イラン革命とは?指導者ホメイニや防衛隊、革命の流れを分かりやすく解説

指導者ホメイニとは

イランの最高指導者となったホメイニ

ホメイニとは何者か

ホメイニは1902年に生まれました。ホメイニの家はシーア派第7代イマーム(シーア派の宗教指導者)の子孫を称する家です。彼は、幼いころに地元の人間に父を殺され、母や兄に育てられました。成長すると、彼は亡くなった父と同じくシーア派のイスラム法学者となります。

若いころのホメイニ(右から2番目の人物)

1961年に皇帝パフレヴィー2世が「白色革命」を始めると、ホメイニはこれを激しく批判します。彼が白色革命を批判した理由は、白色革命が皇帝独裁を強化するものだったからです。1963年に彼は皇帝を激しく批判し、抵抗運動を呼び掛けたため逮捕されました。

ホメイニがイラクで活動拠点とした聖地ナジャフにあるアリー・イブン・アビー・ターリブの墓。

逮捕されたホメイニは釈放されますが、彼の影響力を恐れた政府は彼を国外追放処分とします。追放されたホメイニはトルコからイラクに移りました。そこから、パフレヴィー2世を激しく非難したのです。やがて、彼は反皇帝・反政府運動のシンボルとなっていきました。

イラク滞在中、ホメイニはシーア派の法学者が信徒たちを導き、政治を行う「法学者の統治(ヴェラヤティ・ファキーフ)を主張します。これはパフレヴィー2世の統治を否定する理論です。ホメイニの影響力を恐れたイラン政府はイラクに圧力をかけ、彼を追放させました。その後、ホメイニはフランスのパリに亡命し、パフレヴィー2世を批判し続けます。

イランで信仰される十二イマーム派とは

イスラム教徒の分布(赤緑がシーア派)

イスラム教は、信者の9割を占めるスンナ派と残り1割のシーア派の2つに大別できます。シーア派はイスラム教の4代目のカリフであるアリーとその子孫だけをイスラム教の開祖であるムハンマドの後継者と考える宗派です。

十二イマーム派が認める歴代イマーム
出典:Wikipedia

そのシーア派の中で最大勢力となるのがイランで信仰されている十二イマーム派です。十二イマーム派では、イマームは神と特別な関係を持ち、神の代理として信者を指導すると考えられました。

イラクのサーマッラーにある11代イマームの墓

874年に11代イマームが後継者を指名せず亡くなりました。彼に息子がいなかったからです。11代イマームの兄弟を12代目にしようとする人々に対し、12人目のイマームは弾圧を恐れて隠されたのであって、必ず存在していると主張する人々がいました。

12人目のイマームを「隠れイマーム」と信じる人々のことを十二イマーム派といいます。彼らは苦難を乗り越えた後で12人目のイマームが必ずこの世にあらわれ信徒たちを導くと信じました。

十二イマーム派がイランで盛んになったのは、これを信仰するサファヴィー朝がイランを支配したからです。現在のイランからイラクにかけての地域を領有したサファヴィー朝の支配地域が、ほぼ現在のシーア派の信仰地域と重なります。

イラン革命の流れ

イランに帰国したホメイニ

革命のきっかけとなったホメイニ批判記事

1978年、国外追放されていたホメイニを中傷する記事がイランの新聞に掲載されました。このころ、ホメイニは十二イマーム派の中でも最高位の法学者であるアーヤトッラーの地位にありました。その彼を中傷するということは、十二イマーム派を信じる人々全体への中傷となります。

記事が掲載された後、十二イマーム派の聖地であるゴム(コム)の街では学生たちが大規模なデモをおこしました。イラン政府はホメイニの影響力を落とそうとしたのかもしれませんが、かえって逆効果となり、イラン国民の皇帝や白色革命に対する反感を引き出します。

イラン全土に拡大したデモ

聖地ゴムにあるモスク

ホメイニの中傷記事をめぐり、聖地ゴムで発生した学生のデモは政府によって弾圧されました。イランでは、死後40日に死者を弔う儀式が行われます。そのため、デモの弾圧の死者は弾圧されてから40日後に弔いの儀式が行われました。

すると、その儀式が反皇帝・反政府活動の場になります。それを政府が取り締まり、そのたびごとに犠牲者が出ました。こうして、弾圧による犠牲者は増え続け、彼らに対する弔いが反政府集会と化す現象がイラン各地で見られました。

その結果、デモは日増しに激しくなりました。もはや、武力弾圧で抑えることは難しくなります。政府がデモを弾圧し、死者が増えるたびに各地で追悼集会が開かれ、それが反皇帝・反政府の集会にかわることで雪だるま式にデモがイラン全土に拡大したのです。

皇帝パフレヴィー2世の亡命

反皇帝・反政府のデモが全国に拡大すると、政府は宗教指導者などと対話し、デモの鎮静化を試みました。しかし、1978年9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出す事件を起こすと、国民は皇帝政治の廃止とイスラム国家の樹立を強く要求しました。

皇帝パフレヴィー2世は軍人のアズハーリーや反皇帝派のパフティヤールを首相にするなどなりふり構わず政権の維持を図りましたが、激化するデモを止めることができませんでした。そして、1979年1月16日にパフレヴィー2世はイラン国外に脱出します。

パフレヴィー2世が自ら操縦したボーイング727

このとき、彼は自ら航空機を操縦してエジプトに脱出します。その後、モロッコやパナマ、メキシコと転々と移動し、最終的にアメリカに亡命します。パフレヴィー2世の亡命を受け入れたことで、アメリカとイランの関係が悪化しました。

ホメイニの帰国とイラン・イスラム共和国の建国

パフレヴィー2世の国外脱出を知ったホメイニは亡命先のパリから帰国します。1979年2月1日、ホメイニは15年ぶりに祖国の土を踏みました。ホメイニの帰国で革命熱はさらに高まり、2月11日に首相のパフティヤールが辞任しました。

そして、4月1日の国民投票によりイラン・イスラム共和国の樹立が承認され、ホメイニは終身の最高指導者となります。この地位は、大統領を解任できるイランで最高の地位です。

国民の歓呼にこたえるホメイニ

最高指導者となったホメイニは「法学者(イスラム教の宗教学者)の統治」を実現するため、新たな国家の仕組みを整えます。それにより、アメリカ文化の模倣は否定され、厳格なイスラムの生活様式が復活しました。

ヒジャブを着用するバレーボールのイラン代表選手

裁判ではイスラムの法律であるシャリーアが適用され、映画や文学、絵画といった芸術・文化の面でもイスラムの教えにのっとったものだけが許されるようになります。女性がヒジャブ(ヘジャーブ)という頭髪と肌の露出を避ける服装を義務付けられたのもこの時からでした。

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