ローマ皇帝は、古代ローマ帝国において専制的権限を与えられた人物です。主に「アウグストゥス」の称号を受けた初代皇帝とその後継者たちを指します。
この記事で取り上げるローマ皇帝というと、やはり多くの人が思い浮かべるのはユリウス・カエサルやネロではないでしょうか?
長い年月をかけながら地中海世界統一を果たしたローマ帝国は、歴史上最も有名と言っても過言ではありません。しかし、ローマ帝国には名君から暴君まで様々な皇帝が存在しました。また現代では世界的な宗教となっているキリスト教が世に出始めたのも帝政ローマの時代です。
ではローマ皇帝たちはいつの時代に誕生したのでしょうか?そしてどのようにしてローマ皇帝たちは広大な地中海世界を支配下に収めたのでしょうか?
この記事ではローマという大国を築いた名君から暴君までの様々なローマ皇帝たちの人物像や功績、キリスト教との関係について迫っていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ローマ皇帝とはどんな人?
実はローマ帝国にローマ皇帝という具体的な地位や職位があったわけではありません。共和政の時代から続く複数の重要な役職を兼任しており、専制的な権限を既に保有していたオクタウィアヌスに対して元老院がアウグストゥスの称号を与えたことをローマ皇帝の誕生と言っているだけなのです。
「アウグストゥス」の称号は3世紀以降に正帝を意味するようになりますが、オクタウィアヌスの時代には「尊厳者」以外に特に意味はありませんでした。その時代のローマ皇帝という存在は中国の帝政における君主のような役割ではなく、あくまで共和政を尊重する市民の1人としてありました。
並の政治家と比較して多くの職位を1人で集中的に兼任していたこともローマ皇帝の特徴の1つです。また、ローマ皇帝は民衆から人気であり受けが良いかどうかを重視していました。ローマ皇帝はローマ人にとって相応しいかどうかをいつも民衆に見られていたということです。
ローマ皇帝はいつ誕生した?
ではローマ皇帝はいつ誕生したのでしょうか?実は古代ローマは帝政期になりローマ皇帝が誕生するまでに約700年の王政、共和政の時代がありました。
ローマが建国された王政期からローマ皇帝誕生に至るまでの歴史を解説していきます。
ローマ皇帝が誕生する前の古代ローマ
古代ローマは紀元前753年に建国された当時、王政の国家でした。ロムルスなどの伝説として語られる7人の王が治めていた時期で、紀元前509年まで存続していました。しかし、ルキウス・ユニウス・ブルトゥスに打倒されると古代ローマは共和政の時代に入ります。
共和政ローマは元老院と執政官、政務官を中心としながら、民会などにより一般ローマ市民の意思も反映する民主的な時代となりました。そして、貴族であるパトリキと平民であるプレブスによる政治的な身分闘争が巻き起こり、大規模な法の整備が進められます。
その後、共和政ローマは3度のポエニ戦争や東方諸国との戦争に勝利によって領土を拡大し続けます。しかし、領地拡大により共和政ローマの政治機能は国の細部にまで行き渡らなくなり、次第に内部から歪みが生じ始めます。グラックス兄弟が制度改革に乗り出しますが失敗に終わり、100年間ほど続く「内乱の一世紀」の時代に突入しました。
この「内乱の一世紀」が明けた後に帝政ローマの時代が始まります。
帝政ローマは紀元前27年に始まった
「内乱の一世紀」が明けた紀元前27年、地中海世界を統一して帝政ローマを創始したのがアウグストゥスです。アウグストゥスは元々オクタウィアヌスという名前でしたが、ラテン語で「尊厳者」という意味を持つアウグストゥスの名をローマ皇帝の称号として受け取ったことでそう呼ばれます。
アウグストゥスによる統治は共和政の継続という面を持ち合わせていましたが、あくまでそれは暗殺されないための表向きのアピールでした。実際には、プリンケプスという地位でもあったアウグストゥスは執政官と上級属州総督、護民官の権限を保有しており、行政権とローマ帝国軍の統帥権を掌握。さらには最高神祇官にも就いており、宗教上の最大権威者でもありました。
アウグストゥスが表向きに権威をひけらかさなかった理由は、共和政ローマの成り立ちにあります。共和政ローマは王政を打倒し成立した国であるため、帝政を敷くことは保守派の共和主義者から反感を買ってしまう恐れがありました。慎重な性格も相まってアウグストゥスは自身の地位を守るために上手く立ち回っていたことがわかります。
ローマ皇帝誕生の礎となったのは暗殺されたユリウス・カエサル
初代ローマ皇帝アウグストゥスが地中海統一を成し遂げる前の時代、「内乱の一世紀」に帝政ローマ誕生の礎を築き上げたのがユリウス・カエサルです。共和政末期にカエサルはポンペイウス、クラッススと共に三頭政治という政治体制を結成。当時強大な権力を握っていた元老院にも対抗しうる勢力となりました。
その後ガリア遠征で名声を高めたカエサルでしたが、クラッススが戦死したことで三頭政治の体制は崩壊。カエサルはローマ内戦を起こし、元老院と手を結ぼうとしたポンペイウスを暗殺しました。
ローマの支配権を我が物としたカエサルは共和政の改革を始めます。元老院の機能と権威を低下させ、民会と護民官を有名無実化した後、カエサル自身が終身独裁官に就任しました。このようにカエサルが権力の一極集中によって強化した統治システムが後の帝政ローマに引き継がれることとなります。
しかしカエサルの政策は共和政の崩壊を恐れる共和主義者たちに危機感を抱かせ、最終的には暗殺されてしまいました。