イラン革命とは?指導者ホメイニや防衛隊、革命の流れを分かりやすく解説

革命後のイランの政治

新共和国の政治のしくみ

現在の最高指導者ハメネイ

ホメイニがつくりあげたイラン・イスラム共和国の政治体制はどのようなものなのでしょうか。まず、最も強い力を持つのは終身制の最高指導者です。最高指導者を選ぶのは国民の選挙で選ばれた専門家会議となっています。現在の最高指導者はハメネイです。

最高指導者はイラン国軍、国軍とは別組織のイラン革命防衛隊の指揮権をもち、司法長官を任命します。また、国民の選挙でえらばれる大統領を解任することも可能です。つまり、最高指導者は行政・司法を完全に抑えているといってよいでしょう。

イラン議会

イランの立法府にあたる議会の議員は投票によって選ばれます。しかし、議会の法案は監督者評議会の承認を得なければなりません。監督者評議会の評議員は最高指導者と司法長官が任命します。ということは、最高指導者は間接的に立法権も抑えているといってよいでしょう。

つまり、イランにおいては最高指導者が三権の上に存在し、国政に強い影響力を与えているといってよいでしょう。

国軍と別に存在するイスラム革命防衛隊の結成

イスラム革命防衛隊の旗

イランには革命前から存在していたイラン国軍と、国軍とは別に最高指導者に直結する革命防衛隊が存在しています。なぜ、一つの国に二つの軍隊が存在するのでしょうか。それは、国軍がクーデタでイスラム共和国を倒すかもしれないと心配されたからです。

もともと、イランにはパフレヴィー朝時代から存在する国軍がいました。しかし、国軍の中にはパフレヴィー2世に忠誠を誓っていた者たちが少なからず存在します。そこで、彼らがクーデタを引き起こさないよう、監視する必要がありました。

そのために作られたのが「イスラム革命防衛隊」です。彼らは最高指導者に直結する部隊です。国軍が35万人前後とされるのに対し、革命防衛隊は20万人弱いると推定されています。革命防衛隊は規模こそ国軍より小さいですが、クーデタを抑えるには十分な兵力でしょう。

暗殺されたソレイマニ司令官

2019年に、日本の海運会社が所有するタンカーが爆破される事件がおきました。この事件に対し、革命防衛隊が関与したのではないかとの疑いがもたれています。その後、革命防衛隊のソレイマニ将軍がアメリカ軍によって暗殺される事件がおきました。

石油資源を国有化し、第2次石油危機を引き起こす

イラン革命が勃発する前、パフレヴィー朝はイギリスやアメリカの国際石油資本に多くの便宜を図っていました。革命が起きると、国際石油資本の人々は混乱から身を守るためイランを脱出します。

イラン政府は、もぬけの殻となった石油採掘施設や国際石油資本が持っていた石油採掘権について、国有化を宣言します。さらに石油資源を保護するとして石油の輸出制限に踏み切りました。このため、石油価格が急騰し世界経済が混乱します。

OPEC(石油輸出国機構の旗)

このとき、中東の産油国で構成されるOPEC(石油輸出国機構)はイランに同調し石油の増産に慎重な姿勢を見せました。そのため、原油価格はますます上昇し世界的な原油不足となりました。このことを第2次石油危機といいます。

東京サミットで使用された迎賓館赤坂離宮

原油の消費国だった日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国の首脳は1979年6月の東京サミットで産油国側を非難する共同声明を出します。さらに、石油の輸入抑制と省エネを訴えました。これにより、先進国の経済は低成長時代に突入します。

アメリカ大使館人質事件の発生

事件のきっかけとなったのは、アメリカがパフレヴィー2世の亡命を受け入れたことです。皇帝のアメリカ亡命を聞いたイランは激しく反発しました。また、このニュースを聞いたイスラム神学校の学生たちは首都テヘランにあるアメリカ大使館を取り囲んで抗議します。

塀を乗り越えてアメリカ大使館に侵入する学生や暴徒

それに対し、イラン政府は何の対応も取りませんでした。アメリカはこれ以上事態の悪化はないと考えデモを放置します。1979年11月4日、学生や暴徒たちは壁を乗り越えてアメリカ大使館に侵入しました。彼らは外交官や海兵隊員らを人質にパフレヴィー2世の身柄引き渡しを要求します。

事件を報じるイランの新聞

このことは、外交官や大使館の安全を保障するウィーン条約に違反することでしたが、当時のイラン指導部はまったく意に介しませんでした。外交官の安全保障という最低限のルールを守らなかったことで、欧米をはじめ世界各国はイランを厳しく批判しました。

人質となったアメリカ大使館員

拘束された人質たちの扱いはとてもひどいものでした。暴力を振るわれただけではなく私物を奪われたり、通信や行動を著しく制限されます。アメリカ政府はイランと交渉を続けましたが、妥協点は見つからず交渉は難航します。

1980年4月、アメリカ軍は人質救出作戦を試みましたが失敗してしまいました。このせいでカーター大統領の任期は急落し、大統領選挙で共和党のレーガンに敗北します。結局、人質は裏交渉の末、1981年1月20日に解放されました。

イラン革命に関するまとめ

いかがでしたか?

イラン革命は1978年から1979年にかけてイランで起きたイスラム革命です。この革命によりパフレヴィー朝は滅亡しました。イラン革命の中心人物となったのがホメイニでした。彼はイランをイスラム教の国として作り直します。

1979年、イラン政府は石油の輸出を制限しました。これがきっかけとなり第2次石油ショックが発生します。この石油危機の影響で先進国の経済は低成長に陥ります。また、同年11月にはアメリカ大使館人質事件が発生し、イランとアメリカの対立は決定的となります。

イラン革命とはどんな革命なのか、イラン革命と第2次石油危機にはどんな関係があるのか、アメリカ大使館人質事件とはどんな事件なのかについて、少しでもそうだったのかと思える時間を提供できたらうれしいです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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