柳田国男はどんな人?民俗学での功績や名言も紹介【年表付】

柳田国男の功績

功績1「日本民俗学の開拓者」

民俗学という1つの学問を成立させた

柳田国男は、それまで文献史料を重視しすぎていた歴史学を批判し、聞き書きやフィールドワークを主な研究手法とする「民俗学」を成立させました。さらに、戦後からは民俗学が大学で研究できるように尽力し、発展に努めています。

文字で書かれた史料は、政治的権力の記録に偏っています。また、事実ではなく後世に伝えたいことだけ書き、都合の悪いことは隠しているという可能性もあります。柳田は文献資料についてこのような「作られた史料」である可能性を指摘し、人々が現実に行っていることを調査・記録して資料にする手法を提唱しました。

功績2「庶民の生活を書き残した」

何でもない光景や人々の姿を書き残した

多くの文献史料は政治や行政についての記録であるため、人々の何でもない日常は書き残されていません。たとえば、争いは起こればその記録が残されますが、平和に過ごしている期間については特筆すべきことがないため書かれず、後世になってみれば「なかったこと」になってしまいます。

柳田は、歴史学では抜け落ちてしまうそういった日常にこそスポットライトを当てたいと考えました。そのために、庶民が実際に何気なくやっていることを「文字に頼らない資料」として記録したのです。

功績3「『妖怪』を学問する、ということに注目した」

日本の妖怪の代表格・河童

「妖怪を学問する」というと頭にハテナマークが浮かぶ人がいるかもしれません。妖怪とはいわゆる「お化け」のことですが、柳田は「文化の中からお化けが生まれてきた」と考えました。

『妖怪談義』という著作の中で、柳田は「日本人が心の奥底にもつ原始的な『恐怖』がかたちを変えて妖怪となった」と述べています。日本文化の歴史に、恐怖に基づいた文化のタイプがあるのを発見していくと、日本人の人生観や信仰の変化を知ることができるとしました。この『妖怪談義』は柳田の妖怪についての考察がつまった著作なので、興味をもった人はぜひ読んでみてください。

柳田国男の名言

願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。

『遠野物語』の序文に記された言葉です。佐々木喜善から遠野の伝承を聞いた柳田の驚きと感動、そして「伝えなければ!」という使命感が伝わってくるような一言です。

学問は興味から、もしくは好奇心からはいったものがもっとも根強い。

柳田の民俗学は、子どものころの経験や訪れた土地の文化に興味をもったことがはじまりでした。好奇心は柳田の、そして学問の原動力なのです。

うずもれて一生終わるであろう人に関する知識を残すのが民俗学(フォークロア)

昭和32年、放送文化賞を受賞してテレビ出演したときに語った言葉です。日本史の教科書には書かれない、ごく普通の農民の歴史を書き残して明らかにするというのは柳田の大きな使命でした。

柳田国男にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「13歳のときの神秘体験」

柳田国男記念公苑にある祠

国男は13歳のとき、茨城に住んでいた1番上の兄・鼎のもとに家族で引っ越しました。鼎は小川家という代々学者の家に招かれて病院を開業していたのですが、その離れを借りて家族で暮らせるようにしたのです。小川家にはたくさんの本があり、国男は書庫にこもって蔵書を乱読したといいます。

さて、小川家の屋敷の裏には、家の神様を祀った祠がありました。小川家の当主・東作がつくったもので、東作の祖母が集めていた石の玉が収められている祠です。そこで、国男少年は不思議な体験をすることになります。

好奇心旺盛な国男少年は、あるときその祠の中を覗いてみました。中央のくぼみに15センチほどの玉がはめこんであって気にはなったのですが、まさか「祠を覗いた」とはいえず誰にも聞けずに数週間を過ごします。

歴史民俗資料館に展示されている玉

数週間後の明るい昼間、国男が暇つぶしにその祠の前の土を掘り返してみると昔の銭貨がいくつも出てきました。そのときふと青空を見上げると、昼間にも関わらずたくさんの星が見えたというのです。国男はその星々に魅せられ、近くにいた鳥が鳴くまで見入っていたといいます。

後年、国男はそのときの体験を「幻覚」としていますが、「鳥が鳴かなければ帰ってこられなくなっていたように思う」とも述べています。大人になった国男が民俗学を研究していくと、不思議な出来事にまつわる逸話をいくつも知ることになりました。それらの出来事を「錯覚」「迷信」などと扱わず研究対象にしたのは、この13歳のときの出来事が関係していると考えられます。

都市伝説・武勇伝2「朝食にタピオカを食べることがあった」

1903年に発表された村井弦斎『食道楽 春の巻』には
タピオカのレシピが掲載されている

近年、タピオカミルクティーが流行したときに柳田のある論考が注目されたことがあります。著作『民間伝承論』にある次の一説がTwitterで拡散されたのです。

「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある」

この文章は、「たった1度見ただけの事実を『真実』として語る」ことへの警鐘として書かれたものです。柳田が朝食にタピオカを食べているのを見たヨーロッパの学者が「日本人は朝食にタピオカを食べている」としたら?と問うことで、資料をいろいろなところから集めてきて比較をするべき、と主張しています。

柳田国男『民間伝承論』

とはいえ、この『民間伝承論』は1934年、戦前に発表されたもの。「その時代にタピオカがあったのか!?」と疑問に思う人も多いでしょう。

実はタピオカは明治時代から高級食材とされていました。当時は今のミルクティーに入っている「タピオカパール」のほかに、「タピオカ製粉」「タピオカフレーク」もあり、スープに入れたり、プリンやゼリーなどのデザートに使ったりしていたといいます。とはいえハイカラな食べ物に間違いはなく、柳田は「民俗伝承」など昔からの事象を扱いながらも意外と最新のものにも抵抗を示さない、柔軟な人物だったのだな、と思います。

1 2 3 4

コメントを残す