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ローマ皇帝はどのような存在?歴史やキリスト教との関係まとめ【名君、暴君なども詳しく紹介】

ローマ皇帝は、古代ローマ帝国において専制的権限を与えられた人物です。主に「アウグストゥス」の称号を受けた初代皇帝とその後継者たちを指します。

この記事で取り上げるローマ皇帝というと、やはり多くの人が思い浮かべるのはユリウス・カエサルやネロではないでしょうか?

古代ローマ最大の野心家と呼ばれる
ユリウス・カエサル

長い年月をかけながら地中海世界統一を果たしたローマ帝国は、歴史上最も有名と言っても過言ではありません。しかし、ローマ帝国には名君から暴君まで様々な皇帝が存在しました。また現代では世界的な宗教となっているキリスト教が世に出始めたのも帝政ローマの時代です。

ではローマ皇帝たちはいつの時代に誕生したのでしょうか?そしてどのようにしてローマ皇帝たちは広大な地中海世界を支配下に収めたのでしょうか?

この記事ではローマという大国を築いた名君から暴君までの様々なローマ皇帝たちの人物像や功績、キリスト教との関係について迫っていきます。

ローマ皇帝とはどんな人?

尊厳者アウグストゥスの称号を得た
オクタウィアヌス

実はローマ帝国にローマ皇帝という具体的な地位や職位があったわけではありません。共和政の時代から続く複数の重要な役職を兼任しており、専制的な権限を既に保有していたオクタウィアヌスに対して元老院がアウグストゥスの称号を与えたことをローマ皇帝の誕生と言っているだけなのです。

「アウグストゥス」の称号は3世紀以降に正帝を意味するようになりますが、オクタウィアヌスの時代には「尊厳者」以外に特に意味はありませんでした。その時代のローマ皇帝という存在は中国の帝政における君主のような役割ではなく、あくまで共和政を尊重する市民の1人としてありました。

並の政治家と比較して多くの職位を1人で集中的に兼任していたこともローマ皇帝の特徴の1つです。また、ローマ皇帝は民衆から人気であり受けが良いかどうかを重視していました。ローマ皇帝はローマ人にとって相応しいかどうかをいつも民衆に見られていたということです。

ローマ皇帝はいつ誕生した?

古代ローマが支配した地中海世界

ではローマ皇帝はいつ誕生したのでしょうか?実は古代ローマは帝政期になりローマ皇帝が誕生するまでに約700年の王政、共和政の時代がありました。

ローマが建国された王政期からローマ皇帝誕生に至るまでの歴史を解説していきます。

ローマ皇帝が誕生する前の古代ローマ

王政ローマを建国した
初代王ロムルスと弟のレムス

古代ローマは紀元前753年に建国された当時、王政の国家でした。ロムルスなどの伝説として語られる7人の王が治めていた時期で、紀元前509年まで存続していました。しかし、ルキウス・ユニウス・ブルトゥスに打倒されると古代ローマは共和政の時代に入ります。

初代執政官に就任した
ルキウス・ユニウス・ブルトゥス

共和政ローマは元老院と執政官、政務官を中心としながら、民会などにより一般ローマ市民の意思も反映する民主的な時代となりました。そして、貴族であるパトリキと平民であるプレブスによる政治的な身分闘争が巻き起こり、大規模な法の整備が進められます。

その後、共和政ローマは3度のポエニ戦争や東方諸国との戦争に勝利によって領土を拡大し続けます。しかし、領地拡大により共和政ローマの政治機能は国の細部にまで行き渡らなくなり、次第に内部から歪みが生じ始めます。グラックス兄弟が制度改革に乗り出しますが失敗に終わり、100年間ほど続く「内乱の一世紀」の時代に突入しました。

この「内乱の一世紀」が明けた後に帝政ローマの時代が始まります。

帝政ローマは紀元前27年に始まった

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス

「内乱の一世紀」が明けた紀元前27年、地中海世界を統一して帝政ローマを創始したのがアウグストゥスです。アウグストゥスは元々オクタウィアヌスという名前でしたが、ラテン語で「尊厳者」という意味を持つアウグストゥスの名をローマ皇帝の称号として受け取ったことでそう呼ばれます。

