柳田国男の年表
1875年 – 0歳「現在の兵庫県福崎町に生まれる」
松岡家の六男として誕生
柳田国男は、1875年(明治8年)7月31日に兵庫県神東郡田原村(現在の兵庫県福崎町)の松岡家に生まれました。実は、柳田国男が「柳田」の姓を名乗り始めるのは27歳ごろ、柳田家の養子になってからのことです。生家は松岡家といい、父・操と母・たけの六男として誕生しました。
兄が5人、弟が2人という男ばかりの8人兄弟で育ちました。生家は街道に面した小さな家で、柳田は後年「日本一小さな家だった」と評しています。けれども春には八重桜や桃などの花々が咲き乱れる、つつましくも美しい家だったようです。
転居先で飢饉を経験
柳田は9歳のころ、家族で兵庫県の北条町に引っ越したのですが、そこで飢饉を経験します。
貧困にあえぐ農民たちの姿を目にした柳田は、幼いながらも「飢饉を絶滅させたい」という気持ちに駆られたといいます。大人になった柳田は農商務省の官僚となり、さらに民俗学を志すのですが、民俗学は「貧困状態にある農民を救うためのものでなくてはならない」と考えていました。このような道を選んだのは、幼いころのこの飢饉の経験が動機の1つだった、と語っています。
1887年 – 12歳「茨城県に住む兄のもとへ引っ越す」
風土の違いに衝撃を受ける
12歳のとき、国男は開業医となっていた1番上の兄・鼎(かなえ)の住む茨城県布川町(現在の茨城県利根町)に身を寄せます。生まれ育った兵庫とはまた違った風土は国男にとって印象深いものだったようです。
ところで、柳田の兄・鼎は隣に暮らしている小川家の長屋を借りて医業を営んでいました。国男も小川家にはしょっちゅう出入りしていたようで、小川家の蔵書をむさぼるように読んでいたといいます。また、先ほど都市伝説・武勇伝としてご紹介した「13歳のときの神秘体験」は、小川家が祭っていた屋敷神の祠で起こったことです。
13歳の柳田が出会った「間引き絵馬」
13歳のときに訪れた家の近くの寺・徳満寺で、国男は異様なものを目にします。それは「間引き絵馬」と呼ばれる、彩色された絵馬でした。子どもを生んだばかりの女性が鉢巻をしめて、赤ちゃんを殺すべく押さえつけている絵が描かれています。
障子に映る女性の影には鬼のような角が生え、そばにたたずむお地蔵さまは涙を流しています。「間引き」とは、生活の苦しさから育てられないと考えられる赤ちゃんを親が殺すことを指します。柳田はその絵の意味を理解し、心寒いものを感じたと語っています。
1890年 – 15歳「兄を頼って上京」
森鴎外と知り合う
15歳になると国男は茨城の家を出て、東京帝国医科大学に在学していた3番目の兄・通泰と暮らし始めます。通泰は卒業後に眼科医となるのですが、歌人や歴史家としても著作が多い人文学に優れた人でした。その通泰の紹介で、国男は森鴎外と知り合います。
国男は鴎外を慕い、鴎外が創刊した『しがらみ草紙』という文芸評論誌にも作品を寄稿しました。また、兄・通泰の紹介で歌人・松浦辰男に入門し、短歌も多く書いています。田山花袋や国木田独歩、島崎藤村らと親交を深めたのもこのころです。
第一高等中学校に入学
1893年、17歳の時に第一高等中学校(現在の開成高校)に入学します。在学中は母と父を相次いで亡くし、国男自身も肺尖カタルを患うなど辛いことも多かったようです。
文学者との親交も多かった国男は当初、文学の道を極めたいと考えていました。けれども卒業が近づくにつれ、自分の才能に限界を感じ始め、さらに幼いころに経験した飢饉や「間引き絵馬」の体験から、農民の暮らしをよりよいものにしたいという思いを芽生えました。そこで進学し、農政学を学ぼうと決意します。
1897年 – 22歳「東京帝国大学に入学」
農政学を学び始める
1897年、国男は東京帝国大学の法科大学政治科に入学しました。法学博士で経済学者の松崎蔵之助に師事し、農政学を学びました。
農政学は、農業に関する法律や政策を研究する学問分野です。国男は東京帝大を卒業した後も、働きながら大学院課程に在籍していました。
田山花袋らと『抒情詩』を出版
1897年に田山花袋、国木田独歩らと文学雑誌『抒情詩』を出版します。国男はロマンあふれる作風の詩を書いていました。当時、国男は報われない恋愛に悩んでいて、花袋にだけその恋を打ち明けていたのですが、花袋はその話を『野の花』という小説にしています。
結局その恋は諦め、27歳の時には柳田家に養子に入るのですが、そのエピソードからは国男と花袋の仲の良さがうかがわれます。田山花袋は国男より3つ年上で、8人兄弟で兄の多かった国男にとって親しみやすかったのではないでしょうか。国男が官僚になった後も文学者たちとの交流は続いていたのですが、大正時代のはじめあたりから文学界で盛んになった自然主義や私小説に嫌気がさし、次第に離れていきました。
1900年 – 26歳「農商務省に勤め始める」
東北の農村の実態の調査・研究を始める
東京帝国大学を卒業した国男は、農商務省に入省し官僚となります。「農商務省」とは、現在でいう農林水産省と経済産業省の役割を果たしていた省庁です。柳田はここで、官僚として東北の農村の実態を調査し始めました。
当時の日本の農業政策は、「農本主義」と呼ばれるものでした。「農村はこれからの資本主義経にはなじまないが、大事なものだから保護して守らなくてはならない」という考え方です。
しかし、柳田はこの考え方に反対していました。これから先、社会全体は資本主義になって生産と流通の方法が変わっていくのだから、農村は今の状態を守るべきではなく、変化して発展するべきであると考えていたのです。けれども、柳田のこの説は認められませんでした。
柳田家の養子になる
1901年、国男は柳田直平の養子となり「柳田国男」となりました。1904年に国男は当時19歳の直平の四女・孝と結婚しています。2人の間には1男4女、5人の子どもが生まれました。
1908年 – 34歳「佐々木喜善と知り合う」
「怪談ブーム」のなか佐々木と知り合う
1900年代、日本では「怪談ブーム」が巻き起こっていました。当時、ヨーロッパで流行していたスピリチュアリズムの影響を受けたもので、そのような時期に柳田は佐々木喜善と知り合います。佐々木はそのころ早稲田大学に在学中の学生で、新進気鋭の小説家でもありました。
岩手県遠野地方出身の佐々木は、遠野にどのような伝説が残っているか、柳田に語りました。柳田のことを研究者のような人だと思っていたら意外にも官僚然としたビシッとした人物が表れたので驚いた、と後に語っています。後年「日本のグリム」と呼ばれることになる佐々木との出会いは、柳田を『遠野物語』執筆へと導きました。
宮崎県椎葉村を訪れる
1908年7月、柳田国男は農政経済についての講演のため宮崎を訪れ、講演が済むと山間の村・椎葉を訪れました。柳田の目的は、焼き畑の跡地に自生しているシイタケやこんにゃくの栽培できるかどうかの調査だったのですが、椎葉村長・中瀬淳の語る「イノシシ狩り」に心を惹かれます。
村人の家で「狩之巻」を見せてもらった柳田はますます興味をもち、東京に帰った後も中瀬村長と手紙のやりとりをしました。翌年に『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』を自費出版した柳田は、後年「この1つが日本民俗学の出発点となった」と語っています。