後鳥羽上皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や伝説、和歌も紹介】

後鳥羽上皇の年表

1180〜1191年 – 1〜12歳「政治的混乱を極めた幼少期」

後鳥羽上皇の父・高倉天皇

尊成親王の誕生

1180(治承4)年8月6日、尊成親王のちの後鳥羽上皇は、第80代高倉天皇の第4皇子としてこの世に生を受けました。母は藤原(坊門)殖子です。

以仁王が命を落とした宇治平等院の戦い

1180年は以仁王が平氏追討の令旨を発した年であり、源平の争乱が本格化した時期でした。尊成親王の異母兄にあたる安徳天皇が3歳で践祚しています。父・高倉天皇が太上天皇となり、院政を始めますが、病を得て1181年に亡くなってしまいました。

神器なき即位

1183年、源義仲が入京すると、安徳天皇は三種の神器を携え、平氏一門と共に西国へ都落ちしました。これでは都での天皇の政務が停滞してしまうことから、都に残っていた後白河法皇は、神器が揃わない状態ではあるものの新しく帝を立てる必要があると考えました。

安徳天皇

高倉天皇には尊成親王の同母兄にあたる第二皇子・守貞親王もいましたが、平氏が安徳天皇の皇太子として西国へ共に連れ去っていたために不在でした。第三皇子・惟明親王は母(平範子)の身分が低かったことなどを理由に天皇候補から除外され、尊成親王に白羽の矢が立ったのです。

1183年9月8日、尊成親王は後鳥羽天皇として践祚しました。安徳天皇は退位しないままであったため、1185年3月の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水するまでの2年間は、安徳天皇と後鳥羽天皇の2人の天皇が並び立つ、異例の事態が続きました。

後白河法皇の院政時代

1190年、三種の神器が揃わないまま、後鳥羽天皇の元服の儀が執り行われました。1185年以降、三種の神器の捜索は続けられていましたが、草薙剣だけが見つからず、伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を「形代」とすることになりました。それが現在でも残されていると言われています。

京都・長講堂にある木造後白河法皇像
(重要文化財)

1192年3月に後白河法皇がこの世を去るまで、後鳥羽天皇の御代ではありましたが、後鳥羽天皇がまだ幼かったこともあり、実質的には後白河法皇の院政が敷かれていました。

1192〜1197年 – 13〜19歳「後鳥羽天皇の治世」

皇子・皇女の誕生

後鳥羽天皇の子女として、1195年に昇子内親王(母・九条任子)と為仁親王(母・源在子)が誕生しています。為仁親王は後の土御門天皇ですが、母である在子は土御門通親の養女です。在子が親王を産んだことで、土御門通親が将来的に外祖父として朝廷で権力を握る構図が見えてきたことで、政治勢力図は変化していくことになります。

土御門通親

1197年には守成親王が誕生しました。母は後鳥羽天皇の寵姫として知られる藤原重子です。重子の母は平家の生き残りとなった平教子でした。後鳥羽天皇は幼少期に教子の嫁いでいた藤原範季邸で養育されていた時期もあることから、後鳥羽天皇が潜在意識の中で源氏に対する憎しみを抱き、承久の乱を起こすきっかけになったとも言われています。

順徳天皇

守成親王は激しい気性の持ち主で父・後鳥羽天皇に愛され、後に順徳天皇として即位します。承久の乱では父と共に計画に参加し、乱の後には佐渡に配流されました。

建久7年の政変

後白河法皇亡き後、朝廷では源頼朝の支持を受けて九条兼実(後鳥羽天皇の中宮・任子の父)が権力を握っていました。兼実は頼朝への征夷大将軍宣下を取り計らうなど、二人は良好な関係を保っていましたが、兼実の娘・任子が中宮となっている後鳥羽天皇の元に、頼朝が娘・大姫を入内させようと画策したことで状況が変わり始めます。

大姫

1196年、兼実は、政敵の土御門通親により失脚させられました。これは建久7年の政変と呼ばれます。

1198〜1209年 – 20〜31歳「後鳥羽上皇としての院政時代」

土御門天皇

土御門天皇の即位

1198年、為仁親王が即位して土御門天皇となります。後鳥羽天皇は太上天皇として院政を始めました。土御門天皇の外祖父にあたる土御門通親は、後鳥羽上皇に意見できる唯一の権力者でしたが、1202年に急死してしまいます。すでに九条兼実は出家しており、源頼朝も他界していたため、後鳥羽上皇は治天の君として全ての実権を握るようになります。

また、院の警護や京の治安維持のため、後鳥羽上皇直属の組織として西面の武士を設置しました。これは鎌倉御家人を中心に選ばれ、従来置かれていた、主に公家から選ばれる北面の武士とは違って軍事力の高いものでした。鎌倉幕府方の武士を影響下に置くことで、幕府に対抗できる力を持つようになるのです。

公武協調時代

源実朝

鎌倉幕府では1203年に源実朝が第3代将軍に就任していました。後鳥羽上皇は源実朝を利用して鎌倉幕府を制御しようとする一方で、源実朝は和歌への造詣も深いことから都への憧れを強く抱いていました。こうした背景から公武協調が進み、朝廷と幕府の二元支配が続きます。

新古今和歌集の編纂

和歌所について説明してある拾遺都名所図会

後鳥羽上皇は中世文学史にも残る歌人として高い評価を受けていますが、文化活動にも熱心でした。1201年には和歌所を設け、第8番目の勅撰和歌集となる「新古今和歌集」の編纂を命じました。藤原定家・家隆などによって編まれましたが、後鳥羽上皇自身も編纂に携わったようです。

後年、「新古今調」と呼ばれる新しい歌風を開いたとされる新古今和歌集は、1205年に完成します。

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