アウグストゥスによる統治は共和政の継続という面を持ち合わせていましたが、あくまでそれは暗殺されないための表向きのアピールでした。実際には、プリンケプスという地位でもあったアウグストゥスは執政官と上級属州総督、護民官の権限を保有しており、行政権とローマ帝国軍の統帥権を掌握。さらには最高神祇官にも就いており、宗教上の最大権威者でもありました。

アウグストゥスが表向きに権威をひけらかさなかった理由は、共和政ローマの成り立ちにあります。共和政ローマは王政を打倒し成立した国であるため、帝政を敷くことは保守派の共和主義者から反感を買ってしまう恐れがありました。慎重な性格も相まってアウグストゥスは自身の地位を守るために上手く立ち回っていたことがわかります。

ローマ皇帝誕生の礎となったのは暗殺されたユリウス・カエサル

共和主義勢力によるカエサル暗殺

初代ローマ皇帝アウグストゥスが地中海統一を成し遂げる前の時代、「内乱の一世紀」に帝政ローマ誕生の礎を築き上げたのがユリウス・カエサルです。共和政末期にカエサルはポンペイウス、クラッススと共に三頭政治という政治体制を結成。当時強大な権力を握っていた元老院にも対抗しうる勢力となりました。

その後ガリア遠征で名声を高めたカエサルでしたが、クラッススが戦死したことで三頭政治の体制は崩壊。カエサルはローマ内戦を起こし、元老院と手を結ぼうとしたポンペイウスを暗殺しました。

ローマの支配権を我が物としたカエサルは共和政の改革を始めます。元老院の機能と権威を低下させ、民会と護民官を有名無実化した後、カエサル自身が終身独裁官に就任しました。このようにカエサルが権力の一極集中によって強化した統治システムが後の帝政ローマに引き継がれることとなります。

しかしカエサルの政策は共和政の崩壊を恐れる共和主義者たちに危機感を抱かせ、最終的には暗殺されてしまいました。

ローマ皇帝を語る上で欠かせない人物とは

名君と呼ばれた五賢帝

五賢帝時代のローマ帝国領

ローマ帝国最大の平和と繁栄が訪れたのが五賢帝時代です。五賢帝とは、1世紀末に即位したネルウァ=アントニヌス朝の初代皇帝マルクス・コッケイウス・ネルウァから始まり、哲学者としても知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌスまでの5人の皇帝を指しています。

五賢帝の1人目は優秀なトラヤヌスを後継者に選んだネルウァ、2人目はローマ帝国に最大領域をもたらしたトラヤヌス、3人目は国内各地に防壁を建てたハドリアヌス、4人目はローマ史上最も平和な治世を築いたアントニヌス=ピウス、そして5人目はストア派の哲学者マルクス・アウレリウス・アントニヌスです。

アウグストゥスが初代ローマ皇帝となった紀元前27年から五賢帝時代の終わりまでを「パクス・ロマーナ」と呼びます。このように攻めや守りを徹底して平和な世を築き上げた偉人たちが五賢帝です。

暴君と呼ばれた皇帝たち

暴君と呼ばれた皇帝ネロ

暴君として知られる皇帝と言えば、ローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスが挙げられます。ネロ帝が暴君と呼ばれる理由は、キリスト教に対する厳しい弾圧にありました。

ネロ帝の在位中、ローマ市で大火災が発生して町の3分の2が焼かれてしまいます。混乱の中にいた民衆たちの間では、ネロ帝が放火したのではないかという噂が立ってしまい、ローマ皇帝にとって大切な民衆からの信用が失われつつありました。この風評をもみ消そうとしたネロ帝は、ローマ大火の犯人をキリスト教徒だと決めつけ、反ローマの罪で処刑してしまいます。

そして、ローマ帝国第23代皇帝のヘリオガバルスも暴君として知られています。ローマは伝統的に多神教を信仰しているにもかかわらず、ヘリオガバルスはギリシャ神話のへーリオス信仰から派生した太陽神のエル・ガバルを信仰していました。さらには従来の慣習や制度を無視した奇抜な政策や異常な性欲、性癖が後世において良くない評判を生んでいます。

ローマ皇帝とキリスト教の関係は?

