徳川斉昭の功績
功績1「藩校・弘道館の創設で身分に関わらず人材を登用」
斉昭が創設した藩校・弘道館は1841年に完成しました。当時、職業は親から受け継ぐ世襲制がほとんどでしたが、弘道館で学問を学ぶことで人々の可能性が広がりました。
弘道館と言えば水戸学が有名ですが、他にも自然科学や武術など幅広い学問を学べました。しかも学問は一生続けるものであるという理由から、弘道館には卒業という考えはなく、若者も老人も同じ場所で勉強をしていました。時間に縛られず、優秀な人材を育てることができたので、斉昭にとっても弘道館は大切な存在だったでしょう。
また、水戸学で重要なのが、「尊皇攘夷」の考え方です。攘夷というのは、侵入してくる敵(明治維新のときには外国人)とは徹底的に戦うという考えですが、斉昭の時代に尊皇の考えが加わりました。
日本の危機には、天皇を敬うことで皆がまとまり、危機を乗り越えるのだという考えは幕末の世の中で多くの人たちに受け入れられました。
明治になってからも水戸学は多くの人たちに讃えられ、明治天皇によって斉昭は徳川光圀とともに茨城県水戸市の常磐神社に祀られることになりました。斉昭の作った弘道館のおかげで、水戸藩は日本で存在感を持つことができたのです。
功績2「民のことも忘れない!偕楽園で皆と楽しむ」
斉昭は弘道館で学び、鍛えることを民に勧めましたが、楽しみ、リフレッシュできる場も必要だとして、梅の花の名所・偕楽園を創設しました。
偕楽園は1842年に開園されました。最初、武士や宗教関係者だけが入ることを許されましたが、その後一般庶民も入ることを許されました。
斉昭は、偕楽園を作ったのは、自分も民とともに楽しむためだと述べていたそうです。偕という字には、ともに、一緒にという意味があることからも、それがわかります。娯楽の少なかった時代に、民にとっての偕楽園の存在は、大きなものだったでしょう。
また、斉昭が偕楽園に梅を植えたのは、美しさを楽しむためだけではありませんでした。乾きを癒し、疲れを取るという梅の実の健康効果に注目していたのです。
そして梅を梅干しにすれば保存が利くため、戦のときの非常食として使えるという考えもあったようです。一石二鳥の名所だった偕楽園は現在も多くの人々に親しまれています。
功績3「江戸を守りたい!大砲と軍艦を進呈した斉昭 」
幕府の求めで政治に参加することになった斉昭。彼はまず幕府に大砲74門と弾薬を献上します(この大砲と同じものが現在も常磐神社で見ることができます)。後には幕府の命で、日本で最初の西洋式軍艦・旭日丸も作るなど、斉昭は日本を守るための備えをしようとしました。
このことからも斉昭は外国と戦おうとしていたことがわかります。日本に不利になる条件で貿易をしなくてはならないなど、諸外国が持ちかけてくる条件は斉昭にとっては我慢がならなかったのでしょう。
この考えで開国派の井伊直弼と対立することになります。当時大きな地震が起こり、斉昭を支える優秀な部下が亡くなるなど、痛手を被ったこともありましたが、斉昭の考えは変わりませんでした。
井伊直弼との対立は、結局斉昭の政治生命を縮めることにつながっていきます。
功績4「朝廷を動かし世論を変えた」
斉昭は、幕末の政局が混乱する中で、天皇を尊ぶ水戸学に基づき、朝廷を巻き込んで事態の収拾を図ろうとしました。200年以上続いた江戸時代において、この発想は画期的なものでした。徳川家康以降、歴代の徳川政権は征夷大将軍という官職を受けることで、朝廷から政治を任されていたからです。
斉昭はもちろん、江戸幕府を倒す意図などは全くなかったわけですが、このアクロバチックな方法は幕府中枢を揺り動かすことができると証明してしまいました。そして最終的に、薩摩藩が倒幕の密勅を引き出して江戸幕府は終わってしまうのです。そういう意味で斉昭は、時代を変える方法を世に示した人と言えるでしょう。
徳川斉昭の名言
何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず
出典などはわかりませんが、今でも多くの人に座右の銘として愛されている名言です。
どんなことでも恥ずかしがらずに、先輩(自分より優れている人)がいるなら、聴いてみよう、という意味なので、新しい世界に入る人に贈りたい言葉です。
斉昭は尊皇攘夷の考えから、外国と戦おうと主張していましたが、積極的に新しいことを取り入れる人物でした。斉昭は自分の人生の中で、自然とこの言葉を得たのに違いありません。
人により危き事いたし候(そうろう)を剛の者といひ、これを用心いたし候を臆病者と嘲り候は、大なる心得違と存候(ぞんじそうろう)。
斉昭の著書・告志篇の中の言葉で、危険なことをする者を強くて優れていると言って褒め、用心深い者を臆病者と嘲るのは考え違いだという意味です。
この後斉昭は父母から生まれ、主君に仕えているなら、自分の身体は自分のものだからと、考えなしに危険なことはできないはずだと述べています。
表面だけではなく、本当に強いのはどんな人物なのかを教えてくれる名言です。
徳川斉昭の人物相関図
徳川斉昭にまつわる逸話
逸話1「女性が大好きで子孫繁栄!しかし問題も」
斉昭の女性好きは有名で、子どもも多く生まれています。その数は37人と言いますから、まさに子孫繁栄です。
しかし問題も起こしています。斉昭は兄嫁の女中に手を出しました。その女中は上臈(じょうろう)という地位に継いており、決して手を出すことは許されない立場でした。兄嫁というのは、11代将軍・徳川家斉の娘で、江戸城大奥の風習をそのまま続けていました。斉昭は大奥(江戸城でのプライベートゾーン・女性が多く生活している)でのタブーを犯してしまったわけです。
その上、セクハラまがいの発言も多く、大奥の浪費にも厳しかったため、城の主でありながら、斉昭は大奥の女性たちからは忌み嫌われていたということです。
ただ、生まれた子どもたちはみな藩主になったり、藩主の妻になったりしました。斉昭の血脈は日本中に広がり、受け継がれていきました。中でも7男の慶喜は幕府最後の将軍になったわけですから、数が多いだけでなく優れた子どもたちだったのでしょう。
逸話2「しつけは厳しく!今なら大問題?」
女性問題は起こしたものの、礼儀作法には厳しかった斉昭。子どもたちはみな江戸ではなく水戸で育てられます。理由は江戸の華美な風俗に子どもたちが慣れてしまわないように、と言うことでした。
37人の子どもたちの中でも、7男の慶喜は幼い頃より聡明で学問にも武術にも秀でてていたために、後継ぎの長男の控えとして斉昭の手元に置かれました。12代将軍・徳川家慶が養子に欲しがったことからも、確かに優秀な子どもだったことがわかります。
ただ1つの難点があるとしたら、寝相が悪いことでした。これを矯正するために、斉昭は慶喜の枕の両側にカミソリの刃を立てたと言います。
一晩中カミソリの刃を立てていたわけではありませんでしたが、寝心地が悪いことに間違いはありません。見事に寝相は治り、慶喜は成人して将軍になってからも、緊張感を保つために、自らこの習慣を続けたそうです。
このようなしつけがなされたからこそ、子どもたちはそれぞれ藩主や藩主の妻となることができたのかもしれませんが、今なら間違いなく大問題ですね。