ローマ皇帝はどのような存在?歴史やキリスト教との関係まとめ【名君、暴君なども詳しく紹介】

紀元前27年 ‐ 「初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生」

紀元前27年、オクタウィアヌスは全特権を返上し共和政への復帰を宣言します。喜んだ元老院は「尊厳者」を意味するアウグストゥスの称号をオクタウィアヌスに与え、初代ローマ皇帝アウグストゥスが誕生しました。

君主制を嫌う保守派の元老院に全特権を返上し、再び譲渡されることでアウグストゥスは共和主義者たちに睨まれることなく共和政から帝政へと移行することに成功しました。

独裁官を名乗ることもしませんでしたが、複数の重要な役職を兼任していたアウグストゥスは結果的にはローマ皇帝としての確固たる地位を確立していきます。

54年 ‐ 「ネロ帝の即位」

ネロ帝の時代に起こったローマ大火

54年、ローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスが即位しました。ネロ帝は暴君として悪名高く、ネロ帝の悪口を言った元老院議員が何人も処刑されています。

特に有名なエピソードはネロ帝によるキリスト教の迫害です。元々ローマは伝統的に多神教の国家だったという背景はありますが、ネロ帝はローマで起こった大火の責任をキリスト教徒に押しつけ、反ローマと放火の罪で処刑を行いました。

キリスト教の迫害はネロ帝によるものが人類史上初めてであり、その後国教化するまでに何度も政府による迫害や弾圧が起こります。

96年 ‐ 「五賢帝時代の始まり」

マルクス・コッケイウス・ネルウァが即位する

96年に即位したマルクス・コッケイウス・ネルウァから続く5人の皇帝が治めた時代が五賢帝時代です。

ネルウァ自身は弱い皇帝権しか持つことができなかったため、ローマ皇帝としての評価は高くないですが、その後の素晴らしい時代を築くことになる後継者を選んだことで五賢帝に名を連ねています。

アウグストゥスが創始した紀元前27年から五賢帝時代が終わりまでの時代を「パクス・ロマーナ」と呼び、ローマ帝国は平和と繁栄を極めました。

ローマ帝国の版図が史上最大となる

ローマ帝国史上最大版図を築き上げた
トラヤヌス帝

ネルウァ=アントニヌス朝第2代皇帝トラヤヌスの時代にローマ帝国は領土拡大の集大成を迎えました。トラヤヌス帝は2つの戦争に勝利したことにより、後世でも語り継がれる皇帝となります。

1つ目はダキア戦争です。2度にわたるローマ帝国とダキア人の戦争で、ローマ帝国はこれに勝利し、ダキアを属州とします。2つ目のパルティア戦争でトラヤヌス帝は東方へ進軍しました。勝利を重ね、領土を拡大しながらついにはペルシア湾にまで到達します。

対外戦争で功績を上げたトラヤヌス帝はローマ帝国の領土を史上最大規模まで拡大させることに成功しました。

193年 ‐ 「セウェルス朝の始まり」

ネルウァ=アントニヌス朝が断絶すると、193年からセウェルス朝が始まりました。五賢帝時代には繁栄を極めていたローマ帝国でしたが、セウェルス朝は帝国が終焉に至るきっかけを作ったと言われています。

ネルウァ=アントニヌス朝の時代には五賢帝がパクス・ロマーナを築いたのに対し、セウェルス朝の時代には2人の暴君が生まれてしまいます。東方の属州に対し略奪や虐殺、迫害を行ったカラカラ帝、奇抜な政策や怠惰な生活、異常なまでの性欲が悪評を呼んだヘリオガバルスは不安定な統治をもたらしました。

次第に政治的安定が維持できなくなり、軍人による反乱が起きた結果、ローマ帝国衰亡の大きな要因となってしまった軍人皇帝時代を引き起こしてしまいます。

284年 – 「ディオクレティアヌス帝が即位」

ディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の4分割統治

「3世紀の危機」と呼ばれた軍人皇帝時代を収めたのは284年に即位したディオクレティアヌス帝でした。ディオクレティアヌス帝は軍人皇帝時代に起きた大混乱の原因となった広大なローマ帝国の統治と防衛の問題を分割統治によって解決します。