キリスト教を迫害したローマ皇帝

キリスト教に対して最大の迫害を行ったローマ皇帝は、「3世紀の危機」と呼ばれている軍人皇帝時代を収めたディオクレティアヌス帝です。ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒の大弾圧は「最後の大迫害」と呼ばれています。

「最後の大迫害」を行った
皇帝ディオクレティアヌス

ディオクレティアヌス帝の時代には以前と比べてキリスト教徒が増加しており、危機感を抱いたディオクレティアヌス帝は、303年にキリスト教徒の強制的な改宗や聖職者の逮捕などを含む勅令を発表しました。ローマ全土で数千人にも及ぶキリスト教徒が処刑され、聖書は焼却、教会も破壊されてしまいます。

元々ローマは伝統的に多神教であり、専制君主制を敷いて皇帝権威再建を図っていたディオクレティアヌス帝の治世だったからこそ起こってしまった「最後の大迫害」と言えます。

キリスト教を国教化したローマ皇帝

過激な迫害を受けていたキリスト教ですが、しばらくするとローマ帝国の国教に採用されることになります。ディオクレティアヌス帝によるキリスト教の大迫害から僅か10年後、313年にコンスタンティヌス1世がリキニウスと共にキリスト教を帝国統治に利用する目的でミラノ勅令を発布。キリスト教を始めとしたすべての宗教を公認としました。

テオドシウス帝の顔が刻まれた硬貨

そして379年、ローマ皇帝となりキリスト教の保護活動を行っていたのがテオドシウス帝です。テオドシウス帝は388年に古代ローマより伝わる宗教の廃絶を求める決議を提起します。元老院もこれに賛成し、ローマ帝国での唯一の宗教となったキリスト教はテオドシウス帝の治世の下で国教化されることになりました。

キリスト教が現在でも様々な地域に強い影響を及ぼしているのは、広大な土地を保有していたローマ帝国が国教としていたからかもしれません。ローマ帝国がバラバラになった後もキリスト教はヨーロッパ世界において欠かせない存在となっていきます。

ローマ皇帝の歴史年表

紀元前60年 ‐ 「三頭政治体制が成立」

第1回三頭政治

第1回三頭政治を行った
グナエウス・ポンペイウス

共和政末期に生じた3人の実力者によって構成された政治体制が三頭政治です。第1回はガイウス・ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススの3人によって紀元前60年に成立しました。

しかしクラッススが戦死したことで三頭政治体制は崩壊。ポンペイウスはガリア遠征で活躍したカエサルに対抗するため元老院に接近しようとした結果、ローマ内戦の末に暗殺されてしまいます。

ローマ内戦を終結させたカエサルは元老院を武力で制圧。徐々に支配力を高めたカエサルは共和政の改革に乗り出します。

ユリウス・カエサルが暗殺される

終身独裁官に就任したガイウス・ユリウス・カエサルでしたが、絶対的な権力を保有したカエサルから出始める君主制を思わせるような発言や振る舞いは共和主義者たちに危機感を抱かせました。

紀元前44年にはローマ元老院議場内でカエサルの愛人の息子マルクス・ユニウス・ブルトゥスや政治家のガイウス・カッシウス・ロンギヌスらによって暗殺されてしまいます。

暗殺された後の時代にもカエサルの名前はローマ皇帝の称号として受け継がれていきました。カエサルが如何に偉大な人物であったかがわかります。

第2回三頭政治

第2回三頭政治を行った
マルクス・アエミリウス・レピドゥス

カエサルが暗殺された翌年の紀元前43年にはガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの3人による第2回三頭政治が成立しました。

