後鳥羽上皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や伝説、和歌も紹介】

後鳥羽上皇の功績

功績1「鎌倉幕府打倒を掲げた承久の乱を起こす」

北条氏系図

承久の乱とは、1221(承久3)年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時に対して討伐の兵を挙げた反乱です。後鳥羽上皇の皇子を皇族将軍として鎌倉に迎えたい幕府に対して、後鳥羽上皇が提示した条件を幕府が拒否したことが背景にありました。

後鳥羽上皇の幕府に示した条件とは、上皇側が年貢を徴収するために、上皇の荘園に派遣されている地頭を撤廃させることと、上皇に味方している武士を西面の武士として取り立てることでした。この条件を受け入れられない義時は、弟の北条時房に軍勢を連れて上京させ、武力で脅して解決しようとしますが、上皇は屈しなかったのです。

鎌倉の御家人たちは、頼朝の妻・北条政子による「頼朝から受けた御恩を忘れるな」という呼びかけに応え、軍備を整えて上京、後鳥羽上皇側の軍勢をあっという間に蹴散らしました。上皇側の敗因として、位の高い在京御家人は味方にしていたものの、下級御家人たちを取り込むことができなかったことが指摘されています。

岐阜県各務原市にある
承久の乱における戦没者の五輪塔

承久の乱の敗北により、後鳥羽上皇は隠岐島へ配流されることで、反乱の決着がつくことになりました。

功績2「幕府優位の二元支配時代を迎え日本史の流れを変えた」

保元・平治の乱合戦図屏風

貴族階級が政治の中心であった平安時代でしたが、保元・平治の乱以後は武家階級が台頭し始めます。そして源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、国内は西日本の朝廷と東日本の鎌倉幕府という二つの権威が並び立つようになりました。後鳥羽上皇は当初、3代将軍源実朝と協調して国を治めていくつもりでしたが、実朝の暗殺により方向性が変わります。

そして承久の乱で上皇が負けたことにより、幕府は朝廷より優位に立つようになり、日本の歴史は本格的な武家政権時代へと変わっていくのです。そういう意味で承久の乱は日本の歴史の転換点であり、後鳥羽上皇は皮肉にも朝廷中心の政治の幕引きをしたことになりました。

功績3「新古今和歌集を生み出した中世の代表的歌人」

後鳥羽上皇は和歌を利用して国を治めようと考えていたようで、自らも和歌を詠むだけではなく、勅撰和歌集を編むことで権威を高めようとしていました。そして生まれたのが「新古今和歌集」です。そしてこの裏には、藤原定家という天才的な歌人との出会いがありました。

藤原定家

後鳥羽上皇と藤原定家との間には、和歌を愛する者同士の嫉妬や尊敬など複雑な感情が交錯していたようです。しかし藤原定家が選んだ「小倉百人一首」の99番目に後鳥羽上皇の隠岐で詠んだ歌が入っているところを見ると、色々言いつつも結局藤原定家は自分の歌の才能を見出してくれた後鳥羽上皇に感謝していたのだろうと思います。そして上皇の歌の才能も認めていたのでしょう。

功績4「重要文化財の太刀「菊御作」は天皇家の紋章「菊紋」の源に追記」

天皇家を表す菊花紋章
出典:Wikipedia

この「菊御作」を始め、後鳥羽上皇が鍛えた剣には菊の銘を付け自ら作った印としたのです。この使用された「菊の御紋」が、皇室で使われ始め天皇家の家紋となりました。どうして紋に菊を用いたかというと、後鳥羽上皇が菊の花をたいへん好んでいたからといわれています。

後鳥羽上皇の名言

後鳥羽上皇の歌が載っている札

人もをし 人をうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

小倉百人一首の99番目の作品として載っているこの歌は、承久の乱が起こる前、「五人百首」という五人で合わせて百首の和歌を読むという歌会で、33歳の後鳥羽上皇が詠んだと言われています。

「人を愛おしいとか恨めしいと思ってしまうのは、自分がこの世の中をつまらないと思っているからだ」という意味です。この和歌は題知らずとなっているので、詳しい背景はわかりませんが、幕府との不和や貴族社会の終わりを感じる日々の中で、後鳥羽上皇が抱いていた思いなのかもしれません。

ほととぎす雲ゐのよそに過ぎぬなり晴れぬ思ひの五月雨のころ

新古今和歌集に収められている和歌です。「ほととぎすは雲のかなたに過ぎ去っていったよ、思いが晴れない五月雨の頃に」という意味になります。和歌の世界では「ほととぎす」というと恋の話を指しますが、宮中では恋も思うようにいかず、心中は五月雨が続いたように涙に濡れて晴れないことを詠んでいます。

