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Q21/Q30

この場所から出土した事からその名がついたとされる土器は次のうちどれでしょう?
弥生土器は、1884年に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現・東京都文京区弥生)から出土した事にちなみ、弥生町からその名を名付けられたとされています。縄文土器よりも薄くて硬いのが特徴的で、火炎土器のような装飾品が少ないのも特徴の一つです。 
Q22/Q30
弥生時代の大きな特徴として、中国から渡った人物によってある農産物を育てる技術が全国的に広まりました。その農産物とは次のうちどれでしょう?
稲作は、中国から伝来したものと言われており、紀元前5世紀中ごろから九州北部へと伝わり、日本中へと広まったと言われています。また、稲作普及に伴い、米を備蓄する倉庫として「高床倉庫」なども登場しました。 

Q23/Q30
弥生時代の早期に稲作が行われていたとされる福岡県の遺跡は次のうちどれでしょう?
板付遺跡は福岡市博多区板付にある遺跡で、縄文時代後期から弥生時代後期にかけての史跡が残されている遺跡となっています。この遺跡から出土した「板付土器」などの研究から日本最古の弥生時代の遺跡と判明しました。また、炭化米のついた土器なども発掘され、稲作農耕が行われていたことも分かりました。 

Q24/Q30

弥生時代の大規模な環濠集落跡地が残されている佐賀県の考古遺跡は次のうちどこでしょう?
吉野ケ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがっている吉野ケ里丘陵にある遺跡です。外濠と内濠の二重構造となっているのが特徴的な環濠集落で、外敵から守るために作られた木柵、土塁などが特徴的です。 
Q25/Q30

弥生時代に入ると、人々は青銅を使った道具などを使用するようになりました。それでは、この道具の名称は次のうちどれでしょう?
銅鐸は、釣鐘のような形をした青銅器です。詳しい使用用途は未だに解明されていませんが、主に祭祀の時などに使用されたものだと思われています。
Q26/Q30
弥生時代中頃になると、各地に力を持った豪族などが出現し、国を作るようになりました。中でも、3世紀ごろに存在したと言われる国は次のうちどれでしょう?
邪馬台国は、日本に存在した国の一つです。その場所は、近畿や四国、九州など様々な説がありますが、未だに謎の部分が多い王国とされています。また、独自に中国の晋や魏に使いを出していたことが中国の歴史書などに記録されております。
Q27/Q30

中国の歴史書である「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国を統率していた女王は次のうち誰でしょう?
卑弥呼は、邪馬台国を統べていた女王です。中国の歴史書「魏志倭人伝」には本人は人前に姿を現さず、骨を焼いてその割れ目で吉凶を占うことで人々を惑わしていた、と記録されています。 

Q28/Q30

中国の歴史書「後漢書東夷伝」に登場し、友好の証として日本の国へ送られた「金印」には何という字が刻印されていたでしょうか?
「漢委奴国王」とは、江戸時代に水田を耕作中であった農民の甚兵衛と言う人物が発見した金印に刻印されていた文字です。中国の歴史書「後漢書東夷伝」には、この金印の事が記されており、57年ごろに奴国からの使者に渡したことが記録されています。 

Q29/Q30
先述の金印が発掘したとされる福岡県の島は次のうちどこでしょう?
志賀島は、福岡県福岡市東区に所属する離島で、博多湾の北部に位置する島です。古代日本においては、海上交易の出発点として重要視されていた場所でした。金印が出土した場所が、筑前国那珂郡志賀島村東南部であったことから現在の志賀島と推定し、現在は「漢委奴國王金印発光之処記念碑」が設置されています。 

Q30/Q30

弥生時代末期になると、各地に大型の丘陵のようなものが出現します。これらはどのような役割があるでしょうか?
弥生時代後期頃になると、大きな集落が小さな集落を従わせ、一つの国のようなものを形成します。そして、その国を治める首長者が亡くなったときに、自身の力の大きさを示すために、大きな墓を建てるようになりました。これを、「墳丘墓」といいます。この墳丘墓には「四隅突出型墳丘墓」などが存在し、これが次の「古墳時代」へと繋がっていきます。 

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