徳川斉昭の年表
1800年 – 0歳「斉昭、誕生」
次兄と弟が養子に出される
1807年、弟の松平頼筠(まつだいらよりかた)が常陸国宍戸藩(現在の茨城県笠間市)松平家の養子となります。藩主は父・徳川治紀の従兄弟に当たりました。1815年には次兄の松平頼恕 (まつだいらよりひろ)が高松藩(現在の香川県)松平家の婿養子となります。
水戸藩の始まりとなった徳川頼房の長男によって出来たのが高松藩の松平家なので、水戸藩とは縁の深い間柄でした。このように水戸藩では、跡継ぎではない男子でも、どこの大名にでも養子に出すというわけにはいきませんでした。
斉昭は養子に出されることはありませんでしたが、それは優秀な斉昭を養子にしてしまうのが、惜しかっただけでなく、下手なところに養子に出せないという事情もあったのです。
大名家に養子に出すと、幕府の言うことを聞かなくてはならない場合があります。時にはそれが朝廷に楯突くことになるかもしれない、と父の治紀は考えたそうです。このため斉昭は30歳を過ぎるまで、身分が定まりませんでしたが、結果として藩主になるときがやって来るのです。
会沢正志斎(あいざわせいしさい)、彰考館に入る
斉昭の生まれる前の年、会沢正志斎が大日本史(徳川光圀によって作り始められた日本の歴史書)編纂のための施設・彰考館に入ります。
子どものときから、聡明で優秀であると評判が高かった正志斎は、この後水戸学の学者として着々と実績を積み、1821年には藩主・徳川治紀の息子たちの教育係となります。こうして正志斎は斉昭と出会うことになります。
斉昭が藩主になる際も、正志斎が江戸まで出て力を尽くし、藩主になってからは、藩政改革を補佐しました。斉昭にとって正志斎は腹心の部下であり、大切な人物だったのです。
1832年 – 32歳「斉昭、結婚」
藩政改革は斉昭の防衛対策だった
斉昭の藩政改革は、日本に開国を迫ってくる外国の脅威になんとか備えたいとの思いからでした。1834年には蝦夷地(現在の北海道)を開拓させて欲しいと幕府に願い出ています。
それを幕府に拒否されても、斉昭はめげずに1838年に、水戸藩内の豪商に蝦夷地を探検するように命じています。斉昭はロシアが蝦夷地に進出し、日本を狙っているのを知っていて、危機感を募らせていたようです。
また、藩校・弘道館が1841年に完成、身分は低くても優秀な人材なら積極的に登用し、外国からの脅威に備えます。それだけではなく、斉昭は西洋軍隊式の軍事訓練を行い、西洋式近代兵器(大砲など)も製造したのです。
斉昭、強制隠居させられる
斉昭は西洋式近代兵器を作る材料として、寺院の釣り鐘や仏像を使いました。こうして寺院を整理して、代わりに村に神社を置き、それまで寺が行っていた民の戸籍の管理を神官に任せるようにしたのです。
こうした行動が幕府には脅威と映ったのでしょう。斉昭は幕府の命で強制的に隠居、さらには謹慎をさせられてしまいます。
しかし、身分にこだわらずに優秀な人材を登用したことで、斉昭は身分の低い者たちに人気があったのでしょう。身分の低い者たちが、斉昭の復権運動を起こしたことで、1846年に謹慎を解かれ、1849年には藩の政治に再び関わるようになりました。
1853年 – 53歳「黒船来航で幕府の政治に関わるように」
斉昭の幕府での肩書「海防参与」とは
1853年は黒船が日本にやって来ただけでなく、12代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が死の床に着いているという緊急事態でした。ですから、当時の老中・阿部正弘は海防掛(かいぼうがかり)という幕府の海岸防衛について検討する部所を常設にして、斉昭をその相談役・海防参与として招いたのです。
その際、藤田東湖など水戸藩の優秀な人材もともに幕府に招かれ、外国への防衛対策が見直されました。しかし、翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は下田と函館を開港。鎖国は終わりになります。
あくまでも外国とは戦うべきだという考えの斉昭に、それが我慢ができるはずもなく、海防参与を辞任。開国派の井伊直弼との対立が深まることとなりました。
「軍政改革参与」になったけれど
1855年、斉昭は改めて軍政改革参与という役職を与えられます。これは水戸で西洋式の軍事訓練を行い、西洋近代兵器を製造していた実績が買われたものだったのでしょう。日本に西洋式の軍隊を作って、外国からの脅威に対抗したいという幕府の思惑がわかります。
