徳川斉昭はどんな人?生涯・年表まとめ【功績や逸話、死因も紹介】

徳川斉昭は江戸時代の終わり頃、幕末と言われる時代を生きた人物で、水戸藩(現在の茨城県)の藩主です。

当時の幕府では、開国を要求してくる外国に対して、どのように接するか意見が分かれていました。斉昭はその幕府の政治にも参加して、時代を引っ張る役割を果たしました。

徳川斉昭の肖像画・京都大学図書館の所蔵

斉昭は一貫して開国に反対、外国とは戦うべきだという考え(これを攘夷論と言います)を持っており、「烈公」と呼ばれたことでも知られています。それだけを聞くと頭の固い頑固な人を想像するかもしれませんが、そうではありませんでした。

身分に関係なく、能力のある者を登用するべきだと考え、そのために藩校という教育機関を設けました。家柄や身分に縛られていた当時の若者はきっと希望を持ったに違いありません。

この記事ではそんな徳川斉昭について、その生涯から功績や逸話、死因や名言などを紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

徳川斉昭とはどんな人物か

名前徳川斉昭
誕生日1800年4月4日
没日1860年9月29日
生地水戸藩の江戸小石川藩邸
没地水戸
配偶者有栖川宮織仁親王の娘・吉子女王
埋葬場所瑞龍山(茨城県常陸太田市)

徳川斉昭の生涯をハイライト

斉昭が創設した藩校・弘道館の正門(国の重要文化財)

斉昭は水戸藩の7代藩主徳川治紀の3男として生まれました。水戸学を学んだ斉昭は、とても聡明だったということです。

水戸学は、水戸藩で出来上がった政治思想を学ぶための学問で、儒学を始め、さまざまな学問の要素が合わさって出来上がっています。水戸学では政治を行うために大切な精神を学べるため、多くの人に影響を与えました。斉昭の政治家としての面は、水戸学によって作られたと言えるでしょう。

そんな斉昭は、跡継ぎの長男の控えとして、30歳を過ぎるまで実家暮らしをしていましたが、1829年に長男が死去、家督を継ぐことになりました。藩校を創設するなど、積極的に藩の改革を行った斉昭は幕府の政治にも関わるようになります。

幕府では、天皇を敬い、開国を迫る外国人とは戦うべきだと主張して、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立。更に将軍の跡継ぎ問題でも、井伊直弼と対立します。

これに破れた斉昭は、その後自宅に謹慎させられ、そのまま60歳で亡くなってしまいます。

徳川斉昭の政治手腕

水戸学の学者・藤田東湖(ふじたとうこ)も
斉昭に見いだされた1人

藩主になった斉昭は積極的な改革を行いますが、中でも代表的なのは藩校を創設したことです。藩校の名は弘道館。ここで斉昭は身分の上下を問わずに有能な人材を見出します。

弘道館で有能な人材が次々と育ったため、水戸学が日本中に知られることになりました。

また斉昭は人材育成だけでなく、農業に力を入れ、藩の財政を回復させようと試みます。そのために専売制を取り入れました。特産物の生産と販売を藩で管理したのです。黒船来航にも危機感を持っていたため、軍事訓練や、近代的な兵器を製造して非常事態に備えていました。

万全に思える改革でしたが、寺社の釣り鐘や仏像まで大砲の材料にしてしまうやり方に幕府が危機感を覚えたようです。1844年、斉昭は強制的に隠居させられ、謹慎処分まで受けてしまいます。しかし、1846年に謹慎が解け、その後藩の政治に関与することも認められました。

徳川斉昭・幕府の政治に関わり、幕末を動かす

日本の版画に描かれたペリー・日本人にとっては脅威だった

1853年、アメリカのペリーが日本に黒船で訪れます。危機を感じた幕府の求めで、斉昭は幕府の政治に参加することになります。

斉昭の考え方は攘夷論に深く根付いたものだったため、当時開国を目指していた井伊直弼と斉昭は対立することになります。

さらに井伊直弼が将軍の跡継ぎまで思い通りにしたこと、朝廷の許可なく、アメリカと貿易をする条約を結んだことで対立はさらに深まっていきます。

結果として、斉昭は井伊直弼から水戸で謹慎するように命じられて、政治の舞台から排除されました。期限なく自宅で謹慎をしなくてはならなかったため、事実上斉昭の政治生命は絶たれてしまったのです。

妻は宮家出身の王女

吉子女王(1804〜1893)
出典:wikipedia

斉昭の正室は登美宮吉子(よしこ)という王女です。有栖川宮織仁親王の末娘であったため、尊王派の斉昭は吉子をことのほか大切に遇し、水戸家では正月になると吉子を上座において新年を祝う習慣があったほどです。

吉子が暮らした水戸偕楽園にある好文亭
出典:偕楽園

15代将軍徳川慶喜は、江戸幕府の幕引きの際、徳川将軍としての立場と、尊王論を掲げる水戸家の立場とで思い悩みました。慶喜は朝敵になることを極度に恐れていましたが、そこには実母の吉子が王女であったことや、幼少期に父が母を敬っていた様子を間近で見ていたことも、大きく影響していたと思われます。

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