新古今和歌集

この和歌は、承久の乱で幕府軍に負けた悔しい想いを詠んだとも言われますが、承久の乱より前に編まれた新古今和歌集に収録されていることからして、そういった政治的な意味合いはないでしょう。純粋に、五月雨が続いて恋人に会えない悲しみを詠んだと思われます。

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火

夫木(ふぼく)和歌抄という私撰和歌集に収められています。「よ」は「夜」「世」、「うみ」は「海」「倦み」など、たくさんの掛け言葉が使われ、後鳥羽上皇の秀歌として知られています。「おき」は「沖」に「隠岐」の意味もあるとも考えられ、隠岐へ流罪になる前の作品ですが、後鳥羽上皇の予感のようなものがあったのでしょうか。

藤原長清によって編纂された
鎌倉時代後期の私撰和歌集・夫木和歌抄

「人の世を倦み、夜の海を渡っていく漁師が、隠岐の国の沖の海に篝火を灯しているよ」といった意味になります。

見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋となに思ひけむ

水無瀬宮にて詠んだ歌とされている、新古今和歌集の一首です。高校の古文の教科書でも後鳥羽上皇の和歌としてよく扱われます。「見渡してみると、山の麓がかすみ、そこに水無瀬川が流れている。夕べは秋が良いなどとなぜ思っていたのだろうか?春の夕べもこんなに素晴らしいのに」という意味です。

現在の大阪府高槻市と
三島郡島本町を流れる水無瀬川

この和歌は、清少納言の” 枕草子 ” にある、「春はあけぼの〜秋は夕暮れ」という一節を踏まえた上で、春の夕暮れの美しさについて訴えています。

後鳥羽上皇の人物相関図

後鳥羽上皇にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「怨霊になった?!後鳥羽上皇」

後鳥羽上皇が祀られている
大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮

後鳥羽上皇が隠岐に流されて以降、その怨念や生霊に多くの人が恐れを抱いていました。全国的な飢饉が起きたり皇族が相次いで早逝する度に、後鳥羽上皇の怨霊だと囁かれました。そのため、後鳥羽上皇が1239年に亡くなると、これまで使われていた「隠岐院」という呼び名ではなく「顕徳院」という諡号(おくり名)が贈られます。

北条泰時

しかしそれ以後も要人の急死が続き、3代執権北条泰時は1242年、数日間高熱に苦しんだ挙句に絶命しました。そこで後鳥羽上皇の諡号を「顕徳院」から「後鳥羽院」に改めるという前代未聞の対応をして霊を鎮めようとしたのです。

効果があったのかどうかは分かりませんが、13世紀後半には後鳥羽上皇の怨霊説は落ち着くことになります。

都市伝説・武勇伝2「隠岐への配流ルートをめぐる後鳥羽伝説」

現在の隠岐島

後鳥羽上皇が都から隠岐島へどのような道を辿って行ったのか、明確な史料が残っておらず、今は「後鳥羽上皇伝説」として伝わっています。都を出て水無瀬、明石、長井の浦(糸崎港)まで向かい、ここから北上して出雲大湊へ行き、隠岐島へ着いたというルートが一般的です。このルート沿いには、上皇の足跡を伝える伝説が各地に残っています。

三次市にある後鳥羽上皇御陵
出典:霧の海通信・ふるさとの風景

一方、このルートから外れますが広島県三次市にも、後鳥羽上皇が隠岐へいく途中、この地で崩御したという伝説や、隠岐から逃れてきてこの地で亡くなったといった話が残っています。

都市伝説・武勇伝3「後鳥羽上皇の歯と指を入れた観音菩薩?」

中世では、自分の歯や髪の毛を仏像などの胎内に納めて願掛けをすることがありましたが、後鳥羽上皇は自分で彫った十一面観音像に歯と小指を納めたと書き残しています。後鳥羽上皇はこの十一面観音を都に置いて欲しいと願ったようです。

国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文

そもそも、この十一面観音が実在するのかどうか分からず、後鳥羽上皇が亡くなる直前に押したと思われる手形には、後鳥羽上皇の小指もしっかり写っているため、この話が真実かどうかはっきりしません。しかし、そんな伝説が生まれるほど、承久の乱を起こした後鳥羽上皇の思いは強かったのでしょう。

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