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イラン革命とは?指導者ホメイニや防衛隊、革命の流れを分かりやすく解説

「イラン革命ってどんな革命?」
「イラン革命と石油危機は関係あるの?」
「イラン革命とアメリカの関係って何?」

この記事をご覧の方は、そんな疑問を持っているかもしれません。イラン革命とは、1979年におきたホメイニを指導者とするイスラム革命のことです。この革命により、イランのパフレヴィー朝は倒れ、イラン・イスラム共和国ができました。

この革命はパフレヴィー朝の「白色革命」が原因で発生しました。シーア派の中の十二イマーム派の法学者(ウラマー)であるホメイニを指導者とする革命で、革命後、イランと欧米諸国、特にアメリカとの関係が悪化します。

今回は、イラン革命の内容やイラン革命と石油危機の関連、革命後のイランの政治についてわかりやすくまとめます。

イラン革命とは

イランの地図

イラン革命とは、1978年から1979年にかけて、中東のイランで起きたイスラム革命のことです。それまでイランを支配していたパフレヴィー朝の皇帝パフレヴィー2世はアメリカに亡命し、かわってイスラム法学者のホメイニが権力を握ります。

革命の直前、イランではパフレヴィー2世による政教分離の近代化政策「白色革命」が行われていました。その裏で、貧富の格差が拡大し庶民はイスラム教シーア派の信仰に基づく生活や政治を望むようになります。

革命後、ホメイニはイスラム教シーア派の協議にもとづく宗教政治を行いました。くわえて、革命政権はそれまでイランの原油を採掘していた国際石油資本から石油資源を取り戻し、石油輸出を減らします。このことが、第二次石油危機の原因となりました。

また、パフレヴィー政権の後ろ盾となっていた欧米、とくにアメリカとの関係は悪化し、アメリカ大使館人質事件により両者の対立は決定的となり現在に至ります。

革命の原因はパフレヴィー朝の「白色革命」

パフレヴィー朝の国旗

パフレヴィー朝とは

パフレヴィー朝は1925年にレザー=シャーが開いたイランの王朝です。パーレビ朝、パフラヴィー朝とも表記されます。初代皇帝のレザー=シャーはカージャール朝の将軍でした。この王朝は1978年のイラン革命まで存続します。

パフレヴィー朝を開いたレザー=シャー

パフレヴィー朝の皇帝は初代のレザー=シャーと息子のパフレヴィー2世の二人です。二人とも、イスラム教と距離を取り、政教分離の姿勢を示しました。父のレザー=シャーは隣国であるソ連やイギリスの干渉を排除しようとして失敗し、退位に追い込まれます。

二代皇帝となったパフレヴィー2世

かわって息子がパフレヴィー2世として即位します。第二次世界大戦中、イランはソ連とイギリスの軍事支配を受けました。戦後、外国軍は引き上げますがイギリスによる石油資源の支配が続きます。

石油を国有化しようとしたモサデグ

1951年、イランの首相モサデグは石油資源の国有化をはかりました。しかし、これを嫌ったアメリカが独裁権力を欲していたパフレヴィー2世を動かしモサデグを失脚させます。この事件をイラン=クーデタといいました。これにより、パフレヴィー朝は皇帝による独裁政権となります。

「白色革命」とは

市民と会話するパフレヴィー2世

独裁権力を手に入れたパフレヴィー2世は、1961年から極端な西欧化政策を始めました。彼が始めた一連の強制的な西欧化政策を「白色革命」とよびます。白色革命の背景には彼を支援するアメリカの要請がありました。

工場を視察するパフレヴィー2世

「白色革命」の内容は、婦人参政権や土地改革、労働者への利益分配などの6項目で、いちおう、国民投票にかけられます。投票結果は90%の賛成でしたが、これは政府による干渉の結果でした。この後、イラン政府は工業近代化などを推し進めました。

ちなみに「白色」の白は皇帝権力を表します。白色革命の実施に伴い、議会は停止され改革に反対する学生やイスラム教シーア派の法学者が政権により弾圧されました。

こうして、白色革命はすすめられましたが、国民生活は一向に楽になりませんでした。なぜなら、石油資源はイギリスやアメリカの国際石油資本に支配され、一部の人しか潤さず、多くの国民が恩恵を受けられなかったからです。その結果、貧富の差が拡大し白色革命の恩恵を受けられない人々は皇帝や政府にたいして反感を募らせました。