同じ年に江戸一帯を安静の大地震が襲います。この地震により、斉昭の腹心の部下だった藤田東湖が亡くなってしまいました。斉昭には大きな痛手だったはずですが、開国反対の気持ちは変わらなかったようです。
その後、井伊直弼とは将軍の跡継ぎ問題でも対立、直弼が天皇に無断で結んだ日米修好通商条約(不平等な条件でアメリカと貿易をするという条約)についても公然と非難をしたために、結果的に水戸で謹慎するように命じられてしまいます。
さらにこの後、謹慎は一生涯、仕事も外出もしてはならない永蟄居へと変わりました。これにより斉昭の政治生命は絶たれてしまったのです。
1860年 – 60歳「斉昭、死去」
思いがけない死
斉昭は蟄居中に満月を観察。厠に立った後に倒れたそうです。以前から狭心症(心臓に酸素や血液が行かないために、胸に痛みや圧迫感を覚える病気)の症状が現れていたことから、死因は心筋梗塞(狭心症が進んで、心臓が壊死してしまう病気)だったと思われます。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後だったため、仕返しにあったのだと囁かれましたが、当時の調査では否定されています。
肉が大好きだった斉昭。井伊直弼とは対立していたものの、井伊直弼が藩主を務める彦根藩の牛肉の味噌漬けは大好物で、牛乳も毎日飲んでいたそうです。
もしかすると当時としてはコレステロールが高かったのかもしれませんし、長い蟄居生活でストレスが溜まっていたことも原因となったのかもしれません。いずれにしても、現代の私たちと変わらない亡くなり方なので、他人事とは思えません。
桜田門外の変
斉昭が亡くなる少し前に起こったのが、桜田門外の変です。これにより、斉昭と激しく対立していた井伊直弼は暗殺されました。桜田門外の変の実行犯には水戸藩から脱藩した17名が含まれていたために、いろいろと憶測を呼んだのかもしれません。
開国などせずに幕府を立て直すには、井伊直弼を排除するしか方法がないと思った人は多かったのでしょう。
水戸藩側では事の次第を知って大変驚き、関係者は捕まえると明言したそうです。その後脱藩していた関係者は捕まったため、水戸藩は桜田門外の変であらぬ疑いをかけられるなどの被害を被ることはありませんでした。
井伊直弼亡き後も、日本は開国への道を進んで行きます。1867年には、斉昭が望んだ通り、息子の慶喜が将軍になりますが、在職はわずか1年ほどで、260年ほど続いた徳川幕府は幕引きとなりました。
攘夷はうまく行きませんでしたが、明治時代には天皇は人々から敬われる存在となります。もし、明治の世を見たら、斉昭はどう感じたのか、聞いてみたいような気がします。
徳川斉昭の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
最後の将軍 徳川慶喜
徳川慶喜の父としての斉昭の姿が描かれています。女好きの下世話な人物でありながら、慶喜にかける期待の大きさから、男の手で男を育てるべきだと考えた斉昭の姿には、本気の男が感じられ、こちらもワクワクしてきます。
慶喜の不幸は水戸家に生まれたことと感じる人もいるようですが、私は斉昭が父だったからこそ、慶喜は最後の将軍となれたのではないかと思います。
おすすめドラマ
西郷どん
NHK大河ドラマでも、まだ記憶に新しい西郷どん。斉昭を演じたのは伊武雅刀さんでした。底知れない斉昭の姿には、現代の大物政治家もかなわないと思います。
西郷隆盛が斉昭を頼って会いに行く場面がありましたが、斉昭の進歩的な考えを知っていると、なるほどと納得できます。当時、カリスマ的な存在だった言われている斉昭の姿をドラマで垣間見ることができます。
関連外部リンク
徳川家斉-Wikipedia-
徳川家斉とは-コトバンク
偕楽園の歴史|観光いばらき
徳川斉昭についてのまとめ
徳川斉昭の人生を振り返ってみると、生きる力がとても強いことに気が付きます。物怖じせずに新しいものを取り入れるところや、子どもが多いところは力の強さの現れでしょう。きっと現代社会の中に放り込まれても、やすやすと泳ぎきってしまう人物だと思います。
最近は新型コロナウイルスなどの感染症のために、生活が制限されて気持ちが塞いでいる人も多いと思います。そんなときに、斉昭ならどうするだろうか、と考えると解決策が見つかるかもしれません。
尊皇攘夷の考え方が強かったのも、斉昭の日本を守りたい思いの現れでしょう。今の世の中、果たして胸を張って斉昭公にご覧いただけるのか、少し不安になってしまいます。