イギリス国教会とは?成立や教会のしくみを歴史年表つきで解説

イギリス国教会の成り立ち

カンタベリー大聖堂

この章ではイギリス国教会の成り立ちと、それを理解するのに欠かせないヘンリー8世について解説します。

イギリス国教会はどうやって成立したのか

ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン

イギリス国教会は、イングランド王ヘンリー8世の治世で成立しました。1509年、ヘンリー8世は亡くなった兄の未亡人であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚しましたが、二人はなかなか子宝に恵まれず、唯一生まれたのは女性のメアリーだけでした。そこでヘンリー8世は、後継者となる王子を産めない王妃との離婚を決意します。

しかし、当時婚姻は協会の管理下にあったため、いくら王といえどもローマ教皇の許可なしには離婚はできません。 そこで、ヘンリー8世は、カトリック教会から離脱し、王の側近であったトマス・クロムウェルの協力を得てイギリス国教会をつくり、1534年、国王をイギリス国教会の長とする「国王至上法(首長令)」を制定すると、国教会のトップに君臨しました。

トマス・クロムウェルが中心となって委員会が結成され、カトリック教会の拠点である修道院を廃止するともに、修道院が保持していた財産は国家へ移されます。その後、ヘンリー8世の後継者となったエドワード6世が、国教会の教義を広め改革を進めた後、エリザベス1世の時代に国教会の態勢が確立されました。

ヘンリー8世とはどんな人物なの?

ヘンリー8世

ヘンリー8世は、テューダー朝第2代のイングランド王です。ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として生まれました。兄アーサーの急死により10歳のヘンリーは王太子となり、1509年に父ヘンリー7世が亡くなると、ヘンリー8世として即位しました。

ヘンリー8世は、182cmの高身長と広い肩幅の持ち主で、スポーツに優れており、度々馬上槍試合や狩猟を催しては、荘厳な衣装をまとって外国大使らの前に現れたと言います。また、ヘンリー8世は、王室史上最高のインテリと呼ばれるほど才能豊かで、ラテン語、スペイン語、フランス語を話し、楽器を演奏しては作曲なども行ったようです。

一方、ヘンリー8世は、結婚と離婚を繰り返して生涯に6人の妻を娶り、そのうちアン・ブーリンとキャサリン・ハワードという2人の王妃を処刑するという残虐性でも有名です。ローマカトリックと決別し、イギリス国教会をつくるきっかけとなったのも、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、アン・ブーリンと結婚するためでした。

イギリス国教会の歴史年表

イギリス国教会の聖地 カンタベリー大聖堂

紀元200年「ブリテン島にキリスト教が伝来」

ローマ帝国の支配下にあったイングランドに、軍人、商人などの中にキリスト教徒がいたと考えられています。ウェールズ、スコットランド、アイルランド、それぞれ別々に宣教されました。

664年「ウィットビー教会会議」

ノーザンブリアのオスウィの指導によって、それまでのケルト的な典礼が廃止され、ローマ式典礼が取り入れられました。

1533年「教皇上訴禁止法が制定」

1533年に「教皇上訴禁止法」が制定されると、聖職者の教皇への上訴が禁じられ、教皇に代わってカンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになりました。

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