しかし、イラン国民の不満の声を皇帝や政府は十分にくみ取ろうとしません。そればかりか、秘密警察を使って反対派を弾圧するようになります。国民は近代化政策に強い不満を抱き、イスラム教の教えを中心とした政治にするべきだと考えるようになります。

指導者ホメイニとは

イランの最高指導者となったホメイニ

ホメイニとは何者か

ホメイニは1902年に生まれました。ホメイニの家はシーア派第7代イマーム(シーア派の宗教指導者)の子孫を称する家です。彼は、幼いころに地元の人間に父を殺され、母や兄に育てられました。成長すると、彼は亡くなった父と同じくシーア派のイスラム法学者となります。

若いころのホメイニ(右から2番目の人物)

1961年に皇帝パフレヴィー2世が「白色革命」を始めると、ホメイニはこれを激しく批判します。彼が白色革命を批判した理由は、白色革命が皇帝独裁を強化するものだったからです。1963年に彼は皇帝を激しく批判し、抵抗運動を呼び掛けたため逮捕されました。

ホメイニがイラクで活動拠点とした聖地ナジャフにあるアリー・イブン・アビー・ターリブの墓。

逮捕されたホメイニは釈放されますが、彼の影響力を恐れた政府は彼を国外追放処分とします。追放されたホメイニはトルコからイラクに移りました。そこから、パフレヴィー2世を激しく非難したのです。やがて、彼は反皇帝・反政府運動のシンボルとなっていきました。

イラク滞在中、ホメイニはシーア派の法学者が信徒たちを導き、政治を行う「法学者の統治(ヴェラヤティ・ファキーフ)を主張します。これはパフレヴィー2世の統治を否定する理論です。ホメイニの影響力を恐れたイラン政府はイラクに圧力をかけ、彼を追放させました。その後、ホメイニはフランスのパリに亡命し、パフレヴィー2世を批判し続けます。

イランで信仰される十二イマーム派とは

イスラム教徒の分布(赤緑がシーア派)

イスラム教は、信者の9割を占めるスンナ派と残り1割のシーア派の2つに大別できます。シーア派はイスラム教の4代目のカリフであるアリーとその子孫だけをイスラム教の開祖であるムハンマドの後継者と考える宗派です。

十二イマーム派が認める歴代イマーム

そのシーア派の中で最大勢力となるのがイランで信仰されている十二イマーム派です。十二イマーム派では、イマームは神と特別な関係を持ち、神の代理として信者を指導すると考えられました。

イラクのサーマッラーにある11代イマームの墓

874年に11代イマームが後継者を指名せず亡くなりました。彼に息子がいなかったからです。11代イマームの兄弟を12代目にしようとする人々に対し、12人目のイマームは弾圧を恐れて隠されたのであって、必ず存在していると主張する人々がいました。

12人目のイマームを「隠れイマーム」と信じる人々のことを十二イマーム派といいます。彼らは苦難を乗り越えた後で12人目のイマームが必ずこの世にあらわれ信徒たちを導くと信じました。

十二イマーム派がイランで盛んになったのは、これを信仰するサファヴィー朝がイランを支配したからです。現在のイランからイラクにかけての地域を領有したサファヴィー朝の支配地域が、ほぼ現在のシーア派の信仰地域と重なります。

イラン革命の流れ

イランに帰国したホメイニ

革命のきっかけとなったホメイニ批判記事

1978年、国外追放されていたホメイニを中傷する記事がイランの新聞に掲載されました。このころ、ホメイニは十二イマーム派の中でも最高位の法学者であるアーヤトッラーの地位にありました。その彼を中傷するということは、十二イマーム派を信じる人々全体への中傷となります。

記事が掲載された後、十二イマーム派の聖地であるゴム(コム)の街では学生たちが大規模なデモをおこしました。イラン政府はホメイニの影響力を落とそうとしたのかもしれませんが、かえって逆効果となり、イラン国民の皇帝や白色革命に対する反感を引き出します。

イラン全土に拡大したデモ

聖地ゴムにあるモスク

ホメイニの中傷記事をめぐり、聖地ゴムで発生した学生のデモは政府によって弾圧されました。イランでは、死後40日に死者を弔う儀式が行われます。そのため、デモの弾圧の死者は弾圧されてから40日後に弔いの儀式が行われました。

