1210〜1221年 – 32〜43歳「幕府打倒へ」
順徳天皇の即位
1210年、後鳥羽上皇は土御門天皇に退位を迫り、守成親王を順徳天皇として即位させます。順徳天皇はこの時14歳で、後鳥羽上皇が引き続き院政を敷きました。順徳天皇は、公家社会の儀式や典礼について研究し、有職故実の書として1221年に「禁秘抄」を著しています。
源実朝暗殺事件
源実朝は源頼朝の次男で、2代将軍であった兄・頼家が殺された後に12歳で3代将軍となっていました。後鳥羽上皇とは和歌という共通の興味もあり、また公武協調という路線を進める上からも、後鳥羽上皇は実朝を官位の上でも優遇し、1218年には実朝は武士として初めて右大臣にまで昇進します。
ところが1219年、鶴岡八幡宮へ拝賀に訪れた際、実朝は源頼家の息子である公暁に襲われて絶命しました。将軍空位という異常事態を早く脱しようと、幕府側は実朝存命中より進めていた後鳥羽上皇の親王を皇族将軍として鎌倉へ下向させる話を進めるべく、後鳥羽上皇のもとに使者を送りました。
しかし、心を通わせていた実朝の命を守りきれなかった幕府に対する上皇の恨みは大きく、親王の下向は国を二分する可能性があるからとこの要求は受け入れられませんでした。ただし、代わりに関白摂政の子息を将軍にするなら良しとする妥協案が出され、鎌倉幕府は摂家将軍を迎えることとなります。
大内裏焼失事件
1219年、大内裏が焼失する事件が起こります。源頼茂(よりもち)という在京御家人が謀反を起こした際、頼茂は仁寿殿(じじゅうでん)に立てこもって火を放ったため、その火が内裏中に飛び火し、多くの建物が焼失してしまったのです。この事件の背景には幕府内の権力闘争があったものと考えられています。
後鳥羽上皇は、三種の神器がなく即位したという特殊な事情を抱えていたこともあり、こうした天皇の権威の象徴たる大内裏の焼失は痛恨の極みであったようです。実際、この事件が起きてから、後鳥羽上皇は1ヶ月以上も病床についていたと記録に残っています。
後鳥羽上皇はすぐさま大内裏の再建に取り掛かります。しかし再建費用を賄うための増税に対する抵抗など、様々な問題が起こりました。幕府を自分のコントロール下に置いておきたい後鳥羽上皇としては、徴税といった政治・経済的な面で幕府が独立して動きつつあることにストレスを感じ、それが承久の乱の引き金となっていくのです。
承久の乱
1221年4月2日、順徳天皇は懐成親王(仲恭天皇)へ譲位します。順徳天皇が、父後鳥羽上皇と共に承久の乱を起こす布石でした。仲恭天皇は4歳で践祚しますが、承久の乱で皇位を廃されるため、日本史上最短期間となるわずか78日間の在位となりました。
後鳥羽上皇は在京御家人の取り込み工作に勤しみます。そして5月15日、「北条義時追討の院宣」を下します。後鳥羽上皇の元には、約1,700名の武士が集まりました。鎌倉幕府側は、頼朝の妻・北条政子が御家人たちに対し有名な叱咤激励の演説を打ったことで軍勢にまとまりを見せ、京都へ派兵しました。軍勢の数は19万人とも言われています。
朝廷側は負け、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ島流しに決まりました。幕府は仲恭天皇を退位させ、後鳥羽上皇の甥にあたる後堀河天皇を即位させます。後鳥羽上皇が支配していた荘園は幕府が没収しただけでなく、内大臣には親幕派の西園寺公経を任命し、朝廷は幕府のコントロールのもとに置かれるようになったのです。
1222〜1239年 – 44〜60歳「隠岐で過ごした晩年」
隠岐へ配流
後鳥羽上皇は出家して法皇となり、隠岐へと向かいました。隠岐島は島前(どうぜん)と島後、そして多数の小さな島で形成されていますが、後鳥羽法皇が向かったのは島前の中ノ島(現在の海士町)です。ここで和歌活動と仏道修行の日々を過ごしました。何度か還京の話も持ち上がりましたが、幕府は承久の乱の前の朝廷に戻すつもりはないと許さなかったようです。
1239年2月9日、後鳥羽法皇は死を悟ったのか、長らく仕えていた水無瀬親成に置文を書きます。自分が愛した水無瀬の所領を与えるので、そこで菩提を弔って欲しいという内容でした。
崩御
1239(延応元)年2月22日、後鳥羽法皇は隠岐で没しました。享年60歳でした。後鳥羽法皇が幼い頃より可愛がり、隠岐でも共に暮らしていた西蓮(藤原能茂)が遺体を火葬し、遺骨を都に持ち帰りました。
後鳥羽上皇の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
実朝の首
源実朝が暗殺された時に、首は行方不明になったと言われています。現在、首塚が神奈川県秦野市にありますが、そこをとっかかりに作られた小説です。筆者の時代小説は、文字から美しい日本の風景が目に浮かび、豊かな気分になりますが、本書は実朝が暗殺された日の情景も描いています。悲しい場面でありながらも、雪の白と鶴岡八幡の朱塗りのコントラストが、まるで映画のようです。
鎌倉時代初期は政局も混乱を極め、わかりづらいですが、こうした小説から入ると理解しやすいと思います。
承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱
