中臣鎌足(藤原鎌足)とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因も紹介】

中臣鎌足の功績

功績1「中華文化に堪能で、日本の政治に活かしたこと」

遣隋使・遣使の航路

中臣鎌足は、中華文化をかなり研究していました。日本で1、2を争う秀才だったそうです。当時、遣隋使・遣使によって大陸文化がもたらされている時期でした。小野妹子と共に隋に赴いた南淵請安も帰ってきており、塾に入門し儒教を勉強したといいます。この時に習った隋やの政治の知識を活かし、大化の改新後の政治基盤を天智天皇と整えていきました。

大化の改新を推し進めるときに、唐に習った官僚制の組織を作るために、中臣鎌足の唐の政治知識が役に立ったと考えられています。大化の改新には唐の官僚制と儒教の需要が見て取れるのが特徴です。

功績2「中大兄皇子と手を組み、蘇我入鹿を殺害する」

蹴鞠は仏教と共に伝来したという

かねてより蘇我氏体制打破を目指す中臣鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)と手を組み、実権を握る蘇我入鹿を暗殺するというクーデター(乙巳の変)を成功させます。この乙巳の変で蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷も自殺をしてしまいました。

中大兄皇子と中臣鎌足の出会いはとてもドラマチックだったといいます。飛鳥寺で蹴鞠があっていた時に中大兄皇子の靴が逃げてしまい、中臣鎌足がその靴を拾って渡したのがきっかけと言われています。これが縁で鎌足は中大兄皇子に仕えることになりました。

功績3「中大兄皇子と共に大化の改新をすすめる 」

斉明天皇

大化の改新の時、斉明天皇が帝位についていましたが、実権は中大兄皇子が握っていました。蘇我氏を打倒した後、中大兄皇子と共に大化の改新を推し進めました。内容は天皇を中心とした律令国家を作ることです。

これにより、地方の豪族が支配していた連合国的な組織だった日本が、天皇中心の律令国家に変更しようとしたのです。これは、唐国の政治を参考にし、中央集権国家制を目指すのが目的でした。

これは、今までの政治体系を根本から変える日本政治の大事業でした。改新の詔から実践された公地公民制、租庸調の税制などの主要政策は、地方社会への影響が大きいものであり、浸透まで長い年月をかけて整えられていきましたが、そのきっかけを作った大化の改新の功績は大きいです。

中臣鎌足の名言

鏡王女の墓、額田王の姉だったと言われている

玉櫛笥 みむろの山の さな葛さ 寝ずはつひに 有りかつましじ

これは妻となった鏡王女に送った歌です。訳は「三輪山のさな蔓がいつもはって(寝て)いるように、お前と一緒に寝ないではいられないのだ」と率直な感情を歌っています。お前と寝たいからこうして寝たのだとはっきり言う中臣鎌足の飾らない人柄が伝わってくる歌です。

采女は天皇に仕える女官だった

われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり

訳は「私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ」というものです。安見児は、天皇に仕える采女でした。

当時は采女とは、各国の豪族から女官として天皇に献上された美女たちです。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であったといいます。

鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜ったのであろう事が予測されます。上の歌には万葉らしく、鎌足の二重の喜びが素直に表現されており、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉を表しています。

中臣鎌足の人物相関図

中臣鎌足にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「蘇我入鹿とは同級生だった」

蘇我入鹿の首塚

中臣鎌足は蘇我入鹿と同じ塾に通っていたそうです。二人とも非常に優秀で、南淵請安の塾での双璧と評価されていたようです。近年のドラマでも、その事実を脚色してお互いが切磋琢磨をしていたというシーンがあったりします。

しかし実際は、蘇我氏は大臣、中臣氏は中臣と身分が違いすぎるため仲が良くなる、悪くなる程の関係性を築くことは無かっただろうということが、定説のようです。

都市伝説・武勇伝2「鎌足が生まれた時白い狐が現れた」

談山神社の藤原鎌足像

伝説によると、中臣鎌足が生まれてきたときに、どこからか鎌を咥えた狐が出てきて、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名付けたといいます。この話にちなんで、藤原鎌足が祭神の談山神社では、鎌を咥えた白狐のお守りが売られているといいます。

以前は、当初「鎌子」と名乗り後に「鎌足」に改名したと考えられていましたが、近年は本来の名前は「鎌」一文字で「子」や「足」は敬称に用いる文字という説が有力になっています。

都市伝説・武勇伝3「中臣鎌足の墓が発見された!?」

阿武山古墳

1934年発見された阿武山古墳が発見され、内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺が日本で初めて発見されました。

棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。そして、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられたといいます。

しかし、この貴重な発見は、宮内庁などにより「天皇家の墓の可能性もあり、調査は冒涜である。」として、埋め戻されました。後の1982年発見されたときに撮ったX線が発見され分析の結果、被葬者は脊椎の損傷による合併症で亡くなったこと、金の糸は冠の刺繍糸だったことがだったことが判明しています。

阿武山古墳の出土品のレプリカ

これらの分析の結果により、鎌足の死因が馬の転落によるものだったことと、この冠がおそらく当時の最高冠位「織冠」を与えられたのは、百済皇子の余豊璋と中臣鎌足だけであり、ほぼ藤原鎌足で間違いないだろうと報道されたといいます。ただし、「藤氏家伝」には京都の山科に葬られたという記述になっており、はっきりとした確証までは至っていない状態です。

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