イランイラク戦争とは?なぜ勃発した?原因や影響、日本との関係についても紹介

「イランイラク戦争ってなに?」
「イランイラク戦争ってなにが原因で起こったの?」
「イランイラク戦争で日本人に被害が出たのか知りたい!」

この記事をご覧のあなたはこのように思っているのではないでしょうか。

イランイラク戦争は、中東で1980年から1988年まで、8年間に渡って続いた戦争です。イラン革命が発端で、長年くすぶっていたイランとイラクの宗教的な対立や石油資源をめぐる争いが表面に出た戦争とも言えます。

また、イランイラク戦争中には200名の日本人が空爆の危機にさらされました。

そこで本記事では、イランイラク戦争の原因と経過、影響について解説します。そして、イランイラク戦争と日本との関係や、トルコによる日本人救出についても紹介しますので、ぜひご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

イランイラク戦争とは

イランイラク戦争。日本ではなかなか終わらないことから「イライラ戦争」とも呼ばれた

イランイラク戦争とは、1980年から1988年にイラン・イスラム共和国とイラク共和国の間で行われた戦争です。アラブ諸国では第一次湾岸戦争と呼ばれています。日本でも「湾岸戦争」と呼ばれていましたが、1990年代以降はイラクのクウェート侵攻が発端の戦争を指す言葉になりました。

戦争の犠牲者は100万人と推定されており、近代の中東で最も血生臭い戦争です。

イランイラク戦争の原因

石油輸出の要所シャトル・アラブ川の使用権

石油輸出の要所シャトル・アラブ川。
ユーフラテス川とチグリス川の合流地点から
ペルシア湾までを指す(写真右下)

イランイラク戦争の主要な原因として、シャトル・アラブ川の使用権の問題があります。

シャトル・アラブ川はもともとイラクの領土でした。川沿いには石油積み出しの場として重要な、イラク第二の都市バスクがありました。しかし1975年のアルジェ協定により、シャトル・アラブ川の中央に国境線が引かれてしまい、自由に航行できなくなったのです。

これに不満を持っていたため、イラクは次であげるイラン革命をきっかけにアルジェ協定を破棄し、シャトル・アラブ川を再び自分の領地に戻そうと戦争を仕掛けました。

イスラム原理主義の拡散を恐れた

イラン革命(写真中央)ホメイニー

イランイラク戦争の発端となったのは、1979年にイランで起きたイラン革命です。

イラン革命とは、イスラム教の勢力の1つシーア派が中心となって起こった革命です。彼らはホメイニーを指導者に「イスラーム法による正しい政治を行うべきだ」と主張し、勝利します。

革命に成功しましたが、イラン国内は混乱しました。さらに保守派を粛清したため、軍部の司令系統に乱れがあると外国からは見られました。これらは、敵対しているイラクにとって攻めいる絶好の機会となりました。

当時のイラクは、石油危機で高価になった原油を輸出し、莫大な資金を得て軍備拡張に当てていました。そのため、中東最大かつ世界第四位の軍事大国へと成長していたのです。

戦争をする準備ができていたことも開戦の理由に数えられますが、イラクのフセイン大統領は、イラン革命の影響がイラク国内におよぶことを恐れていました。なぜなら、国民の半数がシーア派だったからです。

これらの理由により、イランイラク戦争は、アルジェ協定の破棄による領土回復とイラン革命の拡散を恐れて起こりました。

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