カエサル派だった3人による三頭政治は元老院や共和派に対抗するための同盟であり、共和政派の巨頭を次々と粛清しました。

そのため政敵を排除すると、次第に3人の間で権力闘争が始まることになります。最終的に「内乱の一世紀」を終結させ、地中海世界の統一を果たしたのはオクタウィアヌスでした。

紀元前27年 ‐ 「初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生」

紀元前27年、オクタウィアヌスは全特権を返上し共和政への復帰を宣言します。喜んだ元老院は「尊厳者」を意味するアウグストゥスの称号をオクタウィアヌスに与え、初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生しました。

君主制を嫌う保守派の元老院に全特権を返上し、再び譲渡されることでアウグストゥスは共和主義者たちに睨まれることなく共和政から帝政へと移行することに成功しました。

独裁官を名乗ることもしませんでしたが、複数の重要な役職を兼任していたアウグストゥスは結果的にはローマ皇帝としての確固たる地位を確立していきます。

54年 ‐ 「ネロ帝の即位」

ネロ帝の時代に起こったローマ大火

54年、ローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスが即位しました。ネロ帝は暴君として悪名高く、ネロ帝の悪口を言った元老院議員が何人も処刑されています。

特に有名なエピソードはネロ帝によるキリスト教の迫害です。元々ローマは伝統的に多神教の国家だったという背景はありますが、ネロ帝はローマで起こった大火の責任をキリスト教徒に押しつけ、反ローマと放火の罪で処刑を行いました。

キリスト教の迫害はネロ帝によるものが人類史上初めてであり、その後国教化するまでに何度も政府による迫害や弾圧が起こります。

96年 ‐ 「五賢帝時代の始まり」

マルクス・コッケイウス・ネルウァが即位する

96年に即位したマルクス・コッケイウス・ネルウァから続く5人の皇帝が治めた時代が五賢帝時代です。

ネルウァ自身は弱い皇帝権しか持つことができなかったため、ローマ皇帝としての評価は高くないですが、その後の素晴らしい時代を築くことになる後継者を選んだことで五賢帝に名を連ねています。

アウグストゥスが創始した紀元前27年から五賢帝時代が終わりまでの時代を「パクス・ロマーナ」と呼び、ローマ帝国は平和と繁栄を極めました。

ローマ帝国の版図が史上最大となる

ローマ帝国史上最大版図を築き上げた
トラヤヌス帝

ネルウァ=アントニヌス朝第2代皇帝トラヤヌスの時代にローマ帝国は領土拡大の集大成を迎えました。トラヤヌス帝は2つの戦争に勝利したことにより、後世でも語り継がれる皇帝となります。

1つ目はダキア戦争です。2度にわたるローマ帝国とダキア人の戦争で、ローマ帝国はこれに勝利し、ダキアを属州とします。2つ目のパルティア戦争でトラヤヌス帝は東方へ進軍しました。勝利を重ね、領土を拡大しながらついにはペルシア湾にまで到達します。

対外戦争で功績を上げたトラヤヌス帝はローマ帝国の領土を史上最大規模まで拡大させることに成功しました。

193年 ‐ 「セウェルス朝の始まり」

ネルウァ=アントニヌス朝が断絶すると、193年からセウェルス朝が始まりました。五賢帝時代には繁栄を極めていたローマ帝国でしたが、セウェルス朝は帝国が終焉に至るきっかけを作ったと言われています。

ネルウァ=アントニヌス朝の時代には五賢帝がパクス・ロマーナを築いたのに対し、セウェルス朝の時代には2人の暴君が生まれてしまいます。東方の属州に対し略奪や虐殺、迫害を行ったカラカラ帝、奇抜な政策や怠惰な生活、異常なまでの性欲が悪評を呼んだヘリオガバルスは不安定な統治をもたらしました。

次第に政治的安定が維持できなくなり、軍人による反乱が起きた結果、ローマ帝国衰亡の大きな要因となってしまった軍人皇帝時代を引き起こしてしまいます。

284年 – 「ディオクレティアヌス帝が即位」

ディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の4分割統治

「3世紀の危機」と呼ばれた軍人皇帝時代を収めたのは284年に即位したディオクレティアヌス帝でした。ディオクレティアヌス帝は軍人皇帝時代に起きた大混乱の原因となった広大なローマ帝国の統治と防衛の問題を分割統治によって解決します。