すると、その儀式が反皇帝・反政府活動の場になります。それを政府が取り締まり、そのたびごとに犠牲者が出ました。こうして、弾圧による犠牲者は増え続け、彼らに対する弔いが反政府集会と化す現象がイラン各地で見られました。

その結果、デモは日増しに激しくなりました。もはや、武力弾圧で抑えることは難しくなります。政府がデモを弾圧し、死者が増えるたびに各地で追悼集会が開かれ、それが反皇帝・反政府の集会にかわることで雪だるま式にデモがイラン全土に拡大したのです。

皇帝パフレヴィー2世の亡命

反皇帝・反政府のデモが全国に拡大すると、政府は宗教指導者などと対話し、デモの鎮静化を試みました。しかし、1978年9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出す事件を起こすと、国民は皇帝政治の廃止とイスラム国家の樹立を強く要求しました。

皇帝パフレヴィー2世は軍人のアズハーリーや反皇帝派のパフティヤールを首相にするなどなりふり構わず政権の維持を図りましたが、激化するデモを止めることができませんでした。そして、1979年1月16日にパフレヴィー2世はイラン国外に脱出します。

パフレヴィー2世が自ら操縦したボーイング727

このとき、彼は自ら航空機を操縦してエジプトに脱出します。その後、モロッコやパナマ、メキシコと転々と移動し、最終的にアメリカに亡命します。パフレヴィー2世の亡命を受け入れたことで、アメリカとイランの関係が悪化しました。

ホメイニの帰国とイラン・イスラム共和国の建国

パフレヴィー2世の国外脱出を知ったホメイニは亡命先のパリから帰国します。1979年2月1日、ホメイニは15年ぶりに祖国の土を踏みました。ホメイニの帰国で革命熱はさらに高まり、2月11日に首相のパフティヤールが辞任しました。

そして、4月1日の国民投票によりイラン・イスラム共和国の樹立が承認され、ホメイニは終身の最高指導者となります。この地位は、大統領を解任できるイランで最高の地位です。

国民の歓呼にこたえるホメイニ

最高指導者となったホメイニは「法学者(イスラム教の宗教学者)の統治」を実現するため、新たな国家の仕組みを整えます。それにより、アメリカ文化の模倣は否定され、厳格なイスラムの生活様式が復活しました。

ヒジャブを着用するバレーボールのイラン代表選手

裁判ではイスラムの法律であるシャリーアが適用され、映画や文学、絵画といった芸術・文化の面でもイスラムの教えにのっとったものだけが許されるようになります。女性がヒジャブ(ヘジャーブ)という頭髪と肌の露出を避ける服装を義務付けられたのもこの時からでした。

革命後のイランの政治

新共和国の政治のしくみ

現在の最高指導者ハメネイ

ホメイニがつくりあげたイラン・イスラム共和国の政治体制はどのようなものなのでしょうか。まず、最も強い力を持つのは終身制の最高指導者です。最高指導者を選ぶのは国民の選挙で選ばれた専門家会議となっています。現在の最高指導者はハメネイです。

最高指導者はイラン国軍、国軍とは別組織のイラン革命防衛隊の指揮権をもち、司法長官を任命します。また、国民の選挙でえらばれる大統領を解任することも可能です。つまり、最高指導者は行政・司法を完全に抑えているといってよいでしょう。

イラン議会

イランの立法府にあたる議会の議員は投票によって選ばれます。しかし、議会の法案は監督者評議会の承認を得なければなりません。監督者評議会の評議員は最高指導者と司法長官が任命します。ということは、最高指導者は間接的に立法権も抑えているといってよいでしょう。

つまり、イランにおいては最高指導者が三権の上に存在し、国政に強い影響力を与えているといってよいでしょう。

国軍と別に存在するイスラム革命防衛隊の結成

イスラム革命防衛隊の旗

イランには革命前から存在していたイラン国軍と、国軍とは別に最高指導者に直結する革命防衛隊が存在しています。なぜ、一つの国に二つの軍隊が存在するのでしょうか。それは、国軍がクーデタでイスラム共和国を倒すかもしれないと心配されたからです。

