神に愛されなかった男~
2007年のドラマで、煕子役は長澤まさみさんです。2007年の長澤まさみさんが煕子を演じるのはかなり若いと心配でしたが、これくらい元気で健康的な方が、戦国時代をしっかりと生きていけるような気がします。
この煕子のおかげで、光秀もきっと元気に戦国時代を乗り切っていけたのではないでしょうか。
関連外部リンク
明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか
明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト
妻木煕子についてのまとめ
明智光秀の妻について、さまざまな伝承や記録から人物像を探ってきました。500年ほども昔の人で記録も極端に少ないため、本当にどんな女性だったのかを知るのはとても難しいことです。
しかし、単なる伝承だと思っていても、それができるには何らかの理由があります。一つひとつの伝承や煕子の家族について丁寧に考えると、おぼろげでも浮かび上がってくるものがあるのではないでしょうか。
妻木煕子の生き方を想像するとき、現代の私たちは元気をもらえるような気がします。