妻木煕子の簡単年表
妻木範煕の長女として誕生。ただし1534年に生まれたとする説もあり、こちらが本当だとすると織田信長と同い年ということになります。夫の明智光秀は1528年生まれと言われているため、年の近い仲の良い夫婦の姿が想像できます。
父親の名前も妻木範煕ではなく妻木広忠という説があるためはっきりとしませんが、どちらにしても妻木家は明智家と同じ土岐氏をルーツとする家柄でした。光秀との結婚も、釣り合いが取れた良い縁談だったのではないでしょうか。
「明智軍記」によれば、2人の間には3男4女が誕生し、この年に長女が生まれたと記録されています(「明智系図」によれば6男7女)。長女の名前は伝わっていませんが、1569年に16歳で明智秀満の妻になったということです。
1548年には光秀が18歳で最初の妻を迎えたという説があり、その妻は死別したとも言われています。この事実と長女の誕生から考えると、光秀と煕子の結婚は1550年代に入って、2人とも20歳前後で行われたのだと思われます。
美濃の国主であった斎藤道三親子の戦だった長良川の戦いで城を落とされ、国も追われた明智一族。そのとき煕子は26歳でしかも妊娠をしていました。そのため光秀が煕子を背負って逃げたと言われています。
光秀一行は越前に落ち延び、朝倉義景に仕えることになりますが、その期間は10年にも及んだと言います。光秀が煕子を背負った話は心温まるものですが、そこから煕子の波乱万丈の人生が始まったと言えます。
この年、2人にとっては三女となる娘の玉が誕生します。玉はのちに細川忠興と結婚し、キリスト教を信じるようになります。洗礼名はガラシャと言います。明治に入ってから、キリスト教信者によって細川ガラシャと呼ばれることが増えたために、こちらの名前の方が有名かもしれません。
玉にとっては幸せな結婚だったかどうかはわかりませんが、玉が細川家に嫁いだことで、煕子の存在が記録として残りました。煕子の存在を語る上で、玉は欠かせない存在です。
1571年の比叡山焼き討ちで武功をあげた光秀は、領地として近江国の滋賀郡を与えられます。織田信長には、光秀に比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権を獲得させる目的があったと思われます。
早速光秀は築城を開始、1573年に完成したのが坂本城です。最も天下人に近い織田信長に仕え、自分で作った城に住めるようになった光秀。煕子もさぞや喜んだことでしょう。
煕子は結局この坂本城で生涯を終えることになります。
1576年の5月、戦いに明け暮れていた光秀は過労のために倒れてしまいます。煕子は献身的に看病をして、顔見知りの神主であった吉田兼見に祈祷を頼んだりしていました。
一時は死亡説が流れたほど重い病だった光秀は4カ月ほどで回復しますが、それから間もなく今度は煕子が病に倒れてしまいます。またしても吉田兼見は祈祷を頼まれ、煕子も一度は回復しますが、11月に容態が急変して亡くなってしまいました。亡くなった年齢についても諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。
近年、滋賀県大津市の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の仏涅槃図の裏に煕子の戒名が書かれているのが見つかりました。涅槃図は1581年の秋分の日に寄進されたと記されています。これによって煕子は本能寺の変の前に亡くなっていたことがわかります。亡くなった年がはっきりしてきたことで、熙子という女性が確かに生きていたのだと実感できます。
妻木熙子の年表
1530年 – 0歳「妻木範熙の長女として誕生」
熙子が生まれ育った妻木城
妻木城はもともと美濃で栄えていた土岐氏が家臣たちを鍛錬するために作った山城でした。それが明智家のものになった後に、妻木家の居城になりました。このことからも、両家には深い絆があったことが予想され、光秀と熙子の結婚はみなに祝福されたものであったことが予想できます。
妻木城の城主は代々陶器の生産を奨励したと言います。15世紀には美濃焼の窯があちこちに出来ていたそうですから、熙子は美濃焼を作る煙が漂う、穏やかで落ち着いた場所で幼少期を過ごしたはずです。熙子の人間性が素晴らしかったと言われるのは、育った環境のおかげかもしれません。
明智家にとってのキーパーソン織田信長の誕生
熙子に後れること4年、尾張国(現在の愛知県)に生まれたのが織田信長です。最初は単なる一地方の領主に過ぎませんでしたが、今川義元を破り、徳川家康と同盟を結ぶことで勢力を拡大、日本を統一する野望を持つようになります。
この織田信長のもとに嫁いだ濃姫は光秀のいとこだったとも言われています。不思議な縁が結んだ織田信長と明智家。彼がいなければ、明智一族は離散したままで、城を持つことはありえませんでしたが、また彼がいなければ本能寺の変も起こらず、光秀が謀反人と呼ばれることもなかったのです。
1552年 – 22歳「長女が誕生」
明智家の長女の功績とは
長女はハッキリとした名前も伝わっていませんが、この人もまた明智家には欠かせない人でしょう。長女が1569年に結婚した明智秀満はもとは三宅(または遠山)と名乗っており、長女との結婚で明智姓となった可能性があります。
明智家の一員となった秀満は本能寺の変では先鋒を務めました。その後の羽柴秀吉との戦いでも坂本城に籠城して最後まで粘りましたが、光秀が命を落とした知らせを受けると、自ら後の始末をしてから命を絶ちます。
光秀が私利私欲にかられて本能寺の変を起こしたわけではないことを世間に知らせるために、城内の財宝をすべて敵方に差し出したのです。骨身を惜しまずに光秀に尽くし、最後の後始末までキチンとした秀満。
素晴らしい人材を明智家の一員に迎えることができたのは、長女の功績ではないでしょうか。