ディオクレティアヌス帝による4分割統治

まず広大なローマ帝国領を2つに分け、東方正帝と西方正帝による分割統治を確立します。そして東西の正帝に加えて2人の副帝を任命し、293年には4人の正帝と副帝による4分割統治となりました。

この制度により帝国内は安定を取り戻しますが、ディオクレティアヌス帝の政治手腕に依存する部分が大きかったため、ディオクレティアヌス帝が引退すると再びローマ帝国は混乱期を迎えます。

ディオクレティアヌス帝によるキリスト教大迫害

ディオクレティアヌス帝は4分割統治だけでなく、キリスト教徒に対し最後の大迫害を行ったことでも有名です。ディオクレティアヌス帝は国内の混乱を収拾した後に、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るために民衆に対して皇帝崇拝と共にローマの神々を礼拝することを義務付けます。

しかし徐々に増加してきたキリスト教徒の中からこれを無視する者が現れ始め、ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒に対して強い警戒心を抱くようになりました。そして303年にはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗と聖職者の逮捕などの勅令を発表します。

ディオクレティアヌス帝が最後の大迫害を行った結果、ローマ全土で数千人以上ものキリスト教徒が処刑され、聖書は焼却、教会は破壊され財産も没収されることになりました。

313年 ‐ 「ミラノ勅令」

ミラノ勅令を発布しキリスト教を認めた
コンスタンティヌス1世

313年、西方正帝であるコンスタンティヌス1世と東方正帝であるリキニウスが連名でミラノ勅令を発布します。内容はローマ帝国の全市民に対して信教の自由を保障するというものでした。

実はこの寛容政策の裏にはキリスト教を帝国統治に利用しようというコンスタンティヌス1世の意図がありました。またキリスト教だけでなく、他の全ての宗教も共に公認としました。

ミラノ勅令が発表されたのはディオクレティアヌス帝による最後の大迫害から僅か10年後。広大なローマ帝国を統治するためには柔軟な政策が求められていたことがわかります。

379年 – 「古代ローマ帝国最後の皇帝、テオドシウス帝が即位」

テオドシウス帝によるキリスト教の国教化

異端として迫害を受けていたにもかかわらず政府に公認されるまで民衆の間に浸透したキリスト教でしたが、379年に即位したテオドシウス帝の治世でついにローマ帝国の国教となります。

キリスト教の保護活動を行っていたテオドシウス帝はローマに古くから伝わる宗教の廃絶を求めました。これに元老院が賛成した結果、キリスト教はローマ帝国での唯一の宗教となります。

392年にはキリスト教が東西のローマ帝国において事実上の国教となりました。

ローマ帝国の東西分裂

東西に分裂したローマ帝国

広大なローマ帝国は395年に東西に分裂してしまいます。395年は東西ローマを実質的に1人で支配していたテオドシウス帝が死去した年です。

テオドシウス帝は晩年にローマ帝国を東西に分け、2人の子供に分割統治させます。しかしそれ以降ローマ帝国が1つに戻ることはありませんでした。広い領土を保有するローマ帝国の東西領域を1人で統治できる支配者が1人も現れなかったのです。

ローマ皇帝の称号は中世に引き継がれますが、古代ローマ帝国の最後の皇帝はテオドシウス帝だったという見方もあります。

ローマ皇帝に関するまとめ

今回はローマ皇帝の歴史について解説しました。

ローマ皇帝には、帝国に安定をもたらした名君から混乱を招いた暴君まで様々な人物がいます。また、現在では世界的な宗教となったキリスト教の歴史と深く関わりのあるローマ皇帝は、歴史好きにとって非常に興味深いテーマの1つです。

この記事ではローマ皇帝を中心に考察しましたが、その他のローマ帝国に関する文化や思想について深堀りしてみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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