中臣鎌足(藤原鎌足)とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因も紹介】

中臣鎌足(藤原鎌足)は飛鳥時代の政治家です。日本の歴史において最大氏族「藤原氏」の始祖であり、以後日本に大きな影響を及ぼした藤原一族の礎を築いた人ではないでしょうか。

中臣鎌足

中臣鎌足と言えば、蹴鞠の時に中大兄皇子の脱げた靴を渡して近づいた人というイメージを持っている人も多いはずです。このエピソードは歴史漫画や歴史ドラマで多く取り上げられ有名なシーンとなりました。

彼の凄い所は、中大兄皇子(後の天智天皇)に接近し、結果的に成功して異例の大出世をしたことでしょう。中臣家は飛鳥時代まで目立たない家でした。彼は驚きの行動力と知識で、藤原家(中臣家)の繁栄のきっかけを作ったのです。

飛鳥時代を代表する政治家である中臣鎌足を、里中満智子さんの漫画の影響で飛鳥時代が大好きな筆者が彼の人生を追っていきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

中臣鎌足(藤原鎌足)とはどんな人物か

名前中臣鎌足(藤原鎌足)
誕生日614年
没日669年11月14日
生地大和国武市郡藤原
大和国大原
常陸国鹿島など
没地山城国山科
配偶者鏡王女、車持与志古娘
埋葬場所阿武山古墳・京都府山科の説がある

「中臣鎌足」「藤原鎌足」どっちの呼び方が正しい?

「藤原」「中臣」どちらも呼ばれる訳は…

「”中臣鎌足”と”藤原鎌足”とも言うけどどっちが正しい?」
「教科書で藤原鎌足と書いているけど、一般的に中臣鎌足の方が知名度高くないかな?」

そう思っている方も多いのではないでしょうか。こちらの疑問ですが、「藤原鎌足」が最終的な名前なのですが、生前使っていた「中臣鎌足」の名の方が知名度が高いのが特徴です。「藤原」という名前は、死の間際に天智天皇が与えた名前です。ですので、生前の彼を表す場合は「中臣鎌足」を使用します。

彼の死後、「藤原鎌足」と呼ばれるようになり、特に「藤原家の祖」というニュアンスを深めて使われることが多いです。この記事では、生前は「中臣鎌足」と呼ばれていたことに習って、中臣鎌足で統一して書いていきたいと思います。

中臣鎌足の生涯をハイライト

中臣鎌足はどんな人生を送ったのでしょうか。はじめに簡単に見ていきたいと思います。

武市郡の地図
出典:Wikipedia

中臣鎌足の生まれは614年だと言われています。生まれた場所ははっきりと分かっていません。一番有力視されているのが「藤氏家伝」に記された、大和国武市郡(現奈良県柏原市)です。武市郡は、4代懿徳天皇の軽曲峡宮や8代孝元天皇の軽境原宮があったという伝承がある古代からの都市でした。他にも、大和国大原(奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿島市)といった伝承もあります。

幼少時代は隋・に遣使として留学していた、南淵請安が開いた塾に通ったといいます。中大兄皇子や蘇我入鹿も同じ塾に通っていて、当時最先端の大陸の知識を得ることができた塾でした。その後軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近しました。

「大錦冠像」上段が中臣鎌足

そして、645年に当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺し、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追い込む乙巳の変を起しました。この功績から内臣に任じられ、新羅やへの外交責任者として活躍しました。その後647年の新冠位制度で、「大錦冠」を授与され、654年には「大紫冠」に昇進しました。

そして、669年に山城国山科に狩りに行き、そこで馬上から転倒して背中を強打しました。天智天皇が見舞いに行くと、白村江の戦いでの自分の責任を詫びたといいます。その後天智天皇は中臣鎌足に「大織冠」を授け「藤原」という姓を賜りました。その翌日に逝去します。享年56歳でした。

漢書に堪能だった幼少期

六韜は前漢初期の軍師、張良が
譲り受けたと言われる

中臣鎌足は早くから漢書に興味を持ち、南淵請安が開いた塾に入門していました。そこで儒教を学んだといいます。そして中国の史書に触れ、「六韜」を暗記したといいます。六韜とは中国の代表的な兵法書であり、「武経七書」の一つです。1巻に「文韜」「武韜」、2巻に「龍韜」「虎韜」、3巻に「豹韜」「犬韜」の全60編あり、膨大な量です。

六韜を暗記していたという中臣鎌足の、卓越した記憶力が垣間見えます。当時日本で最先端の知識であった元遣隋使の南淵請安から漢学に学び、六韜を暗記するほどの向上心を持っていた故に後の偉業を成し遂げたと言えるでしょう。

下級貴族「中臣家」から大出世した

神事を司る家だった中臣家

「中臣家」は京都山科区に拠点を構えた祭祀を司る豪族であり、飛鳥時代には日陰の一族となっていました。崇仏論争が起きた512年に、仏教推進派の蘇我と、従来の神の信仰を望む物部氏が戦い、中臣家は敗れた物部氏に味方をしていた為です。

中臣家と共に廃仏論者だった
物部一族

特に飛鳥時代は、仏教が盛んになり、神職である中臣氏は目立たない存在でした。中臣鎌足も644年に家業の祭官を継ぐように求められましたが、固辞して摂津国三島の別居に退いたと言われています。こうして、密かに蘇我氏体制打倒の機会を伺っていたのです。結果的に蘇我氏打倒は成功し、異例の大出世を果たしたのです。

死の間際に最高官位「大織冠」を授かる

中臣鎌足の大織冠とされる遺物
(大津市歴史博物館蔵)

中臣鎌足は死の間際に天智天皇から、「大織冠」という最上位の冠位を受けました。これは大化の改新後の647年に定められた7色13階冠の制で定められた位で、冠は織物で作り、繡で縁どったといいます。冠につける鈿は金銀で作り、深紫色の服を着用する規定であったと言われています。

この位をもらったのは685年の廃止までの間に、「中臣鎌足」ただ一人だったそうです。大織冠という位は通常空席であったといい、特例扱いの処置でした。この最高の名誉を受け、後世、中臣鎌足のことを「大織冠」と尊称されるようになったのです。

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