承久の乱の歴史上の解釈について、最新の研究を紹介している本です。学校では承久の乱を「後鳥羽上皇が倒幕を狙って起こした乱」と習いますが、後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を目指しただけであり、鎌倉幕府を倒そうとは思っていなかったという説は、とても興味深いものでした。
また、本書を読むと、後鳥羽上皇や源実朝に対する見方も大きく変わりました。今までどれだけ先入観を持って見ていたかを痛感します。承久の乱について大体知っているという人でも、これを読むと新たな発見があるでしょう。そして、日本史の中での承久の乱の位置付けを知るという意味でも、ぜひおすすめしたい一冊です。
後鳥羽院
小説・随筆・評論家であり、翻訳も手掛けていた鬼才・丸谷才一が1973年に読売文学賞を受賞した作品です。後鳥羽院の和歌の解釈について、和歌の技巧、後鳥羽上皇がその和歌を詠んだ時に置かれていた状況、藤原定家との相違点などが書かれています。後鳥羽上皇の歌人としての再評価が実に心地よい作品です。
個人的には、和田誠による表紙に描かれた後鳥羽上皇の絵がとても好きです。上皇という立場を離れ、後鳥羽という一人の歌人の話だということを訴えているような、とても親近感溢れる肖像画です。
おすすめの動画
本郷和人 戦いの日本史ー武士の時代を読み直すー
「やばい日本史」の著者としてもお馴染みの東大教授・本郷和人によるトーク動画です。筆者が表題の本を紹介しているのですが、印象深い人として後鳥羽上皇の話をしています。後鳥羽上皇は独自に武家棟梁を作ろうとした人という解釈は興味深いですね。
この本自体は中世の通史を扱っています。権力の移り変わりなど鳥瞰してみる日本史はとても面白いです。長めの動画ですが、軽妙な話ぶりで、ついつい先が聴きたくなります。本ではもっと掘り下げた内容になっているので、動画で興味を持ったら本を読むのもおすすめです。
【鎌倉時代】99 承久の乱【見て覚える日本史シリーズ】
承久の乱について、写真や映像を用いて説明しています。承久の乱の地図を見ると、実際に戦ったときの様子が想像できて分かりやすいです。承久の乱の前後についても解説されており、系図も並べて紹介されているので、混乱しがちな人物関係も理解しやすかったです。何よりも動画自体が短いので、気軽に見られるところがおすすめです。
おすすめドラマ
草燃える
「草燃える」は1979年度NHK大河ドラマ作品で、源頼朝を筆頭に源氏三代の歴史を北条政子の視点で描かれ、最終回で承久の乱が登場しました。後鳥羽上皇は初代尾上辰之助が演じています。初代尾上辰之助は40歳で早世してしまったので、この後鳥羽上皇役は初代辰之助にとっても代表作として知られています。
鎌倉殿の13人
2022年度NHK大河ドラマは、脚本家の三谷幸喜が、鎌倉時代の二代執権北条義時を中心に描く「鎌倉殿の13人」という作品に決定しています。北条義時は、後鳥羽上皇が承久の乱で討伐しようとした人ですので、当然大河ドラマにも主要な登場人物として出るものと思われます。
キャストはまだ主演の小栗旬のみしか情報公開されていませんが、後鳥羽上皇を誰が演じてくれるのか、承久の乱をどう見せてくれるのか、非常に楽しみです。
関連外部リンク
- 後鳥羽上皇御陵・後鳥羽院尊儀 | 三次観光公式サイト
- 天皇陵-後鳥羽天皇 大原陵(ごとばてんのう おおはらのみささぎ)
- 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」-資料室
- 「しまね観光ナビゲーション」隠岐・和歌の世界を散策~村上家
- 後鳥羽上皇/米原市
- 順徳天皇 所縁の地
- 後鳥羽院(トップ / くらし / 文化・スポーツ / 文化振興 / 文化芸術情報 / しまね文学マップ / 島根ゆかりの文学者)
- 和歌データベース
- 後鳥羽院御口伝
- わたしたちの長浜
- 後鳥羽上皇行在所跡
- |新温泉町
- 水無瀬神宮
- 文化遺産オンライン
- 東京国立博物館 – トーハク
後鳥羽上皇についてのまとめ
後鳥羽上皇は知れば知るほど興味深い天皇です。生まれた境遇には逆えずとも、自らの努力でそれを跳ね除けようとした、バイタリティー溢れる人物像は、皇族の中では珍しい人のようにも思います。
幕府に対して反旗を翻したという点で、後鳥羽上皇は南北朝時代の後醍醐天皇ともしばしば比較されますが、後醍醐天皇の方が倒幕に対する計画は杜撰であったと言われています。ただ、後醍醐天皇の場合は周囲に軍勢を持つ有能な武将たちがいたわけで、後鳥羽上皇の生きた時代にはまだそうした武将はあまり育っていませんでした。
そういう意味で後鳥羽上皇は、一人で全てを背負わねばならない大変さもあったのかも知れません。そんな力んでしまう気持ちを和歌でほぐしていたのだとすれば、きちんと息抜きの出来る、素敵な生き方だったようにも思います。そしてそんな和歌の力を政治にも使ってしまう後鳥羽上皇の抜け目なさにも、筆者は惹かれました。
この記事をきっかけに、日本史の大きな転換点を生きた後鳥羽上皇について関心を持ってもらえる人が増えたら、この上なく嬉しいです。