もともと、イランにはパフレヴィー朝時代から存在する国軍がいました。しかし、国軍の中にはパフレヴィー2世に忠誠を誓っていた者たちが少なからず存在します。そこで、彼らがクーデタを引き起こさないよう、監視する必要がありました。

そのために作られたのが「イスラム革命防衛隊」です。彼らは最高指導者に直結する部隊です。国軍が35万人前後とされるのに対し、革命防衛隊は20万人弱いると推定されています。革命防衛隊は規模こそ国軍より小さいですが、クーデタを抑えるには十分な兵力でしょう。

暗殺されたソレイマニ司令官

2019年に、日本の海運会社が所有するタンカーが爆破される事件がおきました。この事件に対し、革命防衛隊が関与したのではないかとの疑いがもたれています。その後、革命防衛隊のソレイマニ将軍がアメリカ軍によって暗殺される事件がおきました。

石油資源を国有化し、第2次石油危機を引き起こす

イラン革命が勃発する前、パフレヴィー朝はイギリスやアメリカの国際石油資本に多くの便宜を図っていました。革命が起きると、国際石油資本の人々は混乱から身を守るためイランを脱出します。

イラン政府は、もぬけの殻となった石油採掘施設や国際石油資本が持っていた石油採掘権について、国有化を宣言します。さらに石油資源を保護するとして石油の輸出制限に踏み切りました。このため、石油価格が急騰し世界経済が混乱します。

OPEC(石油輸出国機構の旗)

このとき、中東の産油国で構成されるOPEC(石油輸出国機構)はイランに同調し石油の増産に慎重な姿勢を見せました。そのため、原油価格はますます上昇し世界的な原油不足となりました。このことを第2次石油危機といいます。

東京サミットで使用された迎賓館赤坂離宮

原油の消費国だった日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国の首脳は1979年6月の東京サミットで産油国側を非難する共同声明を出します。さらに、石油の輸入抑制と省エネを訴えました。これにより、先進国の経済は低成長時代に突入します。

アメリカ大使館人質事件の発生

事件のきっかけとなったのは、アメリカがパフレヴィー2世の亡命を受け入れたことです。皇帝のアメリカ亡命を聞いたイランは激しく反発しました。また、このニュースを聞いたイスラム神学校の学生たちは首都テヘランにあるアメリカ大使館を取り囲んで抗議します。

塀を乗り越えてアメリカ大使館に侵入する学生や暴徒

それに対し、イラン政府は何の対応も取りませんでした。アメリカはこれ以上事態の悪化はないと考えデモを放置します。1979年11月4日、学生や暴徒たちは壁を乗り越えてアメリカ大使館に侵入しました。彼らは外交官や海兵隊員らを人質にパフレヴィー2世の身柄引き渡しを要求します。

事件を報じるイランの新聞

このことは、外交官や大使館の安全を保障するウィーン条約に違反することでしたが、当時のイラン指導部はまったく意に介しませんでした。外交官の安全保障という最低限のルールを守らなかったことで、欧米をはじめ世界各国はイランを厳しく批判しました。

人質となったアメリカ大使館員

拘束された人質たちの扱いはとてもひどいものでした。暴力を振るわれただけではなく私物を奪われたり、通信や行動を著しく制限されます。アメリカ政府はイランと交渉を続けましたが、妥協点は見つからず交渉は難航します。

1980年4月、アメリカ軍は人質救出作戦を試みましたが失敗してしまいました。このせいでカーター大統領の任期は急落し、大統領選挙で共和党のレーガンに敗北します。結局、人質は裏交渉の末、1981年1月20日に解放されました。

イラン革命に関するまとめ

いかがでしたか?

イラン革命は1978年から1979年にかけてイランで起きたイスラム革命です。この革命によりパフレヴィー朝は滅亡しました。イラン革命の中心人物となったのがホメイニでした。彼はイランをイスラム教の国として作り直します。

1979年、イラン政府は石油の輸出を制限しました。これがきっかけとなり第2次石油ショックが発生します。この石油危機の影響で先進国の経済は低成長に陥ります。また、同年11月にはアメリカ大使館人質事件が発生し、イランとアメリカの対立は決定的となります。

イラン革命とはどんな革命なのか、イラン革命と第2次石油危機にはどんな関係があるのか、アメリカ大使館人質事件とはどんな事件なのかについて、少しでもそうだったのかと思える時間を提供できたらうれしいです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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