ディオクレティアヌス帝による4分割統治

まず広大なローマ帝国領を2つに分け、東方正帝と西方正帝による分割統治を確立します。そして東西の正帝に加えて2人の副帝を任命し、293年には4人の正帝と副帝による4分割統治となりました。

この制度により帝国内は安定を取り戻しますが、ディオクレティアヌス帝の政治手腕に依存する部分が大きかったため、ディオクレティアヌス帝が引退すると再びローマ帝国は混乱期を迎えます。

ディオクレティアヌス帝によるキリスト教大迫害

ディオクレティアヌス帝は4分割統治だけでなく、キリスト教徒に対し最後の大迫害を行ったことでも有名です。ディオクレティアヌス帝は国内の混乱を収拾した後に、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るために民衆に対して皇帝崇拝と共にローマの神々を礼拝することを義務付けます。

しかし徐々に増加してきたキリスト教徒の中からこれを無視する者が現れ始め、ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒に対して強い警戒心を抱くようになりました。そして303年にはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗と聖職者の逮捕などの勅令を発表します。

ディオクレティアヌス帝が最後の大迫害を行った結果、ローマ全土で数千人以上ものキリスト教徒が処刑され、聖書は焼却、教会は破壊され財産も没収されることになりました。

313年 ‐ 「ミラノ勅令」

ミラノ勅令を発布しキリスト教を認めた
コンスタンティヌス1世

313年、西方正帝であるコンスタンティヌス1世と東方正帝であるリキニウスが連名でミラノ勅令を発布します。内容はローマ帝国の全市民に対して信教の自由を保障するというものでした。

実はこの寛容政策の裏にはキリスト教を帝国統治に利用しようというコンスタンティヌス1世の意図がありました。またキリスト教だけでなく、他の全ての宗教も共に公認としました。

ミラノ勅令が発表されたのはディオクレティアヌス帝による最後の大迫害から僅か10年後。広大なローマ帝国を統治するためには柔軟な政策が求められていたことがわかります。

379年 – 「古代ローマ帝国最後の皇帝、テオドシウス帝が即位」

テオドシウス帝によるキリスト教の国教化

異端として迫害を受けていたにもかかわらず政府に公認されるまで民衆の間に浸透したキリスト教でしたが、379年に即位したテオドシウス帝の治世でついにローマ帝国の国教となります。

キリスト教の保護活動を行っていたテオドシウス帝はローマに古くから伝わる宗教の廃絶を求めました。これに元老院が賛成した結果、キリスト教はローマ帝国での唯一の宗教となります。

392年にはキリスト教が東西のローマ帝国において事実上の国教となりました。

ローマ帝国の東西分裂

東西に分裂したローマ帝国

広大なローマ帝国は395年に東西に分裂してしまいます。395年は東西ローマを実質的に1人で支配していたテオドシウス帝が死去した年です。

テオドシウス帝は晩年にローマ帝国を東西に分け、2人の子供に分割統治させます。しかしそれ以降ローマ帝国が1つに戻ることはありませんでした。広い領土を保有するローマ帝国の東西領域を1人で統治できる支配者が1人も現れなかったのです。

ローマ皇帝の称号は中世に引き継がれますが、古代ローマ帝国の最後の皇帝はテオドシウス帝だったという見方もあります。

ローマ皇帝に関するまとめ

今回はローマ皇帝の歴史について解説しました。

ローマ皇帝には、帝国に安定をもたらした名君から混乱を招いた暴君まで様々な人物がいます。また、現在では世界的な宗教となったキリスト教の歴史と深く関わりのあるローマ皇帝は、歴史好きにとって非常に興味深いテーマの1つです。

この記事ではローマ皇帝を中心に考察しましたが、その他のローマ帝国に関する文化や思想について深